第三章 

  検査室から廊下に出ると、ソファーに座っている充生が見えた。

 彼は空いている場所一面に小さな部品を並べて、カラフルな模型を組み立てていた。病院の向かいにコンビニエンスストアーがあったから、そこで買ってきたのかもしれない。

 忘れかけていた記憶が蘇る。

 康生がショッピングセンターの地下で同じようなひたむきさでペンギンを組み立てていた日のこと。あれから六年の月日が流れた。

 なんだか嘘のよう、と真帆は思った。

 こんなにも遠くへ来てしまったなんて。あの日と今日を隔てる距離を思うと、目眩がしてきそう。 

 真帆はゆっくりと歩き出した。硬質な足音が暗い廊下を渡っていく。

 時は流れない。ただそこに在る。そんな考え方があるのも知っている。康生の蔵書の中には、時間に関する哲学や物理学の本がいくつもあった。十のうちのひとつも理解できたとは思えないけれど、それでも印象的な言葉は憶えている。

「私は過去、現在と未来が私の前に一挙に存在しているのを見る」

 誰の言葉だったかしら。そんなふうに見えたらいいのに、と思ったのを憶えている。

 あの瞬間、わたしがビニール袋を両手で持ちながら、あのひとを見ていた、あのとき。

それは琥珀の中に閉じこめられた小さな虫のように、いまもどこかにひっそりと残されいてる。もしそれが真実なら、どれだけ心が慰められることか。

 見ることはできない。けれど、それはそこに在る。

 あの日といまのあいだには、目に見えない高い壁がある。決して超えることのできない厚く高い壁。でも、その壁に耳を寄せ、じっと澄ませば、なにかを感じることができるかもしれない。二十四歳のわたしと康生さん。あの恥じらい、ときめき、喜び。

 そう――これは記憶ではなく、あの場所から届けられた真の感情なのかもしれない。

 わたしたちはそこにいた。そして、いまもそこにいる。

 琥珀に閉じこめられた愛しい瞬間。その重なりでわたしの人生はつくられている。愛したこと。愛されたこと。自分と同じぐらい大事なひとと一緒に過ごした日々。

 あのマルタの町と同じ。一度つくり上げられた作品は、ずっとそこに在り続ける。果てがないほど広い誰かのリビングの棚には、そんな作品がひとの数だけ置かれているのかもしれない。

 終わりじゃなく完成。そう思えば、気分はずいぶんと楽になる。

 真帆は充生が座るソファーの手前で立ち止まった。彼は夢中になって模型を組み立てている。模型は鳥のようにも恐竜のようにも見える。あるい前屈みになったペンギンのようにも。

 充生は真帆に気付いていない。相変わらずの呆れるほどの熱中ぶりだ。

 ここがサバンナでなくて良かったね。心の中でそう呟き、小さく溜息を吐く。

 そろそろ声を掛けようかと思い、彼女がさらに一歩踏み出した瞬間――


(ぼくのマホてぃん――)


 充生の声が頭のすぐ後ろで響いた。驚いて立ち止まり、彼の顔を見る。口は閉じられている。ぴったりと合わされた唇のあいだからは、ぷつぷつと泡が弾けるような音が漏れ出ている。

 後ろを振り返る。誰もいない。それに――あれは間違いなく充生の声だった。

(ぼくのマホてぃんを――)と声が再び言った。

 すごく不思議な気分だった。頭のすぐ後ろに小さなスピーカーがあって、そこから聞こえてくるよう。


(マホてぃんを助けて)


 よく見ると充生は模型を組立ながら涙を流していた。きつく口を結び、身体を前後に小さく揺すりながら、彼は誰かに祈っていた。


(ぼくは、マホてぃんに生きてもらいたい。好きだから。まほてぃんを愛しているから、だから――)


 マホてぃんを、と声は言った。


(助けて。ぼくのそばから連れて行かないで)


 真帆はゆっくり彼に歩み寄ると、散らかされた部品を箱に戻しそこに座った。彼女に気付いた充生が濡れた目を袖で拭った。恥ずかしいのか目を合わせようとしない。彼女は黒いウェストポーチからハンドタオルを取り出し、彼に手渡した。充生はそれで鼻の下を拭った。

 真帆は充生の腿に手を置き言った。

「ねえ」

 うん、と充生が応えた。

「わたしね」

「うん」

「すごくいいこと聞いちゃった」

「なに?」

「まあ、すごくいいことよ」

「うん」

「ずっと、言って欲しかったこと」

「そうなの?」

「そうよ。六年も待たされたの」

「なんて言葉?」

「秘密」

「うん」

 それからしばらくして、充生が再び訊ねた。

「誰から?」

 真帆は微笑むと充生の頬にキスをした。頬は熱を帯び、少しだけ濡れていた。

「私の大好きな人から」

 そして、勢いよく立ち上がる。

「こんな奇蹟が起こるなら」

 真帆は言った。

「わたしたちの願いなんて、ささやかなものよね。きっとかなうはず」

「そう?」

「うん」

 真帆は大きく伸びをすると、振り返り充生を見下ろした。

「ねえ、充生」

「うん?」

「うちに帰ろう」

 彼は頷き、慌てて模型を片付け始めた。箱に収まりきらないパーツをポケットに押し込み、歩き始めた真帆を追いかける。

 彼女が廊下の角を曲がろうとしたところでようやく充生が追いついた。




 ねえ、充生。 

 うん。

 あなた、こっそりとわたしのことマホてぃんって呼んでない?

 うん?

 正直に言いなさいよ。

 呼んでないよ。

 ほんとに?

 ほんとだよ。

 わたしの目を見て言える?

 言える――

 じゃあ、見て。

 うん……

 ほら、ちゃんと見て。

 マホちゃん――

 なに?

 マホちゃんの目、とっても可愛いね。

 え――

 可愛いよ、マホちゃん。

 ……

 マホちゃん?

 他に言う言葉は?

 言葉?

 そう。いま充生の心の中にある言葉。『あ』から始まるの。

 うーん……

 ね? ほら、あるでしょ?

 ないよ。マホちゃんは可愛い。それだけ。

 ふう……

 なに?

 あなた頑固ね。

 そう?

 まあ、いいわ。いつか言わせてあげるから。

 うん。

 あなたがおじいさんになって、わたしがおばあさんになったとき。

 うん。

 その時には聞かせてね?

 うん――いいよ。

 約束よ。

 うん、約束。 

 じゃあ、指切り。

 うん。


 ゆびきりげんまん、うそついたら……


                                  了

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ぼくのマホてぃん 市川拓司 @TakujiIchikawa

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