土曜日の朝、ふたりは一緒に家を出た。ドレスとレンタルした充生のタキシードは真帆の父親が車で運んでくれる。妹と母親、それにオーナーもその車で教会に向かう。参列者はそれだけだ。披露宴もなし。式のあと、教会でささやかな茶会が開かれることになっている。真帆にはそれでも充分すぎるほどのプレゼントだった。


 電車が走り出すと、すぐに充生がそわそわし始めた。

「大丈夫?」

 彼は頷いた。

「うん、興奮しているだけ」

「ならいいけど」

 明らかに充生の緊張が高まったのは、いつもの電車から長距離列車に乗り換えたときだった。

「うわ、すごいな」

 彼は座席や天井を見上げてはしゃいでいたが、すでに手が冷たくなっていた。真帆は彼の手を握り、強くさすった。

「大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ。ただ――」

「なに?」

「ちょっと、息苦しいかな」

「窓空ける?」

「うん、ほんの少し」

 外気は冷え切っていた。

「真帆ちゃん寒くない?」

「わたしは大丈夫よ」

「うん」

 一番の試練が駅間が一三分あるこの区間だった。これを乗り切れば、きっと楽になるはず。

 充生は落ち着きの失せた目で外の景色を見ている。真帆はそのあいだもずっと彼の手をさすり続けた。

「ありがとね」と彼女は充生に言った。

「うん?」

「こんなふうにさ、わたしのためにしてくれて」

 ぜんぜん、と彼は照れたような顔で言った。

「大したことしてないよ。真帆ちゃんが嬉しければ、ぼくも嬉しいんだ。自分のためだよ」

「そう?」

「うん」

 電車は区間の中間点を越えようとしていた。低い山の連なりを背にした田園風景が続く。

「真帆ちゃん、寒くない?」と充生がまた訊ねた。

「平気よ」

 本当は寒かった。でも堪えられないほどじゃない。充生は吹き込む風に目を細めている。このままがいいらしい。

「この風景知ってる?」

 充生が訊いた。

「なんとなく。最後にあの町に戻ったのは、小学校の五年生ぐらいのときだったから」

 じゃあ、と充生が指を折って計算した。

「二十年ぐらいぶり?」

「そうね」

 牧師さんがまだ元気なことは充生から知らされていた。今回の段取りを決めるために、彼は何度も教会に電話を入れていた(あの電話嫌いの充生が!)。

「楽しみだわ」

 真帆は言った。

 冷えたせいか、またお腹が痛くなってきた。ここしばらく遠離っていたのに。

 彼女の表情の変化に気付いた充生が立ち上がり、窓を閉めた。

「あ、いいのに」

「うん、もう平気。息苦しさは治った」

 嘘ではないらしい。視線が落ち着き、顔色も良くなってきた。

「強くなったね」

「そうかな?」

「うん」

 充生が照れ臭そうな笑顔を見せた。

 ほどなくして列車が駅に到着した。充生の手を握ってみると、かなり温もりが戻っていた。

「もう大丈夫みたいね」

「うん」

 真帆ちゃんは? と充生が訊ね返した。

「お腹痛い?」

 ちょっと、と言って真帆は親指と人差し指で小さな隙間をつくった。

「いつものことよ」

 充生はそれでも心配げな顔で真帆を見ている。彼女はふざけて首を揺らしてみせた。ベルが鳴り、充生は窓の外に視線を移した。

 やがてドアが閉まり、列車が動き出した。あと二十分ほどで目的の場所に着く。真帆が生まれ育った町。

 一緒に千代紙を集めたなみえちゃん、高鬼をして遊んだあきちゃんやひろくん、みんなまだあの町にいるのだろうか。会ってみたい気もするし、なんだか会うのが怖いような気もする。

 ずきん、と背中に痛みが走る。身を強ばらす真帆を見て充生が訊いた。

「なに?」

「うん、大丈夫よ」

 今度は充生が真帆の冷たくなった手をさする。

「もう少しで着くからね」

 充生の言葉に真帆は思わず笑ってしまった。

「逆になっちゃったね」

「そうだね」

 痛みは退く気がないらしい。ひとしきり気ままに暴れると、すっと気配を隠すが、またすぐに顔を出す。その間隔が徐々に短くなっているような気がする。陣痛って、こんな感じなのかしら、と真帆は思った。ならば堪えられるはず。女性はみんなこの痛みを乗り越えて子供を残してきたのだから。

 列車が鉄橋に差し掛かった。鉄の響きが耳に障る。胸が悪くなるような音。

「真帆ちゃん?」と充生が訊ねた。

 答える力がなく、ただ小さく頷く。

「顔色が悪いよ。大丈夫?」

 平気、と唇の形だけで言う。でも、平気じゃない。痛みはますます強くなっていく。脈が上がり、息が浅く早くなる。脂汗が額に滲んできた。

 充生は片方の手で真帆の冷たくなった指を握り、もう一方の手で彼女の背中をさすった。

 鉄橋が過ぎ、それとともに痛みがすっと遠のいた。

「充生」と彼女は言った。

「うん」

「ごめんね」

 ん? と充生が真帆の口元に耳を寄せた。

「ごめんね」と彼女は再び言った。

「なんで?」

「駄目かもしれない」

「なにが?」

「うん」

 次の波が来たら堪えられないかもしれない。せっかくみんなで用意してくれたプレゼントなのに。よりによって今日というこの日に、こんな大きな痛みが来るなんて――

 涙で視界が揺れた。

 痛みになる前の小さな違和感が下腹に広がる。

「ごめんなさい――」

 それだけ言うと、真帆は身を折り充生の腿に額を押し付けた。彼女はきつく目を閉じ、寄せ来る大波を待ち受けた。

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