*


 彼を連れ去ったのはハンガリーのジャーナリストからの英文の手紙だった。


 茜が病気でかなり深刻な状態に陥っている。風土病にかかり高熱が下がらない。ついては、こちらまで足を運び、彼女を見舞ってもらえないだろうか?


 そこで、急遽飛行機のチケットを取り、康生がヨーロッパに向かうことになった。

「行ってきます」と彼は言った。

 顔が蒼白で、額に脂汗が浮かんでいた。彼が飛行機に乗るのはこれが初めてだった。

「睡眠薬を使います。ぐっすり眠っていても、命を狙うような獣は襲ってこないでしょう」

 彼はそう言って弱々しい笑顔を見せた。

「いってらっしゃい。気を付けてね」

 彼女はキスしたいのを我慢して、康生の手の甲の静脈をそっと指先でなぞった。


 結局、これが彼と交わした最後の言葉となった。


 確かに獣はいなかった。けれど、飛行機は洋上で失速し、彼は他の百二十七人の乗客、乗務員とともに、夜の森よりも暗い海の底に沈んでしまった。燃料と機体の一部が見つかっただけで、犠牲者はひとりも発見されなかった。


  知らせを受けたとき、真帆はワンピースの胸がぐっしょりと濡れるほど涙を流した。プリントされた空色の花が涙で浅葱あさぎ色に変わった。


 康生さん、あなたは嘘つきだわ。


 泣きながら彼女は心の中で康生を責めた。

 ぼくらは長生きしますよ、って言ったじゃない。わたし、すごく嬉しかった。愛の言葉と同じくらい嬉しかった。なのに、なんで――

 


 康生がヨーロッパに旅立つ前日に、ふたりは初めてセックスをした。彼は真帆が思っていたよりもはるかに力強く、そしてタフだった。十四歳の少年のように瑞々みずみずしい活力に溢れ、、やはり十四歳の少年のようにどこか覚束ないところがあった。それは彼女が想像していた三十八の男とはずいぶん違っていた。世の中には、と彼女は思った。見てみないと分からないことって、ほんとにたくさんあるものね。


「何度やっても初めてのような気がするんです」と彼は言った。

「記憶力の問題かな。最後にセックスしたのが、もう五年以上前だから」

「私は初めてです」

 彼は頷き、真帆の頬に手を置いた。

「痛かったでしょう」

 彼女は、そのことよりもシーツについた染みが気になっていた。あとで洗わなくては。

「男の人って、みんなこうなんですか?」

 彼女は訊いた。

「こうって?」

「もう、六時間ですよ」

 昼前からベッドに入り、もうすぐ充生が仕事先から帰ってくる時間になっていた。

 他の人のことは知らないけど、と彼は言った。

「ぼくは亀派ですからね。耐久型なんです」

 彼女は大仰に溜息を吐いて見せた。康生は笑ったが、その視線は真帆の露わになった胸に注がれていた。まったく、と彼女は思った。たいしたひとだわ。


 それでもセックスはセックスだった。ごくノーマルな。いささか時間が長いかもしれないが、渇望期間を考えれば、それも範囲内だった。特別なのは、初めてのセックスと最後のセックスが重なったという点だった。体験は引き継がれ、彼女はやがて、彼の息子と幾度も身体を重ねることになる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る