真帆は少しずつ彼らに馴染んでいった。


 夕刻に訪れ、料理を作る。それをダイニングのテーブルで一緒に食べ、食後は三人でリビングのソファーに座ってTVを見た。ソファーの向かいの壁には康生の仕事机があり、TVはその隣の棚に置かれていた。十四インチの小さな画面で、ときおり全体が緑色に染まることがあった。

「これ、壊れてないですか?」と真帆が訊くと、ときどきね、と康生は答えた。

「でも、たいていは健康です。人間と一緒」

 彼らが好んで見る番組にはひとつの傾向があった。何かをつくる。それは、料理でもログハウスでもかまわない。あるいは折り紙でもバルーンアートでも。園芸のプログラムも欠かさず見ていた。ふたりとも植物は好きなようで、庭木が勝手に枝を伸ばしているのは、それが彼らの望む形だからということらしい。他者に干渉しないのが、彼らのやり方だった。


 九時を過ぎると、ふたりとも目を擦り始めるので、そろそろ家に帰ることにする。彼らはおそろしく早寝だった。十時前にはベッドに入ってしまう。充生が受験に備えている様子はまったくなかった。康生の言葉どおり、これ以上世界を広げるつもりはないらしい。

 帰りは康生が送ってくれた。十分の道程なのだから、ひとりでも大丈夫と言ったのだけれど、彼は必ず付き添ってくれた。いつの頃からか、ふたりは手を繋ぐようになった。それは別れ際のキスを経て、やがってセックスへと至る長い前戯の始まりだった。

 彼女は、康生に惹かれていたが、それと同じくらい、この家を愛するようになっていた。

 この場所が好きだった。穏やかで控えめな父子。緑に包まれた仄暗い空間。窓から差し込む斜めの光。顔料の匂い。漂う小さな塵。風に揺れる球体凧。


 午後の早い時間に訪れたときには、仕事をする康生の背中を見ながら、棚から抜き出した本のページをめくることもあった。彼女はダーウィンフィンチやイングリッシュローズの図版と康生の背中を交互に眺めながら、どちらにも深い感動を覚えていた。

 いまではコンピューターが主流になっているんだけど、と言いながら、彼は昔ながらの製図台に向かって仕事をしていた。玩具の取扱説明書。そしてときおり、カタログや専門書に載せるための立体組立断面図をカラーで描くこともあった。



        *



 やがて、初めての訪問から半年が過ぎ、充生が高校を卒業した。彼は隣町にある業務用の精密ジオラマを制作する会社に就職した。

「職人の家系なんです」と康生は言った。

「ぼくの父親も職人でした。看板やら旗やら、とにかくデザインして彩色する仕事をよろず請け負っていたんです」

 充生は電車は使わずに、雨の日でも自転車で職場に通った。不思議に思い康生に訊ねると、彼は少し悲しそうな顔をした。

「息子は乗り物に乗るのが苦手だから」

 電車だけでなく、と彼は言った。

「車もエレベーターも怖い。じつはぼくも同じです。頭の中の何かが欠けているか(彼はこめかみのあたりで左手をひらひらさせた)、あるいは過剰なのかもしれない」

 真帆が黙ったままでいると、康生は少し考えてから、さらに続けた。

「ひとことで言えば(そこで彼は髪を掻き上げた)、ぼくら親子は度を超えた亀派なんだと思います」

「カメハ……」

 彼は頷き、それから人差し指を立て唇を舐めた。

「そう――ある、小説があって」

 古いSFです、と彼は言った。

「宇宙船で生まれた子供たちは十四歳になると試験を受けなくてはならない。見知らぬ星に降り立ち、そこでひと月生き延びる。一種の通過儀礼ですね」

「ええ……」

「そこで子供たちが取る方法は二つあります」

 彼は真帆に手の甲を見せ、中指と人差し指を立てた。親指も立っていたから、三つなんじゃないのかと思ったが、何も言わずに頷いて先を促した。

「虎式と、そして亀式」

「ああ、亀、ですか」

「そう。亀は穴を掘ってそこにこもり、トラブルを避け、じっと期日が来るのを待つ。虎式は、まあ、すべてにおいてその逆ですね」

「で、康生さんは亀」

「充生もぼくも亀です。どこにも行かない。現状維持。リスクを避け、安定を望む」

「でも、多くのひとたちが、そんなふうにして生きてるんじゃないですか?」

「はい、きっとそうだと思います。ぼくらは、その度合いが高いだけだと」

 わたしもそうです、と言いたかったが、真帆はただ黙って頷くだけに留めた。

「恒常機能ってあるでしょ?」と康生が言った。

 真帆は頷き「ホメオスタシス」と返した。

 おぉ、と康生が大袈裟にり、彼女はくすくす笑った。

「そう、そのホメオスタシスとよく似ているんです」

 問うように首を傾げると、康生が左の眉をくっと引き上げた。微かに笑みを浮かべる。

「生体でなく環境を一定に保とうとするわけです。なにも変えたくない。神経や内分泌が生体に働きかけるように、ぼくらは自分の環境に働きかけるんです。変わるなよ、変わるなよって」

「ああ、そうか……」

「それが、自分の生存確率を高めると信じているんでしょうね。亀派としては」

「ええ」

「そう、すべては生存確率なんです。ただ、現代版にアップデートされていないだけで、ぼくらの振る舞いは、きっとそこに理由がある」

「なんだか、おもしろい話ですね」

 彼は微笑み、両手を擦り合わせた。

「早い時間にベッドに入るのもそうです。ちょっと前まで夜の世界は危険に満ちてましたからね。夜は自分のねぐらから出ないほうが賢明です。そのくせ、ぼくら親子は眠りが浅く、夜中に何度も目を覚ましてしまう。でも、深く寝入って外敵に気付かないよりも、このほうがきっと生き延びやすいはずです」

 たぶん、と彼は続けた。

「乗り物が苦手なのも、その辺りに理由があるんだと思っています。すぐには逃げ出せない状況に置かれるのが怖いのかもしれない」 

 ぼくらは長生きしますよ、と言って彼は笑った。

 真帆はその言葉が嬉しかった。

 愛って「生きて欲しい」って強く願うことなのかもしれない。彼女はそんなふうに思った。母親が子供を育てるのも、恋人が相手の身体を気遣うのも、愛があるから。


 真帆は、このほんの十日後に自分が康生を失うなんて夢にも思っていなかった。喪失の予感は愛の始まりとともにあったが、それを真剣に受け止めるには、彼女はまだ若すぎた。


 だから、とても幸せで、この日々がずっと続くものだと信じていた。

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