*


 その日から、真帆は伊田家をたびたび訪れるようになった。彼女はまだ仕事をしていなかったから時間はいくらでもあった。でも、無遠慮に振る舞ってはいけない。彼らはいつでも歓迎してくれたが、変化を好まないふたりが、真帆に慣れるまでには時間が必要なはずだった。訪問のタイミングは無造作に見えて、彼女なりに考え抜いたものだった。最初は週末だけ。それが週二回になり、やがて週三回になった。


 康生と充生は五年間ふたりだけで暮らしていた。茜が家を出たのは、充生が中学一年のときだった。

 真帆は彼女の写真を見せてもらった。庭に立つ茜。バーゴラの下でシャベルを持ち、軍手の甲で額の汗を拭いている。髪は長く、丸みのある富士額ふじびたいを露わにしている。鋭角的な眉、厚い唇、日に焼けた肌。

「綺麗な方ですね」

 真帆が言うと、はい、と康生が応えた。

「とても綺麗な女性です。バランスがいいんです。彼女のいたるところに黄金比が見られる」

 わたしにもどこかに黄金比があるんだろうか、と真帆は思った。彼女はいままでに三度だけ「可愛いね」と言われたことがあった(父親の言葉はカウントせずに)。自分がとても微妙なラインにいることは分かっていた。


「庭が好きだったんですね」  

 真帆は言った。

「そうですね。好きでした。彼女が外の世界に出て行くきっかけになったのも庭でしたから」

「庭が?」

「そうです」

 彼は右手の人差し指と中指を三度ほど擦り合わせた。特に意味のないことは知っていた。単なる接続詞のようなものだ。

「イギリスの湖水地方を旅して、それからです」

「ああ、ピーターラビット」

「そう、ピーターラビット」

「綺麗な庭がいっぱいありそうですもんね」

「あります。あとで写真を見せてあげます。彼女が撮ったものですが」

「ええ……」


 こんなふうに、康生は様々な形で元妻と繋がっていた。熱を帯びた感情は、少なくとも表面的にはすでに過去のものとなっていた。けれど、無意気のレベルでは、彼はいまだに茜の影響下にあった。息子の充生はあまり多くを語らず、いつも遠目に真帆を見ていたから、彼が家を出た母親をどのように思っているのかは、よく分からなかった。

 気にしても仕方ないことだし、もとより真帆が茜の代わりになれるはずもなかった。彼女の幻影を追いやり、そのポジションに収まることは、真帆の望むところではなかった。彼女は彼女なりの居場所を、この家の中に見つけようとしていた。

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