第7話 豊臣秀次事件

細川家筆頭家老、松井康之様の目線から


文禄4年(1595年)5月、太閤様の配下が関白様の事を執拗に嗅ぎ回っている。雲行きが怪しい・・・と森口から知らせが来た。

秀頼様が生まれた今、秀次様を引きずり落とす為の調べだとしたら・・・秀次派と疑われたら細川が危ない。秀次様に借りた黄金200枚、表になる前になんとかしなければ・・・


太閤秀吉様が朝鮮出兵等されなければ借りる事も無かった黄金200枚、借りる先が無くて秀次様にお借りした。こんなことになるとは・・・理不尽なことだ・・・


「黄金200枚、すぐにも用立ててくれる先はあるか。」

「太閤様や石田様に知られずに用意するとなれば、茶屋でしょうか。」 

「茶屋四郎次郎か・・・」

「はい。ですが茶屋の後ろには徳川様が居られます。覚悟を決めて掛からねば相手にして頂けないかと・・・」

「茶席を設ける時間は無い。当たって砕けろ・・・茶屋に当たってみよ・・・覚悟は出来ている。」

忠興様のお気持ちも定まった。これより先は松井康之、腹をくくって動くのみ・・・


  *****


徳川秀忠家老、大久保忠隣様の目線から


7月4日夜半、森口から使いの者が来た。

「本来なら松井様からお知らせすべき所、急を要するので約定に従い直接伺った。」と言い書状を置いて帰った。

書状には明日、7月5日、秀忠様に聚楽第よりお召しがあると書かれていた。

夜明けを待って秀忠様には伏見下屋敷へ移って頂いた。


秀次様に太閤様との間を取り持って欲しいと言われても遅すぎる。成り行きに寄っては徳川が危ない。最悪、秀忠様が人質にされる事もありうる・・・間一髪であった。

それにしても細川の情報収集力には驚かされる。


黄金200枚、急げと伝えよ・・・


  *****


7月15日、秀次様切腹。8月2日、幼子共々眷属39名を処刑。その後も家来衆の切腹、処刑が続いた。まこと痛ましく吐き気を催す事件であった。


徳川様の取りなしもあり、黄金200枚、豊臣家に返却で事は終わった。

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