第7話「初陣」

 浅草六区から北西へ徒歩で三十分。深い夜の海に沈み、人気のまったくない上野公園を抜けて幸と藤堂が辿り着いたのは帝国図書館、通称上野図書館である。

 地上三階地下一階。数十万冊の蔵書を誇る灰と白の煉瓦を積み上げたルネッサンス様式の意匠は、気品すら感じさせる。

 幸と藤堂は、木の陰に隠れて上野図書館の正面玄関を窺っている。

 アリスの提示した捜索範囲を数時間かけて念入りに調べ、最後に残ったのがこの場所である。


「俺の予想は多分ここだよ」

「どうしてわかるんです?」

「勘ってやつかな。よく当たるんだ……ほら」


 藤堂が顎をしゃくった。すでに閉館となっているはずの上野図書館の正面玄関から一組の男女が出てきた。

 女性の方は、幸よりも一回りは年上のようだ。赤地に白い牡丹柄の着物をやや着崩している。けれどだらしなさは感じさせず、彼女の優雅さを演出していた。

 もう一方の男の姿を見た瞬間、幸の意識は音を立てて凍り付いた。

 黄金色の髪。美しい面立ち。夜の空気に混じって微かに香る甘いお菓子の香り。幸をかどわかした件の少年だ。


「あの人、死んだはずじゃ……」


 藤堂によって討伐された場面は、しっかりと目に焼き付いている。

 双子や他人の空似――そうした可能性が一瞬脳裏を過ったが、そうではないと魂で理解する。

 今図書館から出てきたのは幸が出会った少年と完全な同一の人物であると、断じるより他になかった。


「いいかい幸さん。さっき俺が倒したのは多分十七版の重版体じゅうはんたい。確認されている中でも一番若い個体だよ」

「重版体?」

文魔ぶんまは最初一体しか発生しない。だけど多くの人に認知認識されたり、絶望や怒りなどの後ろ暗い感情に影響されたり、長い時間存在し続けたり、様々な影響を受けて分裂を始めるんだ。それが重版体だよ」

「藤堂さんが十七版を倒したなら、あれと同じモノがあと十六体も? しらみつぶしに全部倒すんですか?」

「いや。一番最初に発生した文魔の本体である初版体しょはんたい。これを封印すれば残りの重版体も消滅するさ。そして今目の前にいるあいつが――」

「あの文魔の初版体……」


 不敵な笑みを浮かべて藤堂が腰から下げた瓢箪ひょうたんの栓を外す。慌てて幸も袖の中にしまった燐寸マッチ箱を取り出した。

 戦闘態勢は取ったものの、幸の気がかりは文魔の少年と共にいる女性だ。二人は腕を組んで仲睦ましげに歩いている。少し年の離れた恋人か、あるいは姉弟と言っても通用しそうだ。


「あの女の人、幸せそうです」

「文魔は物語から生まれた者。彼等がああするのは、より多くの人々に己の存在を認知認識させるため。それが人に読み継がれ、語り継がれる物語という概念が持つ本能なんだよ」

「物語の本能……」

「己の存在を広めるために人の心の隙間に付け入り、物語になぞらえた方法で人を殺めもする。人が眠り、飯を食べるのと同じことだよ。現に彼は、若い女性を何十人も犠牲にしている。食べたんだ。幸さんをそうしようとした時と同じようにね」


 藤堂の瞳が黒から朝日に染められた湖面のような水色に変じた。それと同時に瓢箪の注ぎ口から水が躍り出し、藤堂の右手に集まって刀を形成する。


「幸さん。肝心なのはここだ。文魔を完全に倒す方法には殺すだけじゃだめだ。初版体を封印しなければならない。だけど、そのためにはやつらの正体を知る必要がある」

「正体ですか?」

「どんな物語から生じた文魔なのか。作中に登場するどんな登場人物や物を模したモノなのか。それを言い当ててやることで、あの文魔の実体を捉えられるんだ」


 藤堂が木の陰から飛び出した。殺気を感じたのか、文魔の少年も足を止め、藤堂と視線を合わせる。


「ねぇあなたどうしたの?」


 少年の隣を歩いていた女性も足を止めて藤堂の手元を見た。


「か、刀!?」


 怯える女性にお構いなしに、藤堂は距離を詰めていく。

 出遅れた幸が走って藤堂の隣に並ぶと、村雨の切っ先が文魔の少年を指し示した。


「甘いお菓子の匂い。お菓子のたくさんある家。竈。幸さん、君も知っている物語だと思うよ」


 お菓子のたくさんある家。お菓子の匂い。竈。文魔が幸に言った言葉。つい最近読んだばかりの物語だ。


「文魔は、私をグレーテルと呼びました。まさかグリム童話の?」

「そのまさかだよ。顕現せよ。グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』のヘンゼル」


 藤堂が一声を放った瞬間、文魔は頭を抱えて蹲った。


『ウオオオオオオオオオオオオオオオ!』


 獣のような雄叫びに吸い寄せられるように突如として方々から緑色に輝く光球が姿を現した。一つ一つは拳大ほどあり、合計十五個が中空を舞いながらうずくまるヘンゼルに集束していく。

 最後の一つを吸収した瞬間、ヘンゼルの肉体は爆発的な膨張と共に異形の姿を取り戻した。

 肥えた豚のような醜い顔でもっとも象徴的なのは、象牙と見紛う巨大な下犬歯だ。鋭い先端で天を突いている。

 体躯は、巨大化する前のゆうに三倍はあろうか。両腕と足は丸太のように太く、おぞましい量の筋肉を分厚い脂肪の層と皮膚で覆っている。

 ヘンゼルと一緒にいた女性は銅像のように硬直していた。

 ただ黙して、醜く変わり果てた姿となったヘンゼルの顔を見上げている。


「ご覧、幸さん。あれが奴の正体だ」

『オ、御伽狩リイイイイイイイイイイ! グオオオオオオオオオオオオオオオ!』


 地面を踏み鳴らし、ヘンゼルが藤堂目掛けて突進してくる。


「幸さん離れて!」


 藤堂の指示で、幸は後方へ退避した。

 一方の藤堂は、迫りくるヘンゼルに対し退く素振りを微塵も見せない。

 村雨の透き通った刃を上段に構えている。

 風切り音を轟かせて駆け寄るヘンゼルの鼻先が藤堂の制空圏に触れた。

 すかさず藤堂は、地面を蹴って跳躍。ヘンゼルの突進から逃れつつ頭上を取ると、滞空したまま身体を一回転、村雨を振り下ろした。

 ヘンゼルの脳天に打ち下ろされた刃は薄皮一枚を切り裂くも、分厚い頭蓋骨が盾となり、それ以上斬撃が食い込んでいかない。


「まだまだ!」


 藤堂が柄を握り締めると、刀身から真っ白な冷気が迸った。

 熱帯夜のじめじめした気配を吹き飛ばし、真冬の豪雪地帯と錯覚させるほどの寒気が周辺を支配する。

 突然の寒波に燐寸マッチ箱を持つ幸の手がかじかんでしまう。これほどの冷気ならばヘンゼルのあの巨体も氷像と化していることだろう。

 そんな幸の予想をあざ笑うかのように、ヘンゼルは平然とそびえていた。凍結したのは刃を打ち込まれた頭皮の一部に留まっており、全く堪えていないようだ。


『ガアアアアアアアアアアアアア!』


 地響きのような声を上げ、ヘンゼルの左右の巨腕が交差するように頭上を薙ぎ払った。

 けれど藤堂の姿は既にそこにない。

 藤堂は、鉄砲水のような素早い身のこなしでヘンゼルの背後に回り込み背中に縦一閃。極寒の白い軌跡を刻み込む。

 常人の身体能力を超越した膂力による御伽狩りの一撃だが、分厚い肉と脂肪に遮られ、ヘンゼルの薄皮一枚を切り裂くに終わった。

 形勢は、こちらの圧倒的不利に見える。だが、藤堂に焦燥はない。


「さすが初版の文魔だ。幸さん! 燐寸マッチの用意を!」

「は、はい!」


 幸が燐寸マッチを取り出すも、ヘンゼルは毛ほども関心を示さなかった。藤堂を最大の脅威と認識し、そちらへの対応を優先しているのだ。

 肥えた上体をねじりながら左腕を振るい、背後にいる藤堂へ反撃を繰り出した。

 直撃すれば人体を粉微塵にする痛打を前にしても藤堂の平静は揺るがない。

 素早くしゃがみこんで巨腕を躱し、立ち上がる反動を生かして後方へ飛び退きながら村雨を振るった。刃は射程外。


 幸は、藤堂の行動の意味を理解できなかった。

 しかしヘンゼルに触れることなく空を切った水刃から冷気の奔流が零れ、大気中の水分が瞬く間に凝固していく。

 ほんの数瞬で巨大な氷柱(つらら)の軍勢が形成されて、ヘンゼルに襲いかかった。

 電光石火の速攻は、ヘンゼルに回避の猶予を与えない。為す術もなく直撃を受けるヘンゼルだったが、矢のような氷柱の先端を以てしても表皮を貫くことさえ叶わなかった。

 それなのに、やはり藤堂に落胆はない。


 ようやく幸は直感的に理解した。この氷柱は仕留めるために放たれたのではない。

 その予想通り、氷柱の大群は次々に連なり合い、絡み合って巨大な氷の牢獄を編み上げ、ヘンゼルの巨体を封じ込めた。


「幸さん! 今だ!」


 藤堂の合図を受けて、幸は燐寸マッチを一本擦った。

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