第8話「決意」

 燐寸マッチを擦った幸は、手の内に生じた小さな炎に目を奪われる。

 刹那、幸の双眸に埋め込まれた瞳が赤い輝きを放ち、眼前の景色が一変した。


 視界を埋め尽くすのは、真っ暗な闇にしとしとと降り注ぐ雪。

 その中心に幼い少女が佇んでいた。

 少女は、幸に背を向けたまま燐寸マッチを擦っている。


 少女の背中を見つめていると脳裏に過るものがある。

 神楽幸が持つ御伽の異能テイルセンスの行使の仕方だ。

 火を触媒とし、生み出された異能の火炎は居並ぶ敵を焼き尽くす。抗える存在などありはしない。

 遍くモノを灰燼と化す熱量を以て、文魔を打ち倒す。

 それが幸の秘めたる異能の正体。


御伽の異能テイルセンス! 燐寸マッチ売りの少女!」


 燐寸マッチの火は、幸の掌で劫火の塊へと変化する。氷柱の牢獄に閉じ込められたヘンゼルを意識すると幸の手中の炎は、猛り狂う龍のようにうごめきながら踊り出し、爆炎の奔流と化して巨体を飲み干した。

 圧倒的な熱量は、現在の人類の技術力で生み出せる領域を遥かに超越している。


「こ、これが私の御伽の異能……」


 これほどの火力を燐寸マッチ一本から捻出する所業は、物理の法則に反している。そのぐらいは化学ばけがくに疎い幸にも理解できた。

 鋼鉄のように頑強だったヘンゼルの肉体は、炎の洗礼の前には歯が立たない。脂の焦げる匂いを伴ってでろりでろりと肉が蕩けていく。


『グオオ……オオ! オォォォォ――」


 皮を焼かれ、肉を溶かし、臓腑が焦げる。ついには巨大な骨格までもが灰と化し、ヘンゼルは氷柱と共に無へと昇華していく。

 空間に満ちていた炎が晴れると、その中心に緑色に輝く球体が揺蕩たゆたっていた。渦巻く光が拳大の球を形作っている。


「藤堂さん、あの光は?」

「ヘンゼルが揺蕩たゆたう力に還元されたんだ。文魔の正体を突き止めて顕現が不安定な状態で初版体を倒さないと、あの光の玉にはならないんだ。あの光球も放っておけばやがて文魔として復活してしまうけどね」

「え!? じゃあどうすればいいんですか!?」


 藤堂は、友を弔うかのような沈痛な面持ちで光球を見つめている。数十人の女性を食い殺した敵を打ち倒したのに、その感慨は微塵もない。


「藤堂さん?」


 藤堂の真意がわからず、幸は問いかける。だが幸の言葉は藤堂の耳に入っていないのか、彼は何も答えず、懐から一冊の本を取り出した。

 真新しい袖珍本しゅうちんぼん――袖の中に入れて持ち歩ける大きさの本――で表紙は、闇の中でもはっきりと分かる純白だ。


「苦しませてすまない……」


 呟きながら藤堂が本の中程の頁を開いて頭上に掲げた。こちらも表紙同様に白紙である。


「人智の深淵に歪められた者よ。集合的な悪意に染められた者よ。汝のあるべき姿(ものがたり)に還れ」


 藤堂の詠唱の音色に絡め取られるように、光球は白紙の頁に誘われ、溶け込んでいく。

 光球が完全に溶け込むと、白紙だったはずの頁に緑色の光が走り、文字を刻み込んでいく。光が収まると、真新しいインクで描いたような青黒い文字があった。

 そこには独逸の言葉でヘンゼルとグレーテルの題名と文章の一部が刻み込まれている。


〝グレーテルは、――に言いつけられた通り、ヘンゼルにお菓子を与えました。――は、ヘンゼルを太らせて食べるつもりだったのです〟


 原文では魔女と記載されているはずの部分の文字が掠れてうまく読み取れない。

 幸が眉間にしわを寄せて本を凝視していると、藤堂は水のように飄々とした表情を取り戻していた。


「物語は、版を重ねる毎に元の形を失っていく。それは人の意思によるものだよ」

「人の意志……ですか?」

「残酷だからあの描写を削除しろ。卑猥な描写だからけしからん。この描写は時代にそぐわない。物語を改変するのは、いつだって人間の意思なんだ。この物語も人間の集合的な意識の影響を受けて本来の形を失ってしまった」

「それでは、魔女がヘンゼルを食べる本来の展開ではなく、魔女の記載が抜け落ちたことでヘンゼルが妹に見立てた女性を食べる物語に改編されたと?」

「そういうことだね。物語は、人の営みを豊かにするためにあるのだと、俺は思っているんだ。だからこそ歪められた物語を見るのはとても悲しくてね」


 藤堂は、白表紙の本を閉じて懐にしまった直後――。


「どうして彼を殺したの!」


 ヘンゼルが連れ歩いていた女性が藤堂の胸倉に掴みかかった。

 幸は、突然の事態に困惑してしまい、どう行動すればいいのかも分からずにいたが、藤堂は女性をまっすぐに見つめて申し訳なさそうに口を開いた。


「あなたは、もうとっくに気付いているはずだ、あれは人間じゃないんですよ」

「構わないわ! ええ、たしかにあなたの言うとおり私は彼が人間じゃないことには気付いていたのよ! でもそれでよかったわ!」


 女性の瞳を見れば理解できる。彼女は嘘偽りを口にしてない。


「それでも私には彼しかいないのよ!」


 幸は、女性に親近感を覚えていた。鏡で見る自分の瞳によく似ているからだ。

 彼女は、真の孤独を知っている。恐らくは幸と同じか、それ以上に。


「彼と一緒にいれば私は物語の主役でいられたのに! 私だけの……物語の主役に……」


 地獄ですら生ぬるく感じる、そんな人生を強いられてきたのだろう。

 きっと他者から与えられる温もりを忘れようと努めてきたはずだ。もう二度と奪われないためには忘れてしまうのが一番いい。

 それなのに他者と触れ合うことで思い出してしまう。ようやく忘れた頃に与えられた優しさは毒性の蜜だ。

 こんなにも心地よく温かいのだと。こんなにも安らぎ、得難いのだと。味わえば味わうだけ苦しむと理性で理解しても、本能が抗えない。


「俺も物語が好きです。人に夢と幻想を与えてくれる。辛い現実を癒してくれる時もある」


 子供を諭すような声音で藤堂は、女性に語り掛ける。


「だけど現実があるから幻想がある。空想だけでは世界は形成されないんです。夢は生きるのに大切だけど、夢ばかりに浸っていても人は生きられませんよ」


 そうか。藤堂の言葉は、女性を諭すためだけではない。幸へ送る言葉でもあるんだ。

 これまで幸は、現実から目を逸らすため、物語に依存してきた。

 いくら見ないようにしても現実が消えてくれるはずがないのに。


「あなたは、壊れた物語の展開を繰り返すだけの存在じゃない。自分で生き方を選べる人間なんです」

「どう生きろっていうのよ……」

「それを決めるのはあなたですよ。この悪い夢から覚めたら、自分で考えてごらんなさい」


 藤堂の瓢箪から数滴の雫がシャボンの泡のようにふわふわと浮かぶと、女性の顔の前で弾けた。すると女性は脱力し、その場にうつ伏せになってしまう。


「藤堂さん、何かしたんですか?」

「南総里見八犬伝には、村雨で山火事を鎮めるくだりがあるのは知っているかい?」

「はい。上野国荒芽山にて犬塚信乃が犬山道節から村雨を返却され、追手から逃れるために退路を断つ炎を消し去ったと」

「俺の異能が鎮めるのは物理的な炎ばかりじゃない。感情の炎だって鎮めることができる。人間であれ文魔であれ、燃えるような激情を鎮め、心を安らかにさせ、微睡へ落とす力がある。彼女は文魔の影響もなくなったから、目が覚めた時、事件の記憶は曖昧になっていると思うよ」


 藤堂は、寝息を立てる女性を横抱きにして歩き出した。


「その人、連れていくんですか?」

「家まで送ってあげたいけど、住所も分からないからね。派出所の前にでも置いておこう」


 幸が藤堂の背中を追いかけると、藤堂は振り返らずに言った。


「幸さん。君は、どうしたい?」

「私……ですか?」


 何を問われているか分かっていながらも答えをはぐらかした。けれど藤堂の追及は止まない。


「命賭けの仕事だ。しかも人知れず行う必要がある。文魔は多くの人に存在を認知認識されるだけ力を増してしまう。だから俺たちの仕事は誰にも称賛されてはいけないし、知られてはならない。記憶されてはいけない」


 このまま藤堂と共に行けば、二度と尋常な世界に戻ることは叶わない。きっと想像もつかない過酷な運命が待っている。だとしても選択肢はなかった。

 思い出してしまった。誰かと一緒にいられる喜び、言葉を交わす幸福。空虚な心が満たされていく感覚。

 罪人が幸せを望んではいけないはずなのに。自分を罰するなら一人きりを選択すべきなのに。今までの自分がどうやって孤独に耐えてきたのか、思い出せないし、思い出したくない。

 命を賭して罪を償うために戦えばいい。それは罪滅ぼしのためだけでなく、藤堂と一緒にいたい理由でもある。


「私は、藤堂さんと一緒に行きます。戦います。文魔とも……自分の罪とも……」


 自己の願望を正当化する言い訳にすがる自分の矮小さに吐き気がした。

 それでも、一人はもう嫌だった。孤独は耐えられない。誰かの側にいることをどうか許してほしい。

 そして幸から見た藤堂の笑顔は、如何なる大罪人にも許しを与えてくれる聖人であるかのように、晴れやかに輝かしく見えていた。


「君が炎なら俺は水。案外相性がいいかもしれない。君が何かを燃やしたら俺の水で消すよ」


 幸せの対価に捧げるのは、自分の命。


「だから俺たちは一緒にいたほうがいいかもしれないね」

「はい……これからよろしくお願いしたします。藤堂さん」


 幸にとってそれは、安すぎる代償であった。

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