その2

 確かに、私はパーソナルシェアで世界中の音を共有したいとは入力した。それはきっとパーソナルシェアのアプリ経由で世界中の動画や音楽などを収集して流すものだとばかり思っていた。注意書きにある処理に時間がかかるというのも、そういう情報を収集するのに時間がかかるからと。

 しかし実際はわたしの耳が直接音を聞き取ってしまっているらしい。ピアノの音が止むと次は何処からか爽やかな風の音が聴こえてきた。

 一体どういう仕組みなのだろうかと私は再びパーソナルシェアを開こうとするとやはり、開くことができない。まだまだ処理に時間がかかっているのだろうか?

 煩くなったらアプリの利用を停止すればいいんだしとわたしは軽い気持ちで考えながら今聴こえている自然の音楽に耳を傾けながら読書を再開した。


 聴こえてくる音には様々なタイプがあり、それもシェアアプリでまるで見計らったかのように適切なタイミングで選んでくるようだった。

 例えば、ゆっくりしたい時間のときにはリラクゼーション効果が出るようなゆったりした音楽が川のせせらぎ、集中したいときは張り詰めた空気感に合うような音やペンを走らせる音、食事の時間が近くなると何かを調理する音なのだ。そんな音を聴いていると、自然と自分のお腹もすいてくるのである。

 就寝するときは少々煩いという難点もあったりするけれど、色んな音に触れながら目を閉じると自然と深い眠りへと入ってしまうのである。


 わたしの耳に世界中の音が流れ込むようになって一週間、飽きもせずずっと音に耳を傾けている。日本には居ない動物の鳴き声、日本にはない人の声、日本にはない楽器の音色。そのどれもがわたしの聴覚を刺激して、わたしの心をワクワクさせているのである。


 トントンと何かを刻む音と共に女性が何処かの国の言語で投げかけてくる。その言葉に幼い声が返す何処かの国の日常生活における音。今日はそんな音が私の耳に流れ込んでくる。こういう音は動画サイトを探ってもなかなか無いので、わたしはその家族の日常風景に溶け込んでいるような感じで聞き入っていた。

 ガチャと音がする。ハッとしてわたしは自分の部屋の扉を見たが扉は動いている様子はなかったので、恐らく流れている音の元の扉が開いたのだろう。

『Hej, řekl jsi mi, abych si koupil absint』

 男性が少々声を荒げていた。どうやら怒っている様子。

『Piju tolik, že nemůžu sehnat práci a hraju』

 女性は呆れたような声を漏らした。

『Myslíš, že je v pořádku se mě takhle ptát!』

 ドシドシという足音と共に、ドスッドスッと鈍い音が聴こえ始める。

『stop! bolest!』

 女性の声が必死にストップ!といって言うのだけは聴こえた。


 きっと、男性が女性を殴っているのだ。


『Zastav tati. Nebij svou mámu』

 子どもがそういいながら泣きじゃくる声が聴こえる。しかし、鈍い音は止まらない。

 鈍い音に飽き足らず、ガラスが割れる音。何かが倒れる音。子どもが泣き叫ぶ音。様々な音が耳へと流れ込んでくる。

 まるで雑音だ。わたしは耳を押さえるけれども、直接私の耳で聴こえているものだ。この行為は全く意味を成さない。

 暫くすると違う音に変わるはずだ。今はソレを待つしかない。

 聴こえてくる女性の悲鳴。早く、早く終わって。

『Nevadí, tak si to brzy kupte!』

 男性の吐き捨てるかの言葉が聴こえた後、耳からは波の音が聴こえてくる。

 やっと終わったのかと私はホッと胸を撫で下ろす。

 聴こえてきたあの光景、女性はその後大丈夫だったのだろうか。いや、流石に海外のドラマでのワンシーンか何かだろう。フィクションであって欲しい。それにしても、ずっと安心して聴いていられるものばかりだったのに、ここになってわたしが耳を塞ぎたくなるようなものが登場するなんて思ってもみなかった。アプリでそういう設定って出来るもんなんだろうか?

 私はパーソナルシェアを開こうとスマホの待ち受けを見るが、アプリのアイコンが見当たらなかった。

 もしかして、ドサクサに紛れてアンインストールでもしてしまったのだろうか?

 いや、それならこの耳に流れてくる音も自然的に消滅してもおかしくない。今も耳に流れ続けているっていうことは、わたしはアプリをアンインストールせずに残しているはずだ。

 しかし、いくらスマホの待ち受けのどこを探してもパーソナルシェアを見つけることができなかった。

 更新中のときに共有の処理中だったからアイコンが消えてしまったのかもしれない。きっとそのうち待ち受けにアイコンがひょっこりと表示されるだろうと、パーソナルシェアの捜索を中断し、波の音を聞き入ることにした。


 わたしはこの時、知るはずも無かった。

 パーソナルシェアは既にアプリとしても存在すらしていなかったことを。


 そして、そのあとわたしにナニが起こったのかということを。

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