その2

 この“俺にしか感知できない匂い”は一日だけのものではなく、翌日以降も続いていくことになる。

 最初は当然驚いたけれども、この現象にも半月も経過すればだんだん慣れて来たような気がする。

 そんな不思議な現象が始まってから毎朝も俺のルーティンは、目覚めたら思いっきり深呼吸をして香ってくる匂いを嗅ぐことだ。

 今日の匂いはなんだか、甘い匂いがする。芳香剤のような、そんな香り。

 この感じは花の香りだろうな……。何も漂ってくる匂いは食べ物のみに限らない。食べ物の匂いだったらお昼ご飯を決める参考にしようかなぁと思ったけれども予想が外れ少しばかり残念な気持ちがあるが、俺はこの匂いを楽しむことが毎日の日課になっていた。

 毎日匂ってみて気付いたことがある。それは、【匂いにも方向がある】ことだ。俺が顔を向ける位置によって香る強さが違うのだ。きっと、俺の匂っている香りの元がその方向にあるんだろうなぁと香りを楽しみながらうっすら考えていた。


 今日は久々に大学時代のゼミの同期と出掛ける予定を組んでいた。待ち合わせで落ち合い、各々の現状報告をしながら目的の雑貨店まで歩いて移動する。

 すると、ふわっと朝嗅いだ匂いと同じ匂いが嗅覚を刺激する。匂いのする元へ視線を移すと其処には花屋があった。

 やっぱりあの香りは花の香りだったんだ。

「ちょっと、この店に寄ってもいいか?」

 俺が花屋を指差すと、同期は少し驚いた顔をしつつも素直に了承してくれた。店内へと入ると様々な花の香りが充満していた。まぁ、花屋だから当然なんだろうけど。

 その中で朝匂った花の香りを自分の嗅覚のみで見つけ出す。色んな香りが混ざり合っていて、一つの匂いだけで特定するのはなかなかに骨が折れる。

 クンクンしながら花を探す男って他人からすれば奇妙な行動でしかないなとは思いつつも、ひとつひとつ花を嗅ぎながら見つけていくと、


 朝香った匂いと同じ香りの花を見つけた。


 それはカサブランカ。ユリの花だった。

 俺は店員さんに声をかけ、このカサブランカとそれに合う他の花を数点アレンジメントとして頼んで、夕方に引き取りに来ると言ってから店を出た。

「それにしても彼方が花屋に立ち寄るだなんてビックリだよ。大学の時なんて花とは縁遠い性格だったじゃん」

 同期が茶化すようにそう言った。

「実はなー、今ちょっと不思議なことが起こっているんだよ」

「不思議なこと?」

 同期が首を傾げる。

「目的の買い物が終わったら教えてやるよ」


 同期の買いたかったものを雑貨屋で無事入手し、俺たちは近くのコーヒーショップへと入って椅子へ腰掛ける。

 そして、俺に起こっている不思議なことを同期に初めから説明した。すると同期の表情がこわばる。

「それって不思議っていうより怖いじゃんか」

「そうか? 俺は決して痛い目に遭ってないから大丈夫だと思っているけれど」

 俺はきょとんとしながらコーヒーを飲む。

「だって、どこからともなく匂いが勝手にするんだぞ? 怖くね?」

「別になんともないからなぁ」

「それは今“いい匂い”しかしてないからだろ。“嫌な匂い”になったら大変だぞ、きっと」

 確かにそうかもしれない。現状は本当にいい匂いしかしない。それが嫌な匂いに変化してしまうとソレは恐怖でしかない。

「確かにそういわれると怖いなぁ。でも原因が分からないからなぁ」

「一度耳鼻科にでも行ってみればいいんじゃないか? 何かしらの原因があるかもしれないし」

「そうだな」

 同期の忠告を聞いている間にも、俺はコーヒーを飲んでいたはずなのに、嗅覚は紅茶の香りを読み取る。


 なんだか、俺の嗅覚が誰かに乗っ取られている気持ちがする。そう思うと何だか怖い気持ちになったけれども、やっぱりこの不思議な経験を大いに楽しもうとする気持ちのほうが大きかった。


 同期と別れた後、俺は頼んでいた花束を花屋に取りに行って家に帰る。雑貨屋でついでに購入した花瓶に挿して、リビングに飾ると何だか部屋が華やかになっていい気分だった。


 後日、同期の忠告どおり耳鼻科へと診察に行く。

「えーっと、大井彼方さん。症状は……匂わないはずの匂いがすると」

 医者は凄く怪訝そうな顔で俺をみる。

「えぇ。花なんて飾ってないのに花の匂いがしたり、いきなり食べ物の匂いがしたり」

 先生に一通り説明はしてみるが、先生の表情はまだ俺のことを疑っている感じだ。

「ちょっと見てみますが、貴方の鼻が良いだけだと思いますよ」

 ルーペみたいなもので俺の鼻の中を先生が診察する。しかし、結果は相変わらず、俺の鼻が良いだけという結果になった。

 まあ原因不明で終わるというオチは粗方予想していた。同期にもそんな感じのことを言っていたし、俺の体の不調が直接の原因ではない(と思われる)ことが分かっただけでも収穫だった。

 一体、この匂いの原因が何だろうと思いながら、漂ってくるビーフシチューの匂いにつられて、俺はお弁当屋さんへと体が向くのであった。


 それは突然だった。

 ぐっすり眠っている俺の嗅覚をいきなり刺激したのは、強烈なガス臭さ。

 もしかしてガス漏れか、と俺は慌てて起き上がってキッチンの電気を付け、天井に備え付けられたガス検知器を見る。特にガス漏れを示すような警報音はなっていない。でも頭がくらくらする特有の臭いに気分が悪くなる。

 アレだけいい匂いが続いていただけに、今の出来事に面を食らっている気分だった。

 ガス臭さに耐えながら布団に横になっていると、微かに感じる、


 サビ臭さが鼻に付く。


 ガス臭さには負けるけれども、気になる臭いを少し気にしながら俺は早くガス臭さが消えてくれと願いながら再び眠りへとつく。


 それ以降、いい匂いは一切してこなかった。

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