第11話
陽の光がかなり傾いてきた頃、総司と左之助は吉原へ着いていた。大きな門に明々と提灯が掲げられ、幾人も中へ吸い込まれて行く。
二人して大門から大通りを眺めていると、実に色とりどり、悲喜こもごもである。
「吉原の中にも質はある事はあるが…」
「面倒でもよそへ行くでしょうね。変な所、見栄っ張りですから」
「だろうな。じゃあ、近い町から探すか」
早々に大門に背を向け左之助が歩きだした。総司はもう一度大門を見上げて、すぐに左之助を追った。
「…もう灯がともっているんですね」
「ああ、不夜城と言われてるが、昼間も営業してるしな。……一刻休んでまた客取らされて、女にとっちゃ、たまったもんじゃねえよな」
吉原は、
その中に一段突き出た土手の日本堤を辿るしか、吉原へ行くすべはない。のどかな田苑風景から一変、日本堤のこの一角だけは、まるで様相が違っていた。
「ここからとなると、浅草門前の方でしょうか」
「どっちかってえと、だな」
連れだって土手を歩いていく。袖すれ合うは皆、男ばかり。老いも若きも、町人も武家人も、皆一様に黙々と辿っていく。その中を縫うように
ふいに総司が呟いた。
「今日、道場に来た平治って人。あそこの若い衆なんでしょう?」
「お、気づいてたのか?」
「思い出したんですよ。北洲って吉原の事だって聞いたことあったなって。……つまり、あの文は、土方さんのその…、お相手からですよね」
男所帯の中で育ったのが逆に良くなかったのか、ここまで女絡みの話を毛嫌いする若者も珍しい。それでも彼なりに理解しようとしているのか、その姿に左之助も真面目に答えた。
「そうだ。花魁からしたら難しい立場だが、それでも土方さんの事を心配して出したんだろう」
「……お金で繋がった相手なのに、どうしてそこまで」
「金で繋がった仲だから、だよ」
「僕には理解できません。もっと理解できないのは、土方さんがそこまで想われてるのに、その人だけじゃないって所ですけど」
「ははっ、そりゃ人それぞれだな」
左之助が明るく笑い飛ばす。その隣は相変わらずの仏頂面だが、それでも何か思う所があるのか、話を続ける。
「……そんなに良いもんですかね、吉原」
「なんだ? やっぱお前も気になってきたんだろう」
「よしてください。理解できないだけです。こうして厄介ごとに巻き込まれてるってのに」
「まぁ、あそこは夢を売ってるからな」
「まやかしの夢じゃないですか」
「いいんだよ、まやかしでも何でも。夢すら見られねえ奴もたくさん居るんだから」
「そういうもん、ですか」
「そういうもん、だ」
やはり納得できないという表情で、総司はそれきり口をつぐんだ。口うるさく言いはしても、それをいつまでも引きずることはない。その潔い性格は皆に好かれている。面倒くさいこの青年を近藤は元より、結局歳三も左之助も気に入っているのだ。
土手を歩く二人の影が、土手に長く伸びていた。
しばらくして二人は、吉原に程近い浅草門前町に着いた。すでに西の空で赤く染まる日の光に急かされて、店じまいを始めた店も多い。
とはいえ、江戸随一の観光地である。浅草
二人は二手に別れて店を探すべく、落ち合う場所と刻限を話しつつ道端へ寄ると、すぐ脇の店の木戸がガタタと音を立てた。
人の出てくる気配に、邪魔にならないよう横の路地へ避けた所で、間もなく出てきた町人の、何気ない会話が耳に飛び込んできた。
「───昼間の二人、結局戻ってきませんでしたね」
「そうじゃな。ま、店に戻ってもうしばらく待つとしよう。何度も無駄足踏ませた詫びに、な」
「せっかく
聞くともなく聞いてしまったその会話の最後の一言に、総司と左之助は顔を見合わせた。そして次の瞬間、二人同時に声を上げた。
「「今の話、詳しく聞かせてくれ(下さい)!」」
「──え?」
鬼気迫る表情の彼らに、青年と初老の男は、驚いた様子でこちらに振り向いた。
◇ ◇ ◇
一方、駒込の小さな神社境内に、八郎の低く抑えた声が響いた。
「俺の──…親父、です」
「──は?」
呆けた顔をする歳三を一瞥すると、八郎は父親へ向き直った。
「これは、何の真似ですか、父上。義兄はこの事…」
「秀俊は関係ないよよ。父親が実の息子に会うのに、なぜ義理の息子の許可がいる?」
「そういう意味じゃなくてっ…」
苦々しく唇を噛む八郎に、歳三は押し黙って相手を見据えていた。
伊庭
(顔を拝むのは初めてか。まるで現役みてえな身体してやがる)
「とにかく、私はまだ…」
「もう十分、楽しんだだろう」
「っ…」
(……一癖も二癖もありそうだな)
冷静に状況分析を続ける歳三に反して、八郎は見る見る冷静さを失っていくように見えた。相手の誘導にうまく乗せられている。
「そろそろ戻って来なさい」
「──いえ、帰りません」
「何が不服だ」
「………」
「なに、わしは隠居した身だ。これからはお前の好きなようにすればいいだろう」
(……? 道場も家督も義兄が継いだって言ってたよな)
「すべては可愛いお前のためじゃないか。どうしてわからない」
「──話すだけ無駄のようですね。──土方さん、行きましょう」
「あ? いいのか」
「八郎、話は終わっていないよ」
「私にはありません」
「そうか、それは残念だ」
そう言って後ろに控える男に目線を送った途端、それまで微動だにしなかった男たちが一斉に抜刀した。
「っ」
「……ふん」
顔を歪める八郎と、予想できていたのか歳三は小さく鼻を鳴らした。ゆっくりと八郎の背後に回り、男たちが現れた時のように背中合わせに立った。
「これは、何のつもりですか」
「言ってもわからない子どもには、
「────嫌だと、言ったら?」
慎重に腰を落とし、臨戦態勢を取りながら、八郎が静かに返したその問いに、秀業は口端を上げた。
「少し痛い目を見るかもしれないね。……お友達も巻き添えをくらうかもなぁ」
「くそ…」
(何があったか知らねえが、……いけ好かねえやり口だ)
徐々に囲まれた円が小さくなり、滑るように秀業は円の外へ出ていく。八郎は注意深く辺りを見回しているが、まだ刀を抜く様子はない。それに合わせて歳三も柄に手を軽く置いた所で、ふと現実を思い出した。
(あ、刀…っ)
今更後悔しても後の祭りだ。今日もまた脇差しに全てを賭けるしかない。ただ今回は
「あ、そうそう。お友達もお相手して差し上げなさい。今後の参考のためにも、ね。後で籠でも用意してさしあげよう」
「そりゃあ、太っ腹な話だな」
片眉を上げた歳三が、薄い笑みを浮かべて軽くいなす。親子の会話には口を挟むまいと口をつぐんでいたが、ここで黙っている訳にはいかない。顔をしかめた八郎が肩越しに小さく囁いた。
「土方さん、挑発です」
「わーってるよ。……どうすんだ、やるのか」
背中合わせで顔を寄せあい耳打ちする。歳三としては売られた喧嘩は買う主義だが、今回は八郎の客である。つい先ほど己が放った言葉が、逆の立場で自分に降りかかってこようとは、さすがの歳三も想定外である。
「連れているのは、うちの門弟が半分、全員幕臣の子弟です。下手に手出しできないのをあえて選んだんでしょう。残る半分もおそらく似たようなものかと」
「面倒くせえ相手ってことか」
「とにかく、突破口を開きますので、それまで凌いでください」
「わかった」
内容は聞こえないだろうが、密談しているのは丸わかりである。その様子を見ていた秀業は小さく笑ってから声を上げた。
「段取りはついたかな? それじゃあ、八郎がお世話になってる試衛館の目録殿? お手並み拝見と参りましょうかな」
「くそっ、あの親父…」
「はっ、舐められてんなぁ」
あからさま過ぎる挑発に、歳三は苦笑するしかない。
「お手並みとやら、たっぷりと拝ませてやろうじゃねえか」
「──…すみません。色々面倒なんで、殺さない様お願いします」
「ああ」
八郎がすらりと刀を抜いた。歳三は柄に手をかざしたまま、まだ抜かない。というより抜けない。つくづく刀を質になど二度と入れるまいと思うが、後悔先に立たず。誓いも猛省もとりあえず脇に置いて、前を見据えた。
口火を切ったのは、八郎の左側に居た男からだった。行儀よく「いざっ!」と声を上げてから大きく踏み込んできた。視界の端で捉えているはずの八郎はそちらへは反応せず、誘われるように動き出した反対側へ顔を向けた。最初の男へ背中を見せるような動きだ。
「取った!」
男が振り下ろした刀は、そのまま派手な音を上げて弾き飛ばされていた。若い男は、持っていたはずの刀の行方を完全に見失っている。
「──どこ見てやがる」
「うぐっ」
消えた刀に気を取られた男が次に見たのは、狙ったはずの八郎ではなく、眼前に迫った歳三の仏頂面だった。
男が何か発するより前に、脇差しの柄を男の鳩尾に鋭く打ち込んで沈めた歳三に振り返ることなく、八郎は明るく言った。
「お見事」
「ぬかせ」
歳三が一人沈める間に、八郎は二人を地に転がしていた。短く言い捨てながら、すでに歳三も次の刀を
数度打ち合えば、大体の力量はおのずとわかってくる。基本に忠実な型は綺麗だが、歳三の敵ではない。踏んできた場数が違う。はじき返した刀を持ち直す間に次の手を繰り出せる歳三に反して、どうにも刀に振り回されている感が否めない。
(こいつら、刀を振るったことねえんじゃねえのか)
道場での威勢はいいが、実践ではモノにならない輩が実は多い。竹刀と真剣では明らかな違いがあるうえ、少しでも触れれば必ず殺傷沙汰に繋がる。命を懸ける重責も背負わなければ刀は握れない。
戦乱の世では当たり前だったその覚悟は、今ではすっかり精神論のみが先行する傾向にある。太平の世と引き換えに、命のやり取りから遠ざかり過ぎた弊害と言えよう。そしてここに居る若者はいずれ、幕臣として将軍警護の任につくのだ。
(そりゃ講武所なんてもんが必要な訳だ)
講武所とは幕府が昨今の外交、内政情勢にテコ入れすべく立ち上げた幕臣子弟
背中合わせの二人に死角は存在せず、お互いに正面と右手側だけに意識を集中することができる。
二人が刀を振るう様は、八郎が流れるような所作なら、歳三は縦横無尽に飛び回り、そしていつの間にかまた背中がぴたりと合わさる。まるで違う動きの二人だが、その息は妙に合っていた。
(こいつとは、……やり合いたくねえな)
歳三はしみじみそう思っていた。安心して背中を預けられるという事は、己と同等か、往往にしてそれ以上の腕前である。後ろを見るまでもなく、八郎の方が転がす数も早さも上である。それは相手方が主に八郎を狙っていることにも起因しているのだが。
二桁は居た秀業陣営は、
「出ます」
八郎が小声で言う。喧嘩は引き際が最も重要だ。機を逃すと勝てるものも勝てなくなる。そこに居るのは、浅い切り傷と打ち身ばかりとはいえ、みな満身創痍である。それでも秀業は、焦りを見せる事もなく我らをただ眺めていた。
(品定めの捨て鉢ってことか?)
八郎は陣形の隙をついて大きくそこをかき乱すと、一気に囲みの外へ走り出た。歳三も目の前の男二人を豪快に
「あ~あ、まんまと逃げられちゃったな。お前たちもう少し持つかと思ったんだが…」
「申し訳ありません…っ」
「八郎殿はともかく、もう一人は誰です? あの者の太刀筋は無茶苦茶です!」
「んー、あれは天然理心流とも違うな。あえて言うなら我流…?」
何故か楽し気に話す秀業を、門弟らは首を傾げるばかりである。
「───伊庭殿」
ふいに背後の林の中から低い声がかかった。肩を揺らす門弟とは逆に、さして驚いた様子もなく秀業は振り向いた。そこにはいつの間にか男が二人立っていた。
「あれが例の男やか」
「ええ、そのようです。どうかな、そちらの手の者で足りますかな」
「問題ないろう」
「では、うちの件もお忘れなきよう」
「承知しちゅう。では御免」
黒ずくめの男達は現れた時同様、音もなく林の中に消えていった。門弟の一人が、恐る恐る師匠に尋ねた。
「あの、今のは…?」
「んー? お友達のお客様だよ。知り合いに頼まれててね。ちょっとした顔合わせみたいなもんだ。───今見聞きしたことは、すべて忘れなさい」
「っ、は、はい」
「よし、じゃあ行こうか。傷の手当もしなきゃね。…この場において、手加減できるとは…さすがだね、八郎」
最後の方は呟くように言うと、秀業は何事もなかったように明るく門弟たちを見回した。
◇ ◇ ◇
駒込から山裾を抜け、果樹の間を通り中山道に出る頃には巣鴨に来ていた。さらに目的の店からは遠ざかっている。
「どうやら、追ってくる気はなさそうだ」
「はぁ、今日はついてねえなー…くそ」
「すみません、ほんとに…」
息を整えながら、人波に紛れて歩いていく。のどかな午後の日差しはかなり傾いていた。申し訳なさそうに頭を下げる八郎を一瞥すると、歳三は水筒を取り出した。二口ほど飲むとそのまま隣へ渡す。
「ありがとうございます」
律儀に礼を言うと、八郎も喉を鳴らして水を飲む。袖口で軽く拭ってから返すしぐさはやはり育ちの良さを感じさせる。
軽くなった水筒を懐に戻して、歳三は額の汗を拭った。ふいに切れた袖が目に入って、小さく舌打ちする。いつぞやの襲撃で斬られた箇所と寸分たがわぬそれは、防御の甘さを通告されたのと同義である。反省すべき点を頭の隅に置いて、顔を上げた。
「まぁ、なんつうか……大変そうだな、あんたも」
さすがに苦笑するしかない。歳三もお家関係では色々あったが、あそこまで話が通じない身内は居なかった。むしろ可愛がられて育った末っ子である。責任の重さも立場も違う。
「昔はここまで干渉されなかったんですが、道場に出るようになってから、ちょっとその、妙な方向に…」
「義兄ってのは、味方なのか? って、何で揉めてんのか知らねえけどよ」
「まぁ、お家問題です…。義兄は完全に俺の立場を理解してくれているので、それはいいんですけど。義兄もまだ父を御し切れてないというか、聞く耳持たないというか…すみません」
言葉の端々だけで、容易に想像できてしまう。いつの世も血のつながりほど濃くて深いものはない一方、これほど厄介なものもない。身内だから許せる事、身内だから許せない事、その相反する感情は共存している。
「気にするな、その内なるようになるだろ」
「…そう願いたいです」
一陣の風が二人の間を通っていく。汗ばんだ身体に心地いい。自然と細めた目が、通りの先で風に揺れる暖簾をとらえた。街道沿いに軒を連ねる茶屋である。酒から甘味までなんでも揃っている。
「何か食うか」
「いいですね」
あまりゆっくりもしていられないが、握り飯を分け合った仲である。互いの腹事情はわかっている。一つ返事でいそいそと暖簾をくぐった。
しっかり腹を満たして茶をすすっていると、八郎が切り出した。
「この先、別行動しませんか」
父親の件を義兄に報告を兼ねて、これからのことを相談したいという八郎に、歳三は頷きを返した。確かにここまで来ていれば文を出すより出向いた方が早い。
「俺は浅草門前に戻る。あんたは実家…に行くのか?」
腕組みをしたまま歳三が言うと、八郎は首を横に振った。
「いえ、いつも外で会っていますので。その後は……また試衛館へお邪魔してもいいですか」
「そりゃ、構わねえが、そっちはいいのか?」
「ええ、どのみち戻れませんし。あ…、ご迷惑でなければ、ですけど」
「うちは来るものは拒まねえよ」
「良かった。俺、試衛館、好きなんです」
「…そうか。近藤さんが聞いたら喜ぶぜ」
お互いに用を済ませたら、夕刻、
「急ぐか」
鬼足と言われた歳三である。多少の疲れをものともせず、町家が並ぶ通りに足を踏み出した。
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