第10話



 時を同じくして、駒込の小さな神社境内。濡れ髪を垂らして、八郎が歳三の前に立った。



「あなたは、誰に追われているんですか」

「…………」


 眉をぴくりとさせるも、そこは年輩者。表情には出さず、務めて冷静に返した。



「なんのことだ」

「とぼけても無駄ですよ。さっき言いましたよね。『どっちの客だ』って」



(言った…な、確かに)



 思わず口端が苦く持ち上がる。どうにか誤魔化せないものかと、ちらりと考えてすぐ止めた。そんなに甘い男ではない。目の前の若者は、試合以外で見たことない真剣な眼差しで、こちらを見据えている。



「おかしいと思っていたんです。私の方の厄介ごとは、元より、命を取る取らないという類のものではなかった。少なくともこれまでは」

「…………」

「だけど、あなたと多分…、総司さん。あなた方は別の……どちらかというと、もっと厄介な相手を警戒している。違いますか?」



(よく、見てやがる)



 つい吐息をこぼして、小さく笑ってしまった。二十歳そこそこの若者に、初顔合わせから妙に身構えていたは、歳三の本能がこのただならぬ男に警鐘を鳴らしていたのかもしれない。


 未だ汗ばむ額に張り付く前髪をうっとうしくかきあげると、歳三はまっすぐに目の前の男を見据えた。この男には下手な駆け引きは通用しそうにない。



「そうだ。お前の言うとおりだ」

「やっぱり! 相手はっ?」

「それがわかってたら、とっくに殴り込んでらぁ」

「くそっ」


 吐き捨てるように呟く青年に、歳三はさらりと続けた。



「言っておくがこの一件。一切関わり無用だ」

「──は?」

「喧嘩を売られたのはこの俺だ。元より誰の助けも借りるつもりはねえ。……それに、のこのこ練武館の息子なんざ連れて行けるか」


 あえて道場の名前を出したのだが、それは逆効果だった。



「わざわざ、田舎道場の喧嘩にまで首突っ込んでんじゃねえよ」

「……なんだよ、それ」

「あ?」

「道場とか生まれとか、今、関係ないだろ」

「……関係ねえと思ってんのは、関係ない立場の奴だけだ」


 ついに己の皮を脱ぎ捨てて挑戦的な目をする若者に、歳三もゆらりと立ち上がると、笑みを消して真っ向から対峙した。


 どんなに努力して這い上がったところで、出自だけは変えられない。死ぬまで付いて回る。八郎のような実力主義な考えの者も中には居るが、結局は大局を変えることはできない。


 それをこれまで、嫌という程歳三は味わってきた。まげを結い、腰に大小を下げ、袴を履いていても、変わらないもの、変えられないもの。


 それが持って生まれた身分である。



「てめえの厄介ごととやらも、とどのつまりはそういうこったろ」

「…………」


 きつく眉根を寄せ、歳三を睨みつける八郎も頭では分かっている。今では立派に武家の立場に居る近藤でも、講武所の教授推挙すいきょの話が無かった事にされた一件は八郎も義兄から聞かされていた。


 それでも、彼にも譲れないものがある。それだけだ。



「とにかく、首を突っ込むな。話がややこしくなる」

「──……てんだろ」


 視線を剥がして一度地面に落とすと、八郎が小さく呻いた。



「あ?」

「あんたがっ、ややこしくしてんだろう」

「……どういう意味だ」


 こうなれば、もはや後には引けない。目と鼻の先に立ち、再び互いに睨み合った。



「あんたは、逃げてんだ」

「はぁ? 何言って…」

「恰好つけて、逃げてるだけだ。出自だ、身分だ、なんだと理由つけて」

「……おい」

「結局は、そんなつまんねえ理由で勝ち負けを左右されるのが嫌で、鼻っから勝負を投げ出してんだ」

「いい加減にしろよ、てめえ」


 歳三がぐっと胸倉をつかんだ。眉間に刻んだ皺は彼の本気を表している。その眼光にひるむことなく、八郎は睨み返した。



「俺はあんたは強いと思ってる」

「…っ、何が言いたいんだ」

「でも今のあんたには、正直負ける気がしない。つまらない事にこだわってる限り」


 八郎は、掴まれたままだった手を払い落した。ざっと襟を正す間も目線は外れない。その視線を真っ向から歳三も睨み返す。



「……言ってくれんじゃねえか」

「なんでか知らないけど、試衛館にはやたらめっぽう強い人が揃ってる。近藤さんはああ見えてやり手だから、人が寄ってくる。……ただ、あの集団の中にあっても、あんたは別格だと思ってた」

「………」

「あんたの強さは、絶対勝ちに行く、その姿勢だ。勝つためなら何でもありだ。それこそ、流派もくそもない。うちの門弟らに言わせると泥臭いって揶揄やゆする奴もいるだろう」

「はっ、泥臭くて悪かったな」

「褒めてんだよ」

「どこがだっ」

「そのあんたが、そんなつまんねえことに拘ってるようじゃ、俺の見立て違いだったってことだ」

「……」


「で、だ」

「あ? まだ何かあんのかよ」

「あんたに試合を申し込む」

「……は?」


 ここで初めて歳三の眼光が緩み、反対に眉をひそめた。話の流れが、さっぱり理解できない。



「俺が今のあんたに負けるようじゃ、足手まといにしかならない」

「……」

「だが、俺が勝てば──」

性懲しょうこりなく首を突っ込む、ってか」

「そうだ」


 歳三から目を離さず言い切った。手の届く距離で向かい合う二人は、当然お互い間合いの内に居る。どちらかが抜けばたちまちつばぜり合い、背を向ければ、その時点で負けを認めることになる。


 深い嘆息を吐くと、歳三は前髪をかき上げた。



「つうか、それ、お前になんの得があんだよ」


 それまでずっと張り詰めていた八郎の表情がふっと緩んだ。口端をにっと上げた青年は、得意顔で答えた。



「本気のあんたと、やれる」


 仰け反りそうになるのを堪えた歳三が、一声咆えた。



「──おまえ、馬鹿だろっ」


 葉を震わす罵声に、一斉に飛び立った鳥の羽音が辺りに響いて消えた。



 先ほどまでの苛つきも怒りもどこかへ吹き飛んでしまった歳三は、そう咆えた後、目の前の若者をまじまじと見つめていた。すでに試合うことへ気が向いているのか、どことなく楽し気にも見える。



(総司といい、こいつといい、最近の若い奴らは皆こんななのか? さっぱり理解できねえ…)



 後先考えずに突っ走れるほど、そう若くもない。どうするのが最善か考えを巡らそうとした、その時…。


 二人の表情が一変し、示し合わせたように背中合わせに立った。そのまま動かず辺りに神経をはり巡らせる。



(ゆっくりしすぎたか…)



「おい」

「しつこいなぁ…」

「やるか、やらねえか」

「そんなの、聞くまでもない」

「だろうな」


 そう答えた二人の前に周りを囲うように、武士の集団がやぶから躍り出てきた。二桁はあろうかという人数が一斉に二人を取り囲む。抜刀こそしていないが、それも時間の問題のように思える。



「やけに増えてねえか」

「………妙、だな」


 眉をひそめて小声を交わす二人の前に、一人の人物が歩み出てきた。年の功は五十手前くらい、歳の割りにがっちりとした体格の男だ。


 その男を認めた瞬間、八郎が明らかに動揺した。その異変に歳三が口を開くより早く、歩み出てきた男がよく通る声を響かせた。



「お遊びはそこまでだ、八郎」

「ちょ、……勘弁してくれ」


 目を丸くする歳三の横で、八郎は額を手で覆い、完全に天を仰いだ。



「え? お前の方か?」

「……いや、あの」


 八郎が顔を覆っていた手をのけ、男を睨みつけると、苦々しい表情で口を開いた。



「俺の──…親父、です」

「──は?」


 敵を見るような眼をする八郎と、その横顔を呆けた様に見つめる歳三。そんな二人の様子を、したり顔で眺めるもう一人の男。


 忠実な弟子を未だ数多く抱える練武館前当主、伊庭秀業。正真正銘、八郎の実父だった。

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