第14話 どうして

 その日の夜。


 諒太郎は風呂上がりのコーラで喉をしゅわしゅわと潤してから自室に戻り、スマホを片手にベッドの上にダイブした。


 仰向けになり、スマホを顔の前に持ってくる。天井のクリーム色の方になぜか焦点が合っていて、スマホはぼやけていた。


「どう、すっかなぁ」


 聖澤の家ではああ言ったものの、いざこうしてスマホを持つと気が進まない。そもそも神薙と話すのは三年ぶりだ。もしかすると電話番号が変わっているかもしれない。なんで神薙のことなんか早く忘れてしまわなかったのだろう。


「……そんなことできねぇのにな」


 自分の思考のバカさ加減に嫌気がさす。


「神薙……出てくれるかなぁ」


 そもそも神薙がもうコスプレをしていない可能性だってある。電話したって意味ないのではないか? 恨んでいる人間からの頼みごとなんて、受けてくれるはずがない。


「……て、なんで俺が決めつけてんだよ」


 聖澤と話していた時の勇気や覚悟はどこにいったのか。お風呂でかいた汗と一緒に流れ出てしまったのかもしれない。


「……俺は」


 強く目を閉じる。


 あの日、神薙に呼び止められた時のことを思い出す。


「どうして!」


 彼女は、歯を食いしばって感情があふれ出るのを押し殺していた。


「どうして!」


 こちらを睨みつけていた。


「どうして!」


 その目からは涙が絶えず流れていた。


「どうして!」


 怒りと悲しみが混在した歪んだ顔で、その四つの文字を繰り返し吐き出す神薙の姿は、諒太郎の罪そのものだった。


 そんな彼女と話すのは、その時以来。


 怖い。


 話したくない。


 彼女と向き合いたくない。


 自分の罪と向き合いたくない。


「……やるって決めただろ俺!」


 こんなんじゃダメだと、諒太郎は立ち上がる。リュックから大剣女子戦記を取り出して、最後のページに挟んであるくしゃくしゃの写真を取り出す。


「ウヨ……」


 肩を組んで笑い合っている二人。


 あの日までは、毎日のようにウヨと笑い合っていた。


 いつでも、いつまでもできると思っていた簡単な行為のはずだった。


「ウヨ……」


 諒太郎は胸を掻きむしる。


 あの頃の自分は、満面の笑を浮かべながらウヨと肩を組むことができた。


 でもウヨはその時、どんな気持ちで、どんな感情で、どんな精神状態で笑っていたのだろう。




 ――なぁ、ウタ。俺さ……。




 二人で格闘ゲームをしていた時にウヨからかけられたその声は、今もなお鼓膜に貼りついている。


「ああもう! なんだってんだよ!」


 頭を振って過去の幻影を振り払い、頬をパンパンと叩いた。


 周りに見せている自分と本当の自分の乖離。


 ウヨと同じ悩みを抱えている聖澤を救い出したい。


 深呼吸をして、ベッドの上で正座をして、スマホを耳に押し当てる。


 六回呼び出し音が鳴った後、ようやくつながった。


 それだけでめまいがした。


「もし、もし」


 その声と共に内臓をすべて吐き出しそうになる。


『……もしもし』


 神薙の声は震えている、気がする。彼女の声を聞いた瞬間、「どうして!」という言葉がフラッシュバックして覚悟が揺らぎかけたが、唇を噛みしめて、根性で右耳にスマホを押しつけ続けた。


「神薙か? ひ、久しぶり。泰道……です」


『……ああ、久しぶり。あの時……三年ぶりくらい?』


「たしか」


『だったよね。本当に久しぶり』


 中身のない会話の応酬が続いた後、どちらからともなく無言になった。


 神薙の声はどこか冷たさを帯びているように思う。


 その冷たさが、諒太郎の心をちょっとずつ氷漬けにしていく。


『……もしもし?』


「えっ、……あ、ごめん」


『いや、謝らなくても』


「すまん」


『だから謝まんないでよ』


「……すまん」


『えっと、なにか用?』


 しびれを切らしたのか、神薙の方から聞いてきた。


「はい。……その、なんて言うか、神薙に…………」


 心が誰かに絞め上げられている。


 ああ、これはウヨの手だ。


 絞られている心からは黒く濁った水滴がぽたぽた落ちていく。


「会ってほしい人がいて……」


 言った。


 言えた。


 言うことができた。


 気がつけば、諒太郎は正座したまま上半身を折り曲げており、土下座のような格好になっていた。


『会ってほしい人? 私に? どうして?』


 誰? じゃなくて、どうして? と神薙は言った。


 そうだ。


 言うのがゴールじゃない。


 諒太郎は目を閉じたまま言葉を捻り出していく。


「実は今、ある人の相談に乗ってて」


『相談? あなたが?』


 そんな権利あるの? 親友を見捨てたあなたなんかが解決できると思ってるの? と糾弾せんばかりの棘のある声だった。


「まあ。で、その人は……取り繕った自分と本当の自分の乖離に悩んでいて」


『へぇ』


 神薙のたった二文字の相槌にすら、圧倒的な敵意が込められている気がしてならない。


 それでも、諒太郎は止めない。


 聖澤を救うことが自分の贖罪だから。


「そいつは、その……コスプレが趣味で、でもそれを周りの友達には、キャラじゃないからって理由で言えてなくて、ああもちろん女子で」


『なるほど。それで私か』


「そういうこと」


 諒太郎は溜まっていた唾をごくりとのみ込む。


「そいつはコスプレが大好きで、それはただ見ているだけだった俺にも伝わってきた。本当なんだ」


 聖澤が緊張して恥じらう姿、安堵して床に座り込む姿を思い出す。


 彼女は今日、初めてコスプレ姿で人前に出たのだ。


 本当の自分をさらけ出したのだ。


 それはあの日のウヨと同じくらい、怖かったのだと思う。


「だから俺は、そいつにコスプレ友達を作ってやりたくて」


 通話口の向こう側から、神薙が小さく息を吐く音が聞こえてきた。


 それは、なにを今さら電話なんか、というため息なのかもしれない。


 それでも諒太郎は続ける。


「俺はあいつになんの気兼ねもなく自分をさらけ出せる場所を、そんな出会いを、友達を、コミュニティを作ってやりたくて」


 自分で自分がなにを言っているのかもわかっていなかった。それでも、諒太郎は頭の中に浮かんだ言葉をそのまま、なんのフィルターも通さずに伝え続ける。


「頼む。俺、あいつを助けたいんだ。俺のことを恨んでるのはわかってるけど、でもそういうことに詳しいやつを神薙しか知らないんだ。もし俺に会いたくなくても、あいつにだけは」


『そうだね。私はあなたに二度と会いたくないと思っていた』


 神薙の冷たい声が耳に届く。


 ダメなのか……?


『どうしてあんたが今さら、って着信画面の名前を見た時は、そう思ったよ』


 諒太郎は息を止めていた。どうして、という単語が言葉の中に入っているだけで舌を噛み切って死にたくなる。


『でも……そうだね。私があなたに対して抱いている気持ちと、あなたの言っている子の悩みは関係ないから』


 神薙はそこで一度言葉を止めた。


 次の言葉が聞こえてくるまでの時間が、ひどく長く感じた。


『いいよ。その子のために。協力、って言葉は変かもしれないけど、会ってあげる』


「ありがとうございます」


 諒太郎の目から涙が溢れ出る。


 よかった。


 聖澤の笑顔が脳裏に浮かぶ。


『だから何度も言ってるけど、あんたのためじゃないから』


「わかってる。……えっと、じゃあ彼女の連絡先教えるから。俺はもう間に入らない方がいいだろうし」


『それなんだけど』


 神薙の声が鋭さを増す。


『私が、その子と会うにはひとつだけ条件がある』


「条件?」


 だったらそれを早く言えよ。聖澤のためならなんでもやるつもりだ。


『それは、その子と一緒にあんたも来ること』


「……え」


『それがだめなら、私はその子と絶対に会わない』


「絶対って……」


 諒太郎は現実を突きつけられた。


 聖澤と直接やり取りをするように言ったのは、もうこれ以上神薙とかかわっていたくないからだ。


 彼女の声を聞くたびに思い出してしまう「どうして!」と、向き合いたくなかったからだ。


『どうなの?』


「……わかりました。お願いします」


 そう言うしかなかった。


 自分の惨めさに歯向かう最後のチャンスになると思ったから。


 ここで過去と、神薙と向き合わなければ、自分は一生このままだ。


『いいえ、こちらこそ』


 明るい声が、ひどく不気味だった。


 なにかを企んでいる風にしか聞こえない。


 それから、今後の予定を簡単に取り決めて、神薙との電話を終えた。


「……ウヨ」


 その名前を呟きながら、諒太郎は机の上に置いてある大剣女子戦記のもとへ向かう。


 中に挟んである写真を取り出して、じっと眺め、


「なんでだよ!」


 くしゃくしゃに丸めて床に投げつけた。


「なんで俺ばっかり!」


 足で何度も踏みつけた。


「ふざけんなよ!」


 それがあまりにもひどすぎる責任転嫁だとしても、後で更なる後悔の波が押し寄せるとわかっていても、諒太郎は溢れ出る自分への嫌悪感をなにかに、ウヨに、ぶつけずにはいられない。


「勝手に死ぬんじゃねぇよ! 俺のせいみたいじゃねぇかよ!」


 諒太郎は何度も踏み続ける。


「ウヨ……俺は……」


 そして、その写真を拾い上げ、丁寧に広げて、抱きしめる。


 諒太郎がこうして理不尽に怒りをぶつけても、ウヨは満面の笑みを浮かべたままそこにいる。

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