第3話 図書準備室で
諒太郎は登校後、いつものように耳にイヤフォンをつけ、自分の席でラノベを広げた。廊下側の前から三列目。諒太郎はこの席を結構気に入っている。
「ほらー、席につけー」
しばらくすると、面倒くさそうな声とともに担任の
一限は物理……ああ、置き勉か。
諒太郎は机の引き出しの中から物理の教科書を取り出す――
「――ん?」
とっさに周囲を見回した。誰かが見ている様子はない。教室は普段と変わらず騒がしいだけだが……どういうことだ? ゆっくりと視線を教科書の上に戻して、何度か瞬きする。
これ、現実だ。
諒太郎の物理の教科書の上には、丁寧に二つ折りにされた紙が置かれていた。四枚入り五百円で売られているようなちゃんとした和紙。
机に手紙ってことは……ラブレターか? いやいや、今どきこんな古典的な方法とるやつなんていないだろ。
なんて違っていた時の保険を掛けつつ、諒太郎は手紙を開く。
《泰道くんへ》
誰が見ても綺麗だと思える字で、そう書かれてあった。
《昨日のことで話があります。放課後、図書準備室に来てもらえますか? 後、この手紙のことは秘密にしてください》
差出人の名前は書かれていなかったが、諒太郎はその手紙を書いた主が誰かすぐにわかった。窓際最前列、聖澤の席をちらりと見る。
あいつ、かよ。
昨日のことが鮮明によみがえる。
コーヒーをかけられた挙句にビンタまでされるという散々な一日だったが、この文面から、和沙とかいう女が無事にDV野郎と区切りをつけられたことが読み取れたので、とりあえずほっと胸をなでおろした。
放課後、諒太郎は書かれていた通りに図書室の奥にある図書準備室へ向かった。
我が校の図書室は本の数が少なく、また勉強スペースもないため、人が来ることはほとんどない。そんな場所のさらに奥の部屋って、どんだけ人に見られたくないんだよ。パパラッチにおびえるハリウッドセレブか。
本棚の間をかいくぐるようにして奥へ進み、図書準備室の扉の前まで向かう。ノックすると扉が三センチほど開き、ゆるふわボブがその隙間から顔を出した。
「入って」
小さな声で言って手招きする聖澤は、諒太郎の背後をしきりに気にしている。だからハリウッドセレブか。
「誰も来ねぇよこんなとこ。ってかお前がどかなきゃ入れねぇから」
「そっか。ごめん」
聖澤が体を開いて道を開けてくれる。
諒太郎が図書準備室に入ると、すぐさま聖澤が扉を閉めて鍵をかけた。
「そっち、とりあえず座って」
聖澤に促されるまま、部屋の中央に置いてあるパイプ椅子に座り、鞄を机の上に置く。古書が山積みのこの部屋は、ものすごく埃っぽかった。
「この部屋、勝手に使っていいのかよ」
「そこは大丈夫。私、図書委員だから」
謎の理論を振りかざした聖澤が、たどたどしく向かいの椅子に座る。「あ、これ」と、机の上に置いていた缶コーヒーを諒太郎の前にすすっとずらした。
「は?」
「は? ……って」
聖澤は不思議そうに首をかしげた。
「飲んでいいよ。それ」
「だったら最初からそう言ってくれ。俺たちは熟年夫婦じゃねえんだぞ」
「いやいや、目の前に差し出されたら普通は渡されたって思うでしょ。出会って五秒のおじさんから同じことされても普通わかるよ」
真顔でそう訂正する聖澤。
いやいや、こいつ天然か?
「出会って五秒のおじさんからもらったコーヒーなんて飲みたくないけどな」
「じゃあこのコーヒーはいらないってことですか? せっかく買ってきたのになぁ。ぐすん」
「恩着せがまし過ぎんだろ。……とりあえずもらうけど」
泣きまねをする聖澤に呆れつつ缶を手に取り、プルタブを引き上げ、ずずっとコーヒーを口に含んだ。
「ふふっ。今たしかに飲んだね。飲みましたね」
その瞬間、聖澤がにやりと黒い笑みを浮かべる。
ま、まさかこいつ、コーヒーになにか変なもの入れやがったのか?
でも未開封だったぞ。
背中にじわりと汗がにじむ。得意げに人差し指をピンと立てている聖澤の口の動きがスローモーションに感じられた。
「このコーヒーを飲んだということは、泰道くんは私にひとつ貸しができたということです。つまり泰道くんは私の言うことをなんでも聞かなければいけないのです」
「たかが缶コーヒー一個で横暴過ぎんだよ!」
「冗談だってば。これはその……なんていうか、まじめな話をする前のジョークって言うか、その……」
聖澤の声は次第に小さくなって、最終的に聞こえなくなる。聞こえた部分から察するに、これまでのやり取りはこいつなりのボケというか、場を和ますための工夫ってことでいいのだろうか。もしくは、泰道諒太郎という男がコーヒーかなにかで機嫌を取らないと話をしてもらえないような、怖い男に見えていたってことか? 昨日、こいつの前で友達を罵倒したのだから、きっとそうだ。
「そもそもさ」
諒太郎は聖澤を安心させる意味を込めて言う。
「お前が俺を呼び出して、俺がそれに応じてやってきた。つまり俺はお前の話を聞くって意思を示したんだから、なんの要件か早く話せよ」
人と話すことに慣れていなかったせいか、途中から問い詰めるような言葉になってしまった。
「あ、そうだよね。えっと……」
聖澤は目を伏せ、もじもじ身をよじらせる。いいから早くしろよ、と諒太郎が急かそうとしたその時。
「昨日はビンタしてごめんなさい」
深々と頭を下げた。
「和沙を救ってくれてありがとう。和沙、あなたの言葉でふっ切れたって。あの後、私たち二人で和沙の彼氏と会って、『もう別れる』ってちゃんと言えたから」
「そうか。……で?」
「で? って?」
「だから、そのDV野郎は逆ギレしなかったかってこと」
諒太郎としてはそこが一番気になっていた。
あの罵倒手法を使った以上、諒太郎がそこまで手伝うことはできない。
「そこはばっちり、大丈夫だったよ」
聖澤の声に明るさが戻る。
「人が多くいるところで言ったし、なんなら、和沙の堂々とした顔見て明らかに動揺してやんの。『わかりました』って敬語使ってやんの」
楽しそうに和沙とかいう女の元彼のマネをする聖澤を見て、ようやく肩の荷がすべて下りた。
「まあ、そうだろうな。DV男って自分より弱いやつにしか興味ないから。強く出た途端、態度をころっと変えるんだ」
「まさにその通りだった。ほんと笑っちゃうくらい情けなかったよ、そいつ」
にやにや笑う聖澤を見ながら、諒太郎はコーヒーを啜る。さっきよりもぬるくなっていたが、その熱はとても心地よかった。
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