第2話 クソ男

 翼は駅のロータリーにあるベンチに座って途方に暮れていた。あまりの急展開に唖然としてすぐに追いかけられなかったため、和沙の姿を完璧に見失ってしまった。


「和沙……」


 和沙はあいつのせいで完全に怒っていた。ただでさえDV彼氏の呪縛に囚われて傷ついているのに、あんな風に精神的に追い討ちをかけるなんてどういうつもりだ。今の和沙の心情を慮ると、腑が煮えくり返る。泰道があんなひどいやつだなんて思わなかった。いつも一人で本を読んでいる根暗なやつという印象しかなかったが、あれほどまでに嫌味なやつだったとは。


 などと思っていると、ポケットの中のスマートフォンが震え始めた。「和沙っ」すぐに確認する。翼がさっき送った《今どこ?》に対する和沙からの返信が届いていた。


《急に飛び出してごめん。翼こそ、今どこ?》


 翼は急いで居場所を知らせた。


 意外と近くにいたらしく、五分程で和沙はやってきた。


「和沙」


 正面から歩いてきた和沙を見つけた瞬間、翼は立ち上がった。


 和沙も「ごめん翼」と謝りながらこちらへ駆け寄ってくる。


「よかった。あんな風に出ていったから心配で」


「ほんとにごめんね。ちょっと感情的になっちゃって」


「和沙は全然悪くないって。でも、あんな和沙初めて見たかも」


「私も、あんなにプッツンってなったの初めてだった」


「そりゃそうだよ。ってかあいつ何様のつもり。ひどすぎでしょ」


「あははは、たしかにそうだね」


 小首をかしげて笑う和沙の姿を見て、翼は違和感を覚えた。けれど、その違和感の正体が全くわからない。喫茶店から走り去っていく時の和沙からは禍々しいほどのオーラが漂っていたのに、今は出家でもしたんじゃないかってくらい晴々とした表情になっている。オリンピックの表彰台で金メダルを噛んでいる選手と同じような顔だ。


「そうだねって、本当に大丈夫?」


「大丈夫って?」


「あいつの言ったことなんか信じないでいいからね。和沙は今のままでじゅうぶん素敵だから」


「ありがとう。でも、本当に大丈夫だよ」


 言葉通りの晴れやかな笑みを浮かべる和沙を見て、翼は取り残されたような気分になった。泰道の暴言をそばで聞いているだけだった自分の胸には未だに怒りが残っているのに、どうしてそれを直接浴びせられた当事者の和沙は、さっきの出来事がなかったかのように飄々としているのだろう。


「……なん、で?」


 知らぬ間に、そんな言葉が口から出てきていた。


「なんで和沙はそんな平気そうなの? あいつの言葉ひどかったじゃん」


「ああ、それはたしかに。まあそうなんだけどさ」


 和沙は苦笑いを浮かべながら、手首の青あざをさすり始める。


「なんかさ、自分でもわかんないんだけど、いい感じにふっ切れたんだよね」


 言葉も出なかった。


 ふっ切れた?


「実際ね、こんな気持ちになってる私自身が一番驚いてるんだけど、ほんと……なんて言ったらいいんだろう。あいつの言ってたことってさ、言葉は悪かったけど全部正論だったじゃん」


 和沙は風にさらわれそうになった髪を耳にかける。


「だから私、きちんと言い返せなかったし、逆ギレしかできなかった。悔しくて、惨めで、なんで私こんな思いしなきゃいけないんだろう、公衆の面前で恥かかないといけないんだろう、って感じで頭の中で感情がグルグルしてさ。それであいつにアイスコーヒーかけた瞬間、もういいや! って頭の中でパンッてなにかが弾ける音がしたの。こんな惨めな気持ちになってまでたーくんとつき合う意味ないなって、これまでの私バカみたいって、開き直れたっていうか、もうほんと自分でもよくわかんないんだけど、めっちゃ今、清々しいんだ」


「へぇ、そ、っか」


「うん。もう私、たーくんとは別れる。バカらしいから」


 そう言った和沙が見せた笑顔は、翼がこれまでに見てきたどの笑顔よりも美しく輝いていた。


「そ、そうだよ。ほんと、あんなやつにかかわるのなんてバカらしすぎだよ」


 話を合わせつつ、翼は自分が抱いている奇妙な感情の分析をしていた。和沙がDV野郎と決別できてよかったという安堵と……後の感情はうまく説明できない。和沙の心を変えたのが泰道の言葉という事実が、なんだか癪に触る。でも実際に和沙の心に届いたのは彼の言葉だ。


 それが虚しいというか、悔しいというか。


「翼?」


「……」


「ちょっと翼?」


「へっ?」


「大丈夫? なんかぼーっとしてたよ」


「あ、ああごめんごめん。本当よかったなぁって安心しててさ」


 ごまかしの言葉を並べながら、翼は自分の右の手のひらをじいっと見つめる。この手でさっき泰道くんの頬を叩いたのだと思うと、手汗がじわじわと滲みだした。


「ねぇ、和沙」


 その手をぎゅっと握りしめると、叩いた時に手のひらに感じた痛みがよみがえった。


「あいつのこと、今はどう思う? うちのクラスメイトで、泰道って言うんだけどさ」


「えっ? あいつ翼のクラスメイトだったの?」


「話したこともないようなやつだけど」


「そうなんだ。で、あいつがどうかしたの?」


「いや、だからその……あいつの言葉で開き直れたっていうからさ、今はどう思ってるのかなって」


「あー、そういうこと」


 和沙は満面の笑みを浮かべながら、こう言った。


「普通にめっちゃムカついてる。あんなこと言われて許せるわけない。もう二度と会いたくないクソ男だわ」


 その嬉々とした言葉が、翼の鼓膜に貼りついた。


「そうだよね。あんなの、やっぱ最低だよね」


 翼も和沙に合わせて笑顔を浮かべたが、うまく笑えている気がしなかった。

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