最終話 殺人小説の書き方

 アラームがうるさい。刺激されたのかどこかで犬が鳴いている。パトカーのサイレンが聞こえる。ここに向かっているのだ。たどり着いたら、私は逮捕されるだろう。桐生も。私は殺人犯で、桐生も殺人犯だ。鳥井さんは動かない。血が、絨毯にゆっくりとしみ込んでいく。私は桐生の腕に支えられていた。別にたくましくも頼りになるわけでもない、長くて細い桐生の腕。

 捕まってもいい。そう思っていた。今もそう思っている。サイレンが近づいているのかどうか、酸素の少ない脳にアラームの音が突き刺さって、よくわからない。どうでもいい。好きにすればいい。

 そして、死んでもいいと思っていた。もう書けなくてもいい、とも。

 小説を書こう、と思ったときの、子どもだった私の希望は、叶えられなかった。叶えられないまま、夢の輪郭さえ年月の中に消えてしまった。生まれる前に教えてもらった暗号を、知っている人たちと話してみたかった。自分の中で強烈に燃え盛るものがあり、その熱を人に移したいと思っていた。でも、無理だった。もうそれでいいと思っていた。私には私の書いた本がある。そして、私には、私の馬鹿げた、だが懸命だった戦いがあった。もうそれで十分だと思っていた。望みの全てが叶わなくとも、たいして愛せなくとも、もうこれだけでいい。

「桐生」

 喉のどこかが壊れているのか、声はまともに出なかった。

 桐生は泣いていた。私に落ちる涙は、熱い。桐生も、泣いたりするんだ。私以外の人間も、泣いたりするんだ。

 初めてもらったファンレターのことを思い出す。相手の名前を覚えていない。どんな封筒でどんな便箋だったのか、どんな字だったのか、もうまったく思い出せない。「あなたの本を読んで人生が変わりました。」そう書いてあった。嬉しかった。そのことだけは覚えている。でも、嬉しさは薄れる。どうせ嘘だ。書いたときだけ本当でも、書いた人間もきっと忘れるし、私も忘れる。

 でも。

「私のために、殺してくれて、ありがとう」

 本当だったのだ。嘘じゃなかった。本当に、私のために、殺してくれた。私の本を読んで、本当に、人生を変えた人がいる。小説を通して、私の熱に心臓を燃やされた人間が、ここにいる。私が熾した同じ炎に、私たちは焼かれている。こんなものは間違っている。わかっている。でも、正しさと関係なく、炎は燃える。一度ついた火は、私の意思とは関係なく、桐生のなかで燃えている。その腕に今抱かれている。これは、なんだろう。この感覚。こんなものは知らない。読んだことがない。こんなものは書かれたことがない。ここに、この瞬間にしかない。そして、私はきっと、この感情も、いずれ忘れる。どんな強烈なものでも、私たちはすべてを忘れる。

 だから、書かなくてはいけない。

 私は捕まるだろう。どんな罪になるのかはわからない。でももう、構わない。諦めではない。取調室では、何が起こるだろう。被告人席から見る裁判は、どんなものだろう。刑務所の中は、どんな空気だろう。静まっていた私の中で、また何かが燃え上がる。諦めも、全身の痛みも焼かれていく。私自身の肉を燃やす炎。桐生が愛して、守ってくれた炎だ。私は、この熱が愛しい。自分でも持て余していたこの熱が、今、ただただ、愛しい。また、燃え広がせて見せる。言葉を通して、誰かの心に炎を宿してみせる。そうして世界を焼いて、書き換える。私には、それができる。今、はっきりそれがわかった。私には、できるのだ。もう疑わない。世界は私の前にある。私に背を向けた世界。それでいい。私は今、世界のことを恐れていない。世界は、私に焼かれるのを待っている。

「桐生」

 桐生はまだ泣いている。私は手を伸ばして、その涙を拭った。

「私、書くよ。刑務所の中だって、小説は書ける」

 私は微笑んだ。桐生も微笑んだ。この瞬間。この感情。私は、書かなくてはいけないのだ。これをこの世界に文字として刻み付ける。そして読ませる。今はまだ顔も知らない誰かの心臓を燃やす。私は、それがしたいのだ。

 アラームは鳴りやまない。サイレンは近づいてきている。

 涙で濡れた手で、桐生の手を握った。桐生の手は、乾きかけた血でべたついていた。生ぬるい、不愉快な感触の手を握り合い、私たちはほんの束の間、二人で寄り添っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

殺人小説の書き方 古池ねじ @satouneji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ