第18話

 桐生北斗がその本に出会ったのは、中学一年生のときだった。よく行くショッピングセンターの大型書店で、漫画の立ち読み用の冊子をあらかた読み尽くしたところで、平台に積まれていたのを見た。何に惹かれたのか、自分でも説明がつかない。タイトル。表紙。帯。作者の名前。どれかひとつを取り出しても意味を持たないが、本としてそこにあると、強烈に意識を惹きつけられた。それほど分厚くないがハードカバーの単行本は、北斗の財布の現金の三分の二を費やさなくてはならなかったが、高いとは思わなかった。それを買える金額が財布に入っていることが嬉しかった。中を見ることもなく、一番上にある本を取ると、レジに並んで買った。初めて自分で買った小説の単行本だった。読書が好きなわけではなかった。帰りの車で本を開いた。帯に、「中学生小説家」と書いてあった。カバーの折り返しのところに、不安げな顔をした、幼い女の子が写っていた。ふっくらとした頬の、小学生にも見えるあどけない女の子だ。プロフィールの生年で自分と同い年であることを確認した北斗の感想は、

 失敗したかな。

 だった。そういう本だとは思わずに買ったのだった。プロフィールは見ないようにして、小さな危惧を抱えながら、本文を読んだ。

 強烈な体験だった。

 北斗は読書家ではなかった。本が好きなわけではなかったし、言語による表現にたいした思い入れもなかった。それなのに、一ページ目で魅了された。自分の今まで経験した感情すべてが、その本の語彙に塗りつぶされていき、価値観すべてを書き換えられた。須藤鏡花は桐生北斗の生きる指針で、生きる楽しみそのものだった。この喜びをどうしていいのかわからず、北斗は手紙を書いた。

「あなたの本を読んで人生が変わりました。」

 びっしりと便せんを熱っぽい言葉で埋めて、ポストに投函した。その途端、自分の言葉すべてが陳腐に思えた。本当の事なのに、紙に書けば安っぽい物語になってしまう。

 返事はなかった。それでよかった。桐生北斗のような人間は大勢いたのだろう。須藤鏡花はどんどん本を出した。それだけでどんな手紙よりも価値があった。桐生は本が出るたびに購入した。予約していたのに前日に他の書店に並んでいるのを見て買ったことさえある。二冊の同じ本。一冊は読まずにとっておいた。

 須藤鏡花の小説は素晴らしかった。何が素晴らしいのか、北斗にはいつまで経っても誰かに通じるかたちで言葉にできなかった。魅力的なキャラクター。設定の面白さ。読みやすく、難しい言葉を使わないのに独創的な文章。一言で説明できない複雑で、強い読後感。だましの鮮やかさ。そして全体を貫く、今はまだ見えない場所にある美しさを夢見るようなまなざし。レビューや書評に書いてあるそれらは、どれも正しい。だが北斗が惹かれた理由をそれで説明することはできない。言葉にすると、どれも代わりがいるように感じるのだ。同じ言葉で賞賛される作家もいるだろう。だが須藤鏡花は違うのだ。須藤鏡花がエッセイや書評やインタビューで影響を受けたという作家を、北斗は片端から読んだ。面白いものもあったが、読まなくてもいいと思ったし、人生からこの本が消えても惜しいとは思わないだろうと感じた。須藤鏡花だけが特別だった。彼女だけは、代わりがいなかった。理由なんかない。ただ須藤鏡花が、須藤鏡花だったというだけだ。

 彼女を同い年の少女だとは思えなかった。そもそも、生きている人間だとも思えなかった。遠く高い場所にいる何者かだった。自分なりに崇めていればいい。信仰が孤独になれば、インターネットで検索すればよかった。彼女の作品についての情報は尽きることがなく、彼女を崇めるのは自分だけではないのだとすぐに知ることができる。実生活で何かがあっても須藤鏡花の本があると思えばそれでよかった。自分の生活と、須藤鏡花の作品世界。その二つの軸があり、そうすれば人生はとても楽になった。自分とともに須藤鏡花がいて、自分のはるか先にも須藤鏡花がいる。弱くなった時にはよりそってもらえ、遠くを見るときにはその先で手を振っているのが見えた。彼女はすべてだった。

 国文学科を選んだのは、彼女の作品で卒業論文を書こうと思っていたからだった。同じ大学に進んだのは単なる偶然だった。一目で須藤鏡花だとわかった。想像した姿とはまるで違っていた。おそらくどんなふうでも想像とは違っていただろう。生きていることさえ信じがたい気がした。生きている、自分と同い年の少女。写真で見るよりはるかに華奢な体。赤ん坊のように細くて柔らかそうな髪。

 現実の鏡花は、北斗の予想のすべてを裏切るようにそこにいた。好意的な視線を切りつけるように攻撃的で、自分本位なのに自分に対しても冷笑的で。可愛らしくて、憎らしい。

 ファンレターとか送って「人生変わりました」とか言ってくるやつ嫌いなの。

 赤ちゃんのような上唇がちいさくとがった可愛い口で、彼女はそんなことまで言った。そう言ったあと、北斗を見上げた眼差しは険しかったが、そこには甘えがあった。ひねくれた甘ったれな女の子。目の前の人間が真剣に出したファンレターを、それとは知らずに馬鹿にする。

 だが、失望なんてできるだろうか? 彼女は須藤鏡花なのだ。それ以上の何が必要なのだ? 彼女自身にさえ、それが本当にはわかっていない。彼女の言う通りなのだ。本を買った。それでこれだけのものを得るなんて、確かにおかしい。彼女が人々に、少なくとも自分に、どれだけのものを与えたのか。誰も何もわかっていないし、彼女はその対価を得ていない。金。名声。それがどれだけのものだろうと、意味がないのだ。須藤鏡花は、桐生北斗を幸せにしてくれた。彼女の本があり、この本を書く人がいて、この本を読む人がいる。それが北斗にとってどれだけ心強いことだったか。須藤鏡花の本は桐生北斗の祝福だった。

 彼女が本を書いたことに対する正当な対価。そんなものはこの世界すべてでも足りないが、少なくとも、彼女が幸せでなければ、これは一方的な搾取だ。

 私のために人でも殺すぐらいはしてくれないと。

 鏡花のその言葉が、北斗の心にいつまでも残った。自分は須藤鏡花のために人を殺せるか?

 それはただ信仰を確かめるための思考実験ではなかったのだ。鏡花は北斗の前で、実際に人を殺そうとした。彼女の小説からすれば驚くほどたわいない、可愛らしい手段で。

 言われれば自分がやったのに。

 北斗はそう思った。本当に、深く、そう思った。どうせたいした男じゃないのはわかっていたが、そもそも動機などどうでもいいのだ。須藤鏡花があの男を殺せと指さしたなら、自分は殺す。どんな善人でも、自分は殺す。正しさなどどうでもいい。桐生北斗は倫理的な人間だった。不正を許せない。だがその倫理よりもさらに奥深くに須藤鏡花がいた。倫理よりも彼女が大切だった。較べることさえできない。

 だから探偵になったのだ。彼女の関心を惹きたかった。そして、いざというときに彼女を守りたかった。鏡花とつながりのある同期とはつながりを維持し、彼女が必要になったときは一番に応じられるようにしたかった。彼女に意識されなくとも、彼女のためにこの仕事を思うと満足だった。そして、本当に彼女はやってきた。殺人の痕跡を表情にべったりと貼り付けて。構わない。彼女が何人殺していてもいい。守ってやりたかった。一人で自分を殺そうとした鳥井と対峙しようとする鏡花を追って、庭に潜んで様子をうかがった。そして再び鏡花を殺そうとした鳥井を、自分の手で殺した。

 夢がかなったのだ。

 本当は喜んではいけないのかもしれない。結局自分はただ探偵ぶっていただけの素人だ。もっとうまくやれば彼女に危害が加えられることもなかっただろう。だが、もうそんなこともどうでもいい気がした。石を振り上げて、ためらいなく振り下ろしたあの瞬間。頭蓋骨が砕け、皮膚が弾ける感触。鏡花によって与えられた自分の人生が、ここに行きついた、と感じたのだ。桐生北斗という実在の人生と、須藤鏡花によって与えられた夢の人生が、そこで一つになる。与えられたものを、彼女に捧げる。

 北斗は満足に微笑んだ。細めた目尻から、涙が零れて、それは鏡花の頬に、ぽつりと落ちた。

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