第13話

 桐生北斗と早いうちに知り合ったのは、結果的に助かった。大学での私は自由だったけれど、同時に無防備だった。自分の身の守り方もよく知らなかった。私は可愛くなった。可愛い、と言っておけばいいと思われていた時期とは異なり、本当に可愛くなった。だが本心から可愛い、と思われるのも問題がないわけじゃない。というか、可愛い、という言葉には、本質的に相手を軽んじているところがある。掌にのっけて、評価する。そういう部分がある。

 大学生になった頃、ミステリ関係のイベントに顔を出した。大きくなったねとか綺麗になったねとか言われて、不愉快だった。なんのつもりなんだ? 親戚気どりか? そこで、何回か会ったことのある評論家に声をかけられた。確か塾講師と兼業しているとか言う、わりと若い男だ。若いと言っても三十は過ぎてた。まあ、若手ではある。私が初めて会ったのはその二年ほど前で、ふと、この男と私は若手同士なんだなと思った。それまでの私は完全に別枠だった。若手から、さらに「須藤鏡花」という一人しか入れない枠に入っていた。でももう大学生だ。業界に大学生は、少ないがいないわけではない。どこかの大学のミステリ研究会の会員が出入りしているのも見る。私はもう若さだけで目を引くほどは若くないのだ。

 その評論家に興味があったわけではない。話が下手で、特定の年代のミステリへの知識はあったが見方が私とは合わなかった。それでもある種の仲間意識のようなものを、持ったのだと思う。仲間意識。そういうものへの期待。私は本当の仲間意識というものを経験したことがないから、それが本当に仲間意識と呼べるものなのかはわからない。

 私はその思いつきに、ちょっと浮かれた。もともと大学生という自分の立場に浮かれていたので、私の態度はだいぶ浮ついたものになったと思う。よく笑い、よくしゃべった。男は楽しそうだった。私としゃべることで誰かが楽しそうにするのは、珍しかった。男たちは私を通して男同士の目くばせをするだけで、女の人たちは優しくても、年が離れすぎていて、義務的に相手をしてくれるだけだった。不愉快ではないが、気まずい。だから、私は、嬉しかった。私ももしかしたら、仲間ができるのかもしれないと思った。ずっと変わらなかった景色が、少しずつ変わってくる予感があった。

 話し込み、他の人間とも挨拶し、それからもう一度イベントの終わりごろにその男と話した。また、と言って別れるのかと思ったら、人目のない会場の隅で、男は私の手を握った。髭も濃くないつるっとした顔の男なのに、指の毛が濃く、そんな男の手に握られていると、私の手は驚くほど幼く見えた。磨いただけの短い爪。丸みのある小さな手。子供の手だ。

 今度は二人で会おう。

 と、男は言った。私は手をそこから抜いた。

 無理。

 と、一言答えた。背中に汗をびっしょりとかいていた。私はそれから誰とも話さずイベントから立ち去って、家に帰った。そして少し泣いた。化粧を落とすために洗面台で鏡を見た。目元の化粧が崩れて髪もぐちゃぐちゃになっていたけれど、私は可愛かった。きっと、あのイベントで、私はたいそう可愛く映ったことだろう。魅力的な若い娘。

 可愛いって、悲しい。

 そう思った。そしてまた泣いた。可愛いということは、獲物になるということだった。私はそのことを、初めて実感した。そして、あの男の体温を思い出した。手を握ったときの、私の様子をうかがう卑屈な、それでいて私の拒絶を封じるような傲慢な視線。生暖かい気色の悪い体温。その生暖かさには、覚えがあった。手を握ったり直接誘うようなことがなかっただけで、今まで、色んな男が私をああいう目で見ていた。私は、気付かなかった。気付かずにあんな視線にさらされていたのだ。

 許せない。

 化粧を落とした。素顔の私はつるつるとした幼い顔を鏡に見せていた。幼くて弱い可愛い女の子。

 許せない。

 きつく鏡を睨みつけた。可愛い顔。どんなに歪んでいても、可愛い顔だ。脅威さえ感じられなかったら、どれだけ見慣れないものでも、人は可愛いと思える。私は可愛い以外の何者でもない。まがいものの可愛さから、本物の可愛さを手に入れたところで、結局、可愛い、という言葉自体が、まがいものに対するものなのだ。本当に尊重し、おそれるものに、人は可愛いとは言わない。

 可愛いことは、嫌だなと思った。でもきっと、可愛くないと思われるのも、嫌なのだった。ブスとか、自分のこと可愛いと思ってそうとか、そういうことも、インターネットで書かれているのを見る。どんな顔でも何かを言われる。どんな顔なのかは本当は関係ない。可愛くないとか、可愛いと思ってそうだけど可愛くないとか、そういうことが重要だと思われている。問題はそこなのだ。私が気にする、気にしないさえ本当は問題ではない。気にしなくても事実は変わらない。金がないことを気にしなくてもいいと言う人間はあまりいない。金があるないは現実の問題だからだ。金ほど明確な形ではなくとも、どういう立場にいるのかは、現実なのだ。現実にそういうことがあるのに、気のせいにされる。じじいが不細工でもまともな顔でも問題にはならない。そうみなされていないから。でも女性が自分の外見を悩むのは、気の持ちようではない。外見によって女性は明確に立ち位置が変わる。でも、それを指摘するとその人の気の持ちようの問題にされる。そして、どんなに美人でも不細工なじじいより低い場所に置かれる。それは現実なのだ。気の持ちようではない。

 金は現実だ。私の立場も現実だ。若い女。それだけで弱いものとされること。それは気の持ちようなんかじゃない。現実なのだ。

 でも、金は稼ぐことができる。私は十代のうちに、何億もの資産を作った。できそうにないことを、やって見せた。できるのだ。他の誰にもできなくとも、私には、できる。

 じゃあ、このくそみたいな現実だって、書き換えることができるんじゃないか?

 それはふいにやってきた、天啓に似たひらめきだった。私は書ける。私は書き換える。すでに私は小説を書くことで、いくつか現実を書き換えた。そんなつもりはなかったけれど、あらゆる最年少記録を塗り替えた。何より、須藤鏡花という人間の意味を書き換えた。私は小説を書く前の私とは違う。

 私は本棚を見た。私の書いた本だけの本棚。単行本。文庫。コミカライズ。翻訳。アンソロジー。もう大きな本棚のほとんどが埋まりつつある。ずっしりとした紙の質感。色とりどりの背表紙。でもどれも見慣れたものだ。私の書いた本。もう嫌になりながら、何を書いているのかわからないままでも、書き続けてきた。それがちゃんとここに残っている。目に見える、いつでも触れられるかたちで。これは私のものだ。

 自分の書いた本は安心だ。自分の書いた本なら、何が書いてあるのかわかる。私のものだ。自分の書いた本なら、愛さなくて済む。愛さなければ、裏切られずに済む。

 本棚を見ていると、勇気が出た。結局自分を支えてくれるのは自分でしかないのだ。私にはできる、と、本を見ていると思える。須藤鏡花という人間にとって勇気というのは、やみくもに飛び込むことではなくて、自分はできるという確信なのだろう。私はできる。なんでもできる。

 でも結局のところ、どうすれば覆すことができるのか、私にはわからなかった。とりあえず、美しくなろうとした。一度、自分をぴったりと世間的な美しさの基準に沿わせてみたくなった。私は食事を制限した。食べなければ、みるみるうちに体重は落ちた。痩せた体にひらひらとした服を着て、髪を整えて化粧をすれば、周りの見る目は簡単に変わった。大学の男たちも私に遠慮がちに接近してくるようになった。若い男からのデートの誘いは、正直なところ、嬉しかった。自分がじじいの愛玩物ではなく、若い女としてきちんと基準を満たせていると思えたからだ。当たり前だけれどそれは対等に見られているということではない。若い男が欲しがる獲物になったというだけ。本当なら嬉しがるようなことではないのだろう。でも、まだましだ。じじいに「このぐらいならいける」と思われるよりは、まだ。ましなのか? ましということにしよう。私はヘテロセクシャルで、ごく一般的な男の好みを持っている。若くて顔のいい男が好きだった。

 声をかけてきた中からその男を選んだ理由は、一番それっぽいからだった。購買で、本を選んでいる私に「こんにちは」と、一人で声をかけてきた。名乗り、仲良くなりたいから連絡して、と連絡先を渡してきた。よくあることだったけれど、余裕がありそうで、礼儀正しいのが悪くなかった。自分から連絡はしなかったけれど、次に学食であったときに連絡先を交換した。一緒に過ごすことが増え、可愛いとか、もっと一緒にいたいとか相手が言うことが増え、私はそれを適当にあしらっていた。なんとなく、明確な言葉はなく、そういう感じだった。私は特に好きだったわけではない。年が同じで、顔が悪くなくて、垢抜けていた。東京生まれ東京育ちのおぼっちゃま。別にそんなたいしたことないと言いながら、都心に一軒家を持っていて、車が三台あって、大きな犬を飼っていることがわかった。地方の一般家庭出身の私には、そういうものがまぶしかったのだ。東京の匂い。生まれ持ってのお金持ちの匂い。

 経験をしておこう、と、思ったのだった。ひとりの人間としてだけではなく、作家として。普通に生きていてするような経験は、できるだけしておいたほうがいい。大学にもそのために入った。高校の学業を終えただけで社会を渡っていく自信がなかったとか、勉強をもう少ししたかったとかもあるけれど、一番の理由はそれだった。できることは全部知っておきたかった。

 セックスも。

 私の書く性描写が、「処女のセックスシーン」として有名になっているのを見た。それが本当に下世話な誰かがそのシーンを読んで「処女だ」と思ったのか、私の年齢や外見からして勝手にそう判断したのかは知らない。どちらでもくそったれだけど。殺してやりたい。

 知らないことにはなんだって関心がある。知っておきたい。私は世界を書き換えたいのだから、今の世界のかたちを把握しておきたい。本当の、世界のかたちのことも、世間一般で世界がどうとらえられているのかも。多くの人が経験していることは、とりあえず自分も知っておきたい。セックスは、その範疇だった。知っておけば、おかしなことを書いているかどうか迷わなくて済むし、おかしなことを、おかしなこととして書くことができる。

 私たちの付き合いはほとんど学内でのことに限られた。たまに学校近くのカフェに行き、奢ってもらった。別に自分が払いたいわけでもなければその程度の金で恩を着せられたと思うほど貧乏でもないので黙って奢られていたが、こいつよりも、もしかしたらこいつの親よりも私のほうが金持ちなのにな、と思わないでもなかった。でもそういうものなのだろう。同世代の男子は割り勘派も多いようだったけれど、彼はそういうふうだった。意地というか見栄というか、付き合いを「そういうもの」に落とし込むのに慣れていた。

 前の彼女のことを話して。

 何度かそう聞いてみたことがある。彼は困った顔をした。渋りながらもどうにか話した内容をまとめると、付き合っていたのは三人。最初に付き合ったのは中学のときらしい。

 そんな話何が楽しいの。

 困った顔でそう言ったので、じゃあ他に楽しい話をして、と言うと、友人や教員の話をした。つまらなかった。本当につまらなくて、こんな話を聞くよりは嫌がることを無理やり聞き出すゲームのほうがいくらか楽しいなと思った。無理やり聞き出したところでつまらないのだけれど。全部つまらない男。顔がつるつるしていて、手のかたちが綺麗だった。私はときどき彼の手に触れて、指でかたちを確かめた。すんなりとした長い指。細く見えるのに私より二回りは太い指。そういうとき、彼は困ったような嬉しいような顔をした。

 彼は私の本を読んではいなかった。おそらく本当のことだろう。読んだほうがいいのか聞かれて、読まなくていいよと答えた。彼は安心したようだった。本なんか読まない男のほうがいいと思っていた。本を読む人間は、性格が悪い。私みたいに。

 こういう男が私の好みに合うんだな、と、会うたびに思っていた。香水か柔軟剤かシャンプーやコンディショナーなのかわからないけれど、彼からはいつも涼しくてほんのり甘い匂いがした。首が長く、鎖骨がくっきりとしていた。そういうものを見ると、悪くないな、と思った。全部悪くなかった。

 でも、セックスする気が起きなかった。ちゃんとそのつもりで接触したのに、本当に、全然。ちょっと手とか肩とか触られるたびに、うわ、となっていた。ものすごい嫌悪感ってほどじゃないけど、うわ、触っちゃった、って。至近距離にいるのでたまたま触ってしまったってときでもそんな感じなのに、彼がたまたまを装う、というか、私たちの関係性をちょっと更新する意図を込めて、さりげない感じで触って様子を見る、みたいなときは、本当に、うわ、だった。うわ。うわ。うわ。やめろ。

 それは性的関係への忌避というよりももう少しめんどくさい何かだったような気がする。というか、彼への生理的嫌悪感みたいなものは、なかった。最初からそういう相手を選んだのだから。だいたい、自分から触るのは平気なのだった。そのうちに自分からも触らなくなった。私が触るたびに、何かを譲歩しているととられるのが嫌だったし、実際そのようにみられていると感じた。私は何一つ譲りたくなかった。向こうが私から奪いたいと思っているものは何一つ渡したくなかった。別に金なら払ってもいいが、金を払うことで何かを許していると思われるのは嫌だった。何も譲らず、何も許さない。そういう姿勢のまま、男とセックスをすることはできない。当たり前のようだが、それが当たり前ということが、考えてみれば大変に気持ち悪い。

 その方針はわりとすぐに固まってしまった。こいつとセックスができないし、セックスなしで一緒にいたいほどの好意も利益も特になかった。私がいままで接したことのないタイプの男で、新鮮ではあったけれど、賞味期限の短い新鮮さだった。私の場合長く接して飽きないと判断するには、相手に何か強いものが必要なのだ。いいものか悪いものかは関係なく、強いものを持っている人間は、不快であっても慣れたり飽きたりするのは難しい。結局業界のあのじじい連中ときっぱり遠ざかることができずずるずるパーティーなどに顔を出してしまうのも、そのせいだったのだろう。何か強いものを持っている人間を見ていたい。あの男にはなんの強さもなかった。つまらない男。東京のお坊ちゃんも、実家にいた頃まわりにいた人間たちと何も変わらない。

 でもつまらないだけなら、多分よかったのだ。私は実のところ、そんなに人間に厳しい態度を取らない。取れないのだ。長く接しているとだらしなく情を沸かせてしまう。つまらなさは安心に繋がる。つまらなく無害な男なら、性的な対象からは外して、緩やかに遠ざかって行っても、そのままでよかった。

 その日、私は夕方から取材が入っていた。撮影もあるので、朝から美容室に行って、髪をセットしてもらった。取材程度でそこまでする必要はないのだけれど、取材のときは外見の雰囲気を変えたいと思っていた。普段から話しかけられるのは苦痛だから、気付かれる可能性をなるべく減らしたい。講義はなかったけれど図書館で予約していた本が届いていたので受け取りに行って、どこかで読もうと思ってうろうろしていた。すると、ロビーで彼を見かけた。

 あ、なんか、嫌な感じだな、と思った。彼の周りには多分内部生の男子が五、六人いた。内部性特有の、なんていうんだろう。こなれた雰囲気。舐め腐った感じ。彼はだらっと椅子に座って、脚を大きく組んでいた。私の前では絶対にやらない。何か動物的な示威を感じさせる姿勢だった。

 いつもと髪形と服装が違うからか、彼は私に気づかなかった。私はほっとした。ほっとしながら、近くに座った。至近距離ではないけれど、会話は聞き取れる程度の。立ち去ってもよかったのにわざわざそこに座ったのは、好奇心だった。普段見ない彼の姿に興味をそそられた。本を読むふりをしようかと思ったが、スマートフォンを手に取った。そちらのほうが立ち去るときスムーズだから。

 彼らはそれほど大きくはない声で、だがいかにも傲慢な様子で話していた。誰に聞かれたところでこの場で一番権力があるのは自分たちだと信じて、それを示すような集団の意識がある。授業の単位の取り方や、教授の私生活の噂話。他愛ない内容を、やや下世話な話を、露悪的な様子で話していた。離婚歴があるとか、同性愛疑惑があるとか。それはどうでもいいが、内部の女子にセクハラしている英文科の教授がいるらしくて、思わぬところで有益な情報を拾うものだなと、気分を悪くしながらも思った。もっと色々な人間との交流にコストを割かなければ情報は得られないのかもしれない。それもめんどくさい。情報屋に金を払ったら教えてもらえればいいのに。

 そこまでは他人事だった。ふいに、誰かが、

 須藤鏡花!

 と言い、集団がどっと笑った。それは、私の名前を呼んだというより、その場の決まり文句のようだった。私の名前を笑いものにするのは、きっとこれが初めてではない。こいつらは、何度も何度も私の名前を言って、みんなで笑っている。私を貶めることで集団の結束を強めて、自分たちの優位を確認している。自分たちは相手を踏みにじれるのだと。何も珍しくない。何度も何度も経験してきた。でも、ここでもそうなのか? 大学で、一対一の関係だと思っていた相手にも、そうなのか?

 私はじんわりと絶望している間も、そいつらは話を続けた。私ともうセックスをしたのかと聞かれて、

 まだ。

 と彼は答えた。その言い方が落ち着いていて感じがよくて、私としゃべっているときと何も変わらなかった。

 周りの男たちは飲み会をやろうと言った。そこで酒を飲ませれば済む、と。

 いつもみたいに。

 と言った。

 人聞きが悪い。

 と彼は言った。感じよく。内容を否定はしなかった。

 画像撮ったら回してよ。

 と誰かが言った。彼は声をあげて笑った。これも否定はしなかった。私はその場でスマホで、彼にメッセージを送った。通知音が響き、彼がメッセージを見て、画面をまわりに見せる。『今週夜食事行かない? 行きたい店があるんだけど』と、私は送っていた。

 いけるかも。

 盛り上がっていた。下品な動作をしながら、男たちはもうすでに私の肉体を全員で共有した気分なのがわかった。胸の大きさとか、脚のかたちとか、性器のことまで。じわ、と、怒りと恐怖と屈辱で汗が沸いた。同時に、精神が冷え切っていた。

 もう我慢はしない。

 そう決めた。もう何も我慢はしない。今まで我慢をしていたのは、期待をしていたから。何度も裏切られても、それでも期待していた。どんなに毒づいたところで自分なりにちゃんと生きていたら、正しい方法で報われるって。でもそんなことはないのだ。私はそっと立ち上がり、その場を後にして、歩き続けた。そんなことはない。私にははっきりと、あの男たちがそのあと大きな会社に就職して、人並以上の収入や社会的地位を持ち、綺麗でそれなりの、だけど自分より少し劣る学歴の女性と結婚して、立派な結婚式を開いて、ゴミ捨てとか休日の皿洗い程度の家事をして家事は分担していると公言し、やがて妻に出産させてキャリアを制限し、育休を五日ぐらい取って、その間ごろごろしながら子供の写真をSNSにあげまくって、そのあとは妻にほとんど全ての育児と家事をやらせながらもいい父親面をする未来みたいなものが、はっきり見えた。そういう「立派で誠実な男性」たちって、みんなあんなもんなんだ。ああいうことを、きっと誰にも裁かれないし、悪いこととも思ってない。非難されても気が狂ったうるさい女に見つかったと思う程度だ。ああいう経験こそが人生の深みだと思ってる。そういう連中が社会を作ってる。この社会全部。私が今まで味わった屈辱って、どの場所や会った相手が悪いんじゃない。どこにいってもそうなのだ。私の歩く地面すべてが汚れている。

 その日の取材中、私は笑わなかった。機嫌が悪いんだろうと言われているのが分かった。機嫌なんかいつも悪い。それでもそれまでは仕事なら笑っていた。馬鹿みたいだ。もっと馬鹿みたいなことに、笑わないほうが、相手の態度がよかった。笑っていたのは無駄だったのだ。場の空気を悪くしないとか仕事を円滑に進めるために私が笑うと、何をしてもいい馬鹿だと思われるだけなのだ。笑わなければ、少なくとも私には機嫌というものがあるのだと認識される。

 家に帰ると、靴だけ脱いでベッドに横になった。耳元でイヤリングが鳴って、巻いた髪が首元にまとわりついた。大きなベッドで、着飾って横たわる私。瞼を閉じる。その上にアイシャドウが綺麗なグラデーションで光っている。カウンターを回って見つけた、自分の肌に似合う青。リキッドでも上手に引けるようになったアイライン。マスカラで丁寧に伸ばした睫毛。私は綺麗だ。私は自分の力で美しくなった。お金と名声を手に入れ、美しくなった。必要だと思われたものはもう持っている。

 でも足りない。

 何が?

 お金はもう足りている。莫大な財産、と呼ぶほどではないが、今だって自分がどれだけ持っているのか、どこからどれだけの入金があるのか把握しきれないぐらいだ。名声も、もういいだろう。小学生の私が夢見た以上の地位がもうある。美しさ。これも、もういい。私がこれ以上美しくなろうと思ったら、整形するしかないだろう。そこまではしたくない。男も、手に入れた。手に入れたとは言い難いが、手に入るし、もういらないことも確認した。多分もともと、それだけを確認したかったのだ。

 もうこれ以上はいい。ひとつひとつを確認して、そう思う。それでも足りない。それでも、何も持ってないように思える。私の持ち物、これだけ頑張って手に入れたものすべて、どうでもいいような相手に、簡単に泥をかけられてしまう。

 男に生まれたらよかった。

 そう思った瞬間、首でも絞められたような悲鳴が漏れた。きつく瞑った瞼の間を、涙があふれてアイメイクを溶かす。ひぃっ、ひぃっ、と、そのころ痩せてすっかり細くなっていた喉が喘いで、息もできないぐらいだった。泣きだしたら止まらなくて、ベッドの上で心も体も苦しくてわーわー騒ぎながら転がった。

 男に生まれたらよかった。

 嘘だ。そんなの嘘だ。だって男なんかどうしようもない。汚いし、偉そうだし、気持ち悪いし、くさいし、群れるともっと悪くなる。悪い生き物だ。男の男らしさみたいなものが、どれだけ醜いか。私はよく知っている。あんなものにはなりたくない。

 それでも、それでも、うらやましい。

 あんなに醜い存在でも、うらやましい。男に生まれたら、多分こんな目には合わない。外見の話ばかりされたり、女の子は得だねと面と向かって言われたりしない。仲間に入れてもらえて、憧れとか好きなものとか、そういうものを見せることで性的に見られる理由を作ったとされなくていい。つらい時に素直に誰かに頼ったり、弱みを見せてもいい。女が弱みを見せるということは、その相手に何をされてもいいということにされてしまうのだから。

 許せなかった。そう思った自分のことも許せなかったし、そう思わせるものすべてが許せなかった。自分の弱さを憎んだ。でも私のどこが弱いんだ? 完璧に強くないことは、弱いのか? それも全部、女だからだと思った。女だと思われると、完璧ではないことが貶められて当然の弱点になる。でもきっと完璧でも、それ自体が貶められる理由になる。逃れる方法なんかない。薄々気づいていたことを、私ははっきり理解した。

 絶望だ。

 絶望の中で、細く呼吸をした。この世界はくそだ。じゃあ、諦めるのか? 嫌だ。そんな選択肢はない。私は根本的に、理由なく、生得的に野心家で、そして、生きることに執着していた。どうしようもなくくそったれな世界。どこに行っても逃れられない。正しい方法では何も覆すことはできない。私はこの世界に受け入れられることはない。

 じゃあ、正しくなくていい。

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