第14話

 そう決めると、息ができた。もういい。この世界と和解しない。私は悪くなる。自分の悪意に正直になる。誰にも認められなくてもいい。だって誰も救ってはくれない。

 私は深く息をすると、立ち上がった。アクセサリーを取り、化粧を落としてシャワーを浴びた。自分の体が、今までと違ったものに見えた。これだけだ。そう思った。この細くて頼りない見慣れた体。ちいさくってかわいい頭を支えてくれている。これだけが私の味方だ。これだけを武器にして、私は私を害するやつを殺す。

 殺してやる。

 私は個室の店を予約した。いやがらせのために、高いけれど学生でも払えなくはない、という価格帯の無国籍料理にしてみた。私は普段より胸元の空いた服を着た。胸が全然ないのでそういう服はあまり着ないが、出かける前に見つめた鏡の中で、私のデコルテはとても綺麗だった。胸がないとか、そういうことは、本当はどうでもいいのだ。全部どうでもいい。自分自身だけを相手にしているときなら、自分が可愛くないとか、そんなこともどうでもいいのに。

 彼は食事中、私の胸を覗き込んでいた。本当に興味があるとかではなくて、そこにあるなら取りこぼしたくないのだろう。ないことを確認して、ないことを仲間内で吹聴したいのかもしれない。ないのに胸元の空いた服を着てまで自分を誘惑しようとする女の滑稽さ、あるいはそこまでされる自分の優位性の確認のため。一度ちゃんと悪意を確認すると、安心する。全ての行動にちゃんと悪意や害意を見ることができる。本当は善意なのかもしれないとか、そんなこと考えなくていい。殺すか殺されるかだ。

 酒がどれだけ飲めるのかわからないと私は言い、彼は強い酒を頼んだ。飲めなかったら自分が飲むと言って。私は安心したように笑って見せた。自分が、とんでもなく可愛い笑顔を作ったのがわかった。彼が私の顔に見とれたのもわかった。そのことに、私は高揚した。他人を操っている、という感覚。自分のやることが、目の前の相手を動かしている。

 注文の酒が届くと、私はほんの少し口をつけて、苦い、と言った。本当のところ、私はわりと酒に強かった。ゆっくりゆっくり半分ほど飲んでから、彼にグラスを押し付けて、飲んで、と頼んだ。彼はにやにやしながらグラスに口をつけて、一口飲んだ。ほんの少し、おかしいなという顔をした。思ったよりもアルコールがきつかったのだろう。私はそれをじっと見つめて、飲めるの? と聞いた。飲めるよ、と、彼は慌てて答えて、味わわないように一息にグラスを空けた。

 プロバビリティの犯罪、というか、そのときうまくいかなくても構わなかったが、一回でうまくいった。私は自分のグラスに、小さなケースに入れて持ち運んでいたスピリタスを垂らしていた。彼はぼんやりとして、そのままぐったりと眠り込んだ。酔うと寝るタイプなのは知っていた。

 私は彼のスマートフォンを出した。パスワードは見て覚えていたので、すぐに突破できた。そのあと必要なデータを吸い出した。

 自分用にもう一杯頼んだ。ソフトドリンクにした。そしてゆっくり食事をした。鴨肉や焼いた野菜。ゆっくり噛んで、ゆっくり味わって呑みこんだ。これが私を作るのだ。今より強くならなくてはいけない。痩せて、売っている服の全てが入るようになったところで、私を守ってくれる人なんかいない。彼はまだ昏倒していた。息をしているのか確かめた。このまま死んでくれたって別に構わない。多分解剖されたりもしないだろう。でも死にそうにはなかった。ごうごう、と小さないびきが聞こえた。うるさいのですねを軽く蹴ると、いびきは収まった。黙って眠っていると、まあ、可愛いなと思った。無力なもの。私がどうとでもできるもの。そういうものは可愛い。私は可愛い。十代のころ、業界にいた私のことを思う。私はなんて可愛かったことだろう。そのことを理屈ではなくはっきり理解して、気分が塞いだ。塞ぎながら、今の私との違いを考えて、気を取り直した。私は今、加害者なのだ。獲物ではない。

 私は根菜とベーコンのパスタを頼んだ。トングがついてきたけれど、大きい皿から一人で食べた。そのころあまり食事をしていなくて胃が小さくなっていたけれど、綺麗に盛られているだけで量も多くないので完食できた。デザートを食べようか、メニューを見てゆっくり考えていても、彼は起きなかった。どうにもデザートは入らなさそうだった。置いて帰ろうかと思ったけれど、一応起こした。声をかけて軽くゆすると、彼は起きた。目が普段と違ってぼんやりとしていて、普段より無力なはずなのに、普段より怖く見えた。社会性が失われると、体格差がそのまま力の差になる。

 大丈夫? お会計するけど。

 え、あ、うん……。

 どうせなら払わせたくて聞いたら、彼は財布を出した。こんなときでも見栄が残っているのが面白かった。ろくに金額も見ずにカードで払っていた。

 ごめん、タクシー呼んでるから、私そろそろ行くね。今日はありがとう。

 まだ座ったままの彼に告げると、何かいう前に立ち上がって逃げた。後ろめたさと同時に、高揚感があった。タクシーには乗らなかった。金が惜しいとかではなく、タクシーには苦手意識がある。はっきり言えば、嫌いなのだ。子どもだったからだろうか。一人で乗ると、電車よりももっと不愉快なことが多い。電車だって不愉快なことはゼロではないが、タクシーだと逃げ場がない。世界には私の敵が多い。

 私はパソコンでデータを確認した。確認。何を確かめたかったのだろう。彼は単に仲間内では露悪的になるだけで、大した画像なんか持っていないことか。口だけなら、まだ許せたかもしれない。いや、許せはしない。唾棄すべき存在のままだ。でも納得はできる。そういう存在がいることを。個人のことは許せなくとも、そういう世界なら、まだ許容できる。

 無意味な想像だ。実際はそうではなかった。私は知らない女の子たちの、決して他人に見せるつもりではない写真をいくつも見ることになった。彼が撮ったものも、仲間たちが撮ってシェアしたものも。性行為自体が合意ではないだろうと思わせるものもあった。私は驚くほど冷静にそれらを全て確認した。それから、高揚感が全てひっくり返って、トイレで吐いた。食べ過ぎていたので、驚くほどたくさん吐いた。口を漱ぎ、顔を洗った。もう吐くものもないはずなのに、まだ気分が悪かった。自分がまた何かを食べられるようになる気がしなかった。

 私は小説家だ。もしもこのことが小説に書かれていたら、と、つい考えた。私は小説によって世界を解釈する習慣が身についていた。これが小説なら、推理小説なら、ほんのちいさなエピソードになるだけだろう。小説家としての私は、そう思った。小説は言葉でできている。言葉には、辞書的な意味と同時に人に使われることでついた癖があって、小説は、その癖が大事だった。その言葉が、この社会でどう使われているのか。辞書的な意味を越えて、その言葉がどういう印象を与えるのか。例えば社会で既婚の女性を「奥さん」と呼ぶ人間が多ければ、わざわざ「パートナーの方」と呼ぶキャラクターは浮き上がる。現実の社会では言葉以外にも色々な伝え方があり、言い方によっては突飛な言葉使いをしたところで気に留められないこともありえる。だが小説は言葉しかないのだ。言葉は人々の認識を共有するための道具であり、共有しきれていない概念は浮き上がる。私のこの憎しみ、この生理的嫌悪は、浮き上がっている。小説として、私はこの憎しみを、誰かと共有することが、できない気がする。私の言葉は、この憎しみを語るものではない。この感情を企画にして、本を出版することは、私にはできないだろう。これだけ売れていたって、今までの自分とまったく違うものを出版することが許されるわけではないことを、私はなんとなく知っていた。私の権力は、そういう種類の力、無理を通す力ではない。これだけ重要なことを、私は語る言葉を持たない。

 私は自分がひどいことに加担していたような気がした。くそったれな男たちが作り上げた出版界に憧れて、くそったれな連中に許される程度の成功をした。多分、もう十歳年を取っていたら無理だっただろう。若い、という範疇にも入らないほど若く、私は獲物としても始末に困る存在で、なんとなく軽視している間に、成功してしまった。その間に、もっとできることがあったかもしれないのに、私はあんな連中に認められたいと思って、自分の力の使いどころを誤った。才能を空費して、業界を富ませ、くそったれが増長することに、力を貸してしまった。

 いや、嘘である。嘘に決まってる。そういう、加害者意識みたいなものを自分が持ったことに腹が立った。そういう、被害者側を加害者的な立場にしてしまうシステムみたいなものがある。加害者側と被害者側には流れがあって、余計なものは全部被害者側に流れ込んで押し付けられるし、そのうちに被害者自身も内面化してしまう。私が加害者なわけがない。十三歳だったのだ。生き延びた時点で上等だろう。少し自分自身に距離を取ると、そう思う。でもその俯瞰は、私自身への侮りに似ていた。私なら、できたのかもしれない。私は天才だった。私には他の誰にもない力があった。その力を、このシステムにあらがうために使うことを、しかし考えたこともなかった。ただの十三歳なら仕方のないことかもしれないけれど、私の場合、それを思いつくほどの鋭敏さは、あったはずだった。かつての私には、今地上にいるから気付く翼があった。書くことへの強烈な没頭と、その言葉で他人を巻き込む力。私は全てを成し遂げることができた。やらなかったのは無力だったからではなく、怠慢だったからだ。

 他の誰が知らなくとも、私は自分の怠慢をしっている。やればできたはずだった。私だけが知っている。自分の中に作り上げた優しい誰かが慰めてくれるが、その誰かは怠慢の顔をしている。慰めはいらない。私は自分の生活上の怠惰はなんでも許す。生活上の勤勉さが必要なのは凡人だけだから。でも私は、創作に置ける怠惰を自分に許せない。

 殺さないといけない。

 そう決めた。殺したいのではない。殺さないといけない。これは義務なのだ。私の怠惰の慰めとして。警察に捕まったところで、あいつらは運が悪かったと思うだけだろう。だがそのうちの一人でも死ねば、おそれることになる。法は明文化されているから読むこと、予想することができるが、悪意はどこからでもやってくるのだから。

 私は彼に家に帰れたか、体調は大丈夫かとメッセージを送った。未読のまま放置されていたが、翌朝になって返信があった。なんとか家に帰ったらしい。死んでいなかったのか。

 殺すことを決めたので、私は彼にべったりくっついて行動した。私だったら酒の席であんなふうに放り出されたら許さないが、彼は気にしなかったらしい。あの程度の失敗はよくあることなのかもしれないし、後ろめたかったのかもしれない。あるいは、私に粗末な扱いをされたという事実自体が認めがたくて、なかったことにしたかったのかもしれない。あれ以後何も触れることはなかった。

 ただ彼と一緒にいるだけではなく、私は彼の友人たちとも接触することにした。自分から声をかける必要はなく、ただ微笑んで小さく会釈をしただけだ。それまで彼は私といるときは友人を同席させなかったが、だんだんグループで付き合うことができるようになった。私は緊張しているようなちいさな可愛らしい声で彼らに話しかけた。若い男たちと雑談をする経験が、私には欠けていたのでそんなことが通用するのか不安だったが、彼らはやすやすと篭絡された。汚いじじいと、自分がモテてるつもりの大学生も、たいして変わらないのだ。侮る相手には、簡単に馬鹿げた顔も見せる。同世代と遊んだ経験が少ないので話を聞きたいとじっと見つめたら、ぺらぺらとなんでもしゃべった。彼らはいつも大きな声を立ててグループの中での立ち位置をはかることに夢中なので、個人の物語を語る機会にいつも飢えているのだ。そうやって、私は彼らの個人情報を握っていった。何人かが私ともっと親密な関係になりたがっている、謙遜抜きにして言えば、私に夢中になっているのがわかった。私のようなここまで傲慢な人間でも、こういうときにはつい控えめに見積もってしまうのは、自分でも面白い。いや、面白くはない。陳腐な言い方をすれば女としての自信を、私はずっと踏みにじられて生きてきたし、男への好意もすべて裏切られてきた。その被害からの習慣である謙遜を、あえて取り払ってみると、男たちは私に夢中だった。これから取得する予定の資格や、親の仕事や、海外でのバカンスを、さりげなく、熱をこめてアピールして、私と二人で会う機会をほしがった。そういうアピールしかできないのだ。地位とか金とかそういうもの。私はそれよりずっとお金を持っているけど、と、言いたくてたまらなかった。言わなかった。欺くため、と思うと、言いたいことを我慢することにも愉悦があった。私が、この場を支配している。

 簡単だった。愚かだとみなされたり所有したいと思われることさえ厭わなければ、私はどこまでも感じよくなれるのだと知った。感じよくなれば、男は簡単にすべてを明け渡してくる。そういう愚かさを利用されることをおそれているから、男は女性を貶めて、無力であると叩き込むのかもしれない。少しでも他者へのおそれ、私が自分たちとは利害関係をともにしない別個の人格であるという意識があれば、あれほど無防備になれるわけがない。そしてたいていの女性は、自分自身のこともおそれるに値しない存在だと思い込んでいる。本当は、なんでもできるのに。やろうと思えば、男なんかいくらでも傷つけられる。

 私は隙を見て何人かのスマホを奪って、席を立つついでにデータを抜いた。濃いめの口紅さえ塗りなおしておけば、お手洗いに立つ時間が長くても、化粧を念入りに直していたのだと思われた。

 うまく行っている高揚。そして、ものすごい憎悪が沸いてきた。邪悪には限度がない。私がここまで熱意と自覚を持って悪事をしているのに、なんの意識もない連中のほうがとんでもないことをしでかす。データを確認するたびにろくに食べていなくても吐き気がして、一時期パソコンを開こうとするだけで吐き気がしてきたので、仕事に支障をきたした。

 もうとりあえず抜けるデータは全部抜いたな、と思って、行動に移すことにした。まず彼らのグループに今は入っていないけれど付き合いはある男のスマホを盗んだ。私とも面識のないやつだったので、助かった。ロックがかかっていなかったので、そのままそのスマホでアカウントを作って、彼にメールを送った。メールには画像もつけておいた。彼のスマホから抜いたものだ。画像はそれ単体では女の子が写っているだけだが、知っている人間にはその前後のことがわかる。脅迫めいた文面は書かず、画像のことで相談があるので、と、大学のあまり使われていない校舎と日時を指定して送った。スマホはその辺に放置しておいた。

 来るかどうかわからないな、と思っていたが、彼は来た。私は暗い教室に潜んで、小さく開けた扉の陰から彼を見ていた。見つかったら、私も呼び出されたと言うつもりだった。彼は立っていた。一人で、怯えて、自分がどんな意図に晒されているのか知らずに。

 可愛い。

 そう思った。自分でもそんな感情の動き方はおかしいと思ったけれど、彼が、強烈に可愛いと思った。可愛い。眠り込んでいるときもそう思ったけれど、あの時はまだ、彼をどうするのか私は決めかねていた。今、私は彼を殺そうとしている。殺すべき人間だと判断したから、殺そうとしているのだ。それなのに、今あのときよりもずっと、彼が可愛い。そして、可愛さがまったく、これから自分がやることに影響していないことに驚いた。自分の手の内にあるものは、可愛いのだ。気を逸らすために缶を投げ、背中を押したときでさえ、彼は可愛かった。

 でも、結局失敗した。彼は死ななかった。階段から落とすというのは生死の判断を重力に任せるということで、あまりよくなかった。もしかしたら、あのとき私はそこまでの覚悟ができていなかったのかもしれない。殺すということがどういうことなのか、まだわかっていなかった。次回に活かさなくては。

 死ななかったのはよかったかもしれない。予行練習になった。それに一度危害を受ければそのあともずっと警戒し続けることになる。殺し損ねた。それはあまり問題ない。百点満点ではないけれど、及第点ではあった。ただ、もう一つの問題のほうが大きかった。

 目撃されてしまった。

 誰もいないと思って、確認を怠った。確認することで物音を立てるのが怖かったのもある。当然想定すべき事態だった。

 ただこれも、結果的には問題なかった。とんでもないミスだが、その中では最善に近い幸運に恵まれた。目撃者が桐生北斗だったのだ。

 大変なことになった、と思った。思ったが、私は何もすることなく、ただその場から立ち去った。大変なことになった。どうする?

 口封じの必要が出てきた。桐生は私が何をしたのか見た。ただそこにいただけじゃなく、私が危害を加えたのを見た。校舎の陰で震えていると、やがて救急車のサイレンが聞こえてきた。パトカーではない。

 大丈夫かもしれない。

 半ば現実逃避だったのかもしれないけれど、直感的にそう思った。桐生は救急車を呼んだのだ。警察に通報するのではなく。後遺症がそこまでひどくないのなら、桐生は犯人の話をしないような気がした。推理小説みたいに理屈のある話ではなく、ただそういう気がしただけだった。私の思う桐生北斗はそういう人間だった。はっきりしているようで、案外気が弱い。私個人に何かを言ってくることはあるかもしれないけれど、直接対峙すればなんとかなるだろう。桐生は男のように私を侮り夢中になるわけではないが、私に甘かった。

 たとえば死んでしまったり重い後遺症が残るのなら、また話は別になるかもしれない。それに、北斗が自分から話さなくとも何かの拍子に漏れる可能性はある。じゃあどうする。口をふさぐのか?

 それはないな。

 桐生を害する気が全然ないことに、自分でも驚いた。桐生に悪意が沸いてこない。桐生を傷つける想像をする気も起きない。桐生には何もできない。それでばれてしまうなら、仕方のないことだろう。納得は行かないけど。仮に捕まったとしても、私が握っている情報を重く見て相手が大ごとにしたがらない可能性も十分あるし、警察でも黙秘を貫けばばれないかもしれない。

 色々と考え、考えすぎて想像に疲れて無感覚になってきたが、特に何も起こらなかった。桐生は私に対して何か言いたいことがありそうだった。もしあの話をされたら、私は桐生に自分の身に起こったことを全て話すはめになるだろう。そう想像してみた。あまり気が進まないが、桐生は私のことを、わかってくれるとは思わないが、情状酌量の余地ぐらいは感じるだろう。なんなんだろう。この信頼? 見積もりの甘さ? 私は誰も信じたくなんかないし、他人の悪意だけは高く見積もっていたいのに、桐生はそうさせてはくれない。

 疲れてしまったのか、私はしばらく毎日を、ぼんやり過ごしていた。原稿とか留学の準備とかやることはこなしているのに、熱がない。私はやりそこなった犯罪のことを考えていた。失敗を後悔している、というよりも、ただ、あの日、缶を転がして、あの男が無防備に背中を向けたこと、それを押したことを、思っていた。大学で遠くから見かけたぎこちない不格好な歩き方。きっと痛いに違いない。あれをやったのは私なのだ。ぼうっとする。小説の中では何人も人を殺してきた。でも小説で起こしたどの事件よりも、新聞にも載らないような、あのやりそこなった犯罪のほうが、ずっと現実だった。私がやったことだ。私のやったことで、誰かが動いている。あれは、私だけの意思が起こした、私だけのものだ。誰かの人生に手を突っ込んで、かき回した。

 彼は階段から落ちてけがをしたと、あの日から何日か経ってから連絡してきた。私には隠したかったのかもしれない。久しぶりに大学で会った彼は、遠目ではわからない痣や小さな傷が残っていて、ときめいた。私は大丈夫かと尋ねながらも、戸惑うような視線を投げてみた。彼は私の様子を不審に思っていた。不審に思い、そして、怯えていた。

 あ、えっと、ちょっと聞いた話があって……。

 言いにくそうに尋ねてみると、彼は平静な装いをかき捨てて食いついてきた。

 聞いた話?

 その……あれが事故じゃなかったって……。

 顔色が変わった。

 事故だよ。

 と、彼ははっきり言った。私はあいまいに頷いた。

 うん……噂だよね。うん。ごめん。

 彼はどこでその噂を聞いたのか問いただそうとしたが、私がその強引さを不審に思うようなそぶりを見せると諦めた。それでも何かを聞き出そうと、私と明日も会おうと言った。私は留学前に片付けたい仕事が多いのでしばらくは会えないと告げた。私は微かに冷たい顔をしてみせた。今まで見せたことがない顔。今まで見せたとしても、彼は意識に留めなかっただろう顔。

 だがそのときの彼ははっきりそれを目にとめて、怯えていた。私が何を知っているのか。周りで何が起こっているのか、わからない、という顔をしていた。私はお大事に、と言って、彼が追い付くのは難しい速度で立ち去った。

 楽しい。

 楽しすぎて、なんだか少し涙が出た。人を害する側って、こんなに楽しいのか。実際には何もしなくても、すべては自分次第だ、と感じられる。こちらがどう出るのかを相手が待っている。祈りながら待っている。こうしてほしくない、と、祈っている。いつでも踏みにじれる可憐な祈りだ。私はその祈りを愛した。これまでもらったどのファンレターよりも愛した。私は誰かの人生に、私の好きなときに手を突っ込めるのだ。もっとこれをやりたい。

 だから早坂雄一郎が、殺すべき人間だと知ったとき、わくわくした。

 もう、あんまり覚えていないけど、私は早坂雄一郎が、好きだった。四年生か五年生で初めて読んで、それから図書館にあるものを全部読んで、どれも面白くて、信じられないぐらい楽しかった。こんなに面白いものがこの世にあることを、どうしてみんな話していないんだろうと思った。こんなものを書く人に会いたいと思っていた。新人賞をとったとき、早坂が私を推してくれなかった選評を見た時は残念だった。でも直接会って好意を伝えて、次はきっと先生を満足させるものを書きますと言おうと、わくわくしていた。優しくしてもらえると、誰にも言わずに期待していた。でも、冷たくされても構わないと思っていた。ちゃんと、覚悟をしていた。

 でも、頭を撫でられて、それだけで終わるとは、思っていなかった。

 面白いとかつまらないとか。そもそも評価の対象に私は入っていなかったのだ。幼い私は、そんな想像ができなかった。想像していなかった私の幼さを、私は憎んだ。いい気になってセックスシーンを書いた自分のことも。写真を掲載していいかと聞かれ、母にも大丈夫なのかと心配されたのに大丈夫だと答えたことも。母を過保護で鬱陶しいとさえ思ったことも。全部全部間違っていて、間違える私の迂闊さを自分で憎んだ。でもそれを人に話すことはさらなる迂闊さで、だから誰にも言えなくて、ただただ一人で憎んでいた。

 私が間違ったのだと思っていた。だから間違いを埋め合わせなくてはと。でも全部、私は悪くなかったのだ。大人に節度を持って優しくしてもらえると期待することも、セックスシーンを書いたことを性的に見られて嘲笑われたりふしだらだと思われることを想像できなかったことも、年長の男と同じ程度にメディアに露出してもいいと思うことも、なにもかも私は悪くなくて、ただ、ただ弱かっただけだ。そして、弱いことだって悪いことじゃない。十三歳だったのだ。何が悪い。本当に、何が悪い?

 何にも悪くない。本当に、何にも悪くない。何にも悪くないのに、私以外の人間が全部、悪すぎて、悪いのが当たり前で、当たり前だから変えることができなくて、だから変えられるのは私だけで、誰かのせいにできるとしたら私しかいなかった。だから私が悪いことにした。でもそんなふうに無理やり自分のせいにするぐらいなら、本当に悪くなったほうがましじゃないか。悪いこともせずに卑屈に笑っているぐらいなら、笑う陰で舌を出したながら本当に悪いことをしたほうが、きっと楽しい。

 思い知れよ。

 早坂雄一郎は、思い知っただろうか。実際は、よくわからなかった。灰皿を振り上げて、殴って、息の根が止まるまで殴り続けるとき、そんなことに気を回す余裕はなかった。どんな顔をしているのかもわからないし、痛みで思い知らせるような余裕もなかった。勝負だった。ここで勝てないと死ぬ。本当に、死んでしまう。そういう勝負をしていた。勝ったけれど、相手は死んだ。死んでしまった人間は、ものだ。恐怖も反省もない。ただ重くて始末に困る物体。でも私のなすがままだ。物体だから。生きてる間、この男が何を考えているのか、何をするのかわからなくて、怖かった。もう怖がらなくていいのだ。この死体は私の管理下にある。

 引きずる。頑張れ。自分を鼓舞する。風が吹き、葉が鳴る。そのたびに、体がこわばる。見つかるわけがない。自分に言い聞かせる。頑張れ。これは頑張る価値のあることだ。理屈ではなく、情動がある。私はこれを、したいのだ。頑張れ。やり遂げたい。絶対にやり遂げてみせる。誰にも共有できず、誰にも誇れない悪事。それでも、これをやりたい。人の評価はもう関係がない。ただ私の問題だった。

 少しずつ少しずつ、本当にカタツムリが這うような速度で移動して、こんな調子では誇張抜きで夜が明けてしまうかもしれないと案じながらも、それでもどうにか運ぶ。息が切れ、肌が汗で冷えた。でも安堵している場合じゃない。まだ穴を掘らなくてはいけない。腕が痺れて、あまり感覚がない。それでも、頑張れ。自分の言葉に、力をもらえる。頑張れ、と、自分に要求することと、行動する自分に、齟齬がない。頑張る。私は掘る。必要な穴は大きく、深さも相当なものだ。思っていた以上に自分が非力で、土は硬く重い。一回一回、掘って行く。穴は深くならない。諦めそうになる。

 それでも、やり遂げた。

 忘我というか、自分でも何をしているのかわかっていないような時間があった。思い返すと断片的な画像が浮かんでくる。穴を掘り、死体を穴に押し込み、土を掛ける。終わった後、当たり前だけれど死体はそこにはなくて、また不安になった。本当に埋めただろうか。べちべちとシャベルで掘り返されて周囲と色の違う土を叩く。この下に早坂雄一郎がいる。

 脱力して、その場にしゃがみこんだ。立ち上がれないほど疲れていた。でも、ここで休んでいるわけにはいかないのだ。私はシャベルを杖のようにして立ち上がり、それから土にめり込んだ先っぽを、力を入れて引き抜いた。周囲を見回し、もう一度見回し、よし、と呟くと、別荘に向かった。死体を引きずっていた時は永遠にも感じた距離は、疲れていても身軽な体だとあっという間で、また不安なような、心細いような気になった。私は服を着替え、体をウェットシートで拭き、招待されたときに座った椅子に腰掛けると、そのままテーブルにもたれて眠った。そして夜が明けると別荘を丁寧に掃除して立ち去り、ガラスの灰皿だけ途中の川に投げ込み、その日のうちにアメリカに旅立った。

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