第4話 忍城・お堀端に咲く山茶花&甲斐姫の余話


  

 またしても話が行ったり来たりいたしまして、申し訳ございません。

 あちこち飛ぶのが、わたくしのわるい癖でございまして……。(笑)


 暑いほどの小春日のなか、国史跡『さきたま古墳公園』の広い駐車場に、ぽつんと県外車を止めると、「日本最大級の円墳」と案内された丸墓山古墳へ向かいました。

 

 その頂きへと導く急勾配の木道の登り口の手前、何の変哲もなさげな老桜並木に、


 ――石田堤いしだづつみ


 そんな表示がいきなり現われましたので、わたくし、思わず目を瞠りました。👀


 穏やかな日差しのもと、凡庸な凹凸を連ねているだけの老桜並木は、戦国の当時、三成さんが土地の百姓を雇って昼夜を分かたず築かせたつごう14キロに及ぶ築堤の一部らしいのですが、荒川(当時の川幅50メートル)らしき影はどこにも見当たりませんで、小さな沼で丈高い枯れ葦がかすかな風にサワサワ騒いでいるばかり……。


      *


 で、ここで先刻の丸墓山古墳の頂きからの風景につながるのでございますが……。


 いずれも秀吉の配下で年頃も似通った朋輩、紀之介こと大谷刑部少輔吉継おおたにぎょうぶしょうゆうよしつぐさん、ならびに、正家こと長束大蔵大輔正家なつかおおくらたゆうまさいえさんの両武将にサポートされた佐吉こと石田治部少輔三成いしだじぶしょうゆうみつなりさんは、まさにこの大きな古墳山の頂きに、天下取りを目前にした関白秀吉の至上命令「忍城水攻めの陣」を張ったのでございます。ヾ(@⌒ー⌒@)ノ


 向かって右手をうねる利根川と、左手の荒川を結ぶ堤を忍城の下流に築いたうえで上流を決壊させ、城を取り巻く城下一帯を一気に怒涛どとうに呑みこませる……現在の行政区域で申せば、行田市・鴻巣市・熊谷市の3市に及ぶ壮大なはかりごとでございました。


 ちなみに、この古墳山を拠点にした戦国武将は三成さんが最初ではございません。

 さようでございます、「越後の龍」と畏れられた上杉謙信もまた、この古墳の頂きから北に望む、湖or沼に浮く森のような忍城攻めの指揮を執られたのでございます。


      *


 そんなことに千々思いを巡らせておりますと、秀吉が幼い息子・秀頼にうしろ髪を残して逝ってから16年後の大坂冬の陣の折り、生母・淀君らと大坂城に籠った秀頼が淀川の堰をきらせ、一時的に徳川軍を足止めしたという逸話がよみがえりました。


 あの巨大な大坂城に比すれば、目の前の忍城はあまりにも小さいのでございます。

 一部に史実として伝えられますとおり、あれほど狭い城内に武士をはじめ、町人、百姓など4千人が立て籠ったとしたら、廊下や階段の共有スペースも含め、最上階の三階魯に至るまでぎゅうぎゅう詰めだったことが容易に推察されるのでございます。


 なれどまた、別の資料によれば、忍城側が抗戦した跡はどこにも見当たらず、籠城当初から降伏を申し出たものの、秀吉側が受け付けなかったというのでございます。


 まさに事実は藪の中でございますが、一介の旅人の身で差し出がましい推測をお許しいただくとすれば、つまりはこういうことだったのではございませんでしょうか。


 小田原城の至近距離に短時日で完成させて世人の度肝を抜いた「石垣山一夜城」とともに天下人を誇示する駒として、関西出身の秀吉としては苦手意識が強く、しかもライバルの家康に「貴殿に差し上げよう」と約した関東の代名詞的な利根川・荒川の二大河川を制御し得た……その証しをどうしても天下に示しておきたかったのだと。


 ちなみに、天正10(1582)年、明智光秀が本能寺の変を起こしたまさにそのとき水攻めの最中だった備中高松城の足守川も、同13年に水攻めを行った紀州太田城の紀ノ川も、いずれも河川の規模において「日本国をもって関八州に対すべし」と称する坂東武者の魂魄とも言える利根川・荒川の数分の一にも及びません。(*´з`)


      *


 かくて、小田原城が陥落したのちも水攻めを継続したことで、朋輩のふたりからも呆れられた三成さんは、築堤は完成させたものの荒川の堰き止めには失敗し、後世にもっともらしく編まれた文書に「忍城水責おしじょうみずぜめ石田失策の事」と嘲笑されるなど、「頭でっかちな戦さ下手」呼ばわりを余儀なくされることになったのでございます。💦


 あ、そのことでございますか?

 秀吉がことごとに競わせていた子飼いの3者のうち、忍城の水攻めあくまで決行の儀は「佐吉」と幼名で呼ぶ三成さんひとりに発していたのではなかったでしょうか。


 人品が大人で、反りが合う大谷吉継さんはともかく、あまりにも怜悧な頭脳ゆえに他者の心が難なく読めてしまい、それでいながら迎合する気はさらさらなく、だれに対しても是々非々を貫く……いわば自分と正反対の三成さんを快く思っていなかった長束正家さんは「たれやらの功名心のとばっちりで、こちらは大いに迷惑にござる」などと里謡っぽく囁いてみせたりして、それ見たことかと嘲ったやも知れませぬが、弁解無用が美学の三成さんですから、あくまで無言を通されたのでございましょう。


      *


 それから10年後、慶長5(1600)年の関ヶ原戦に敗れた三成さんは、家族のように可愛がったという領内の百姓に匿われていたところを捕縛ほばくされ、はがね首枷くびかせをはめられて大坂や堺の街中を引きまわされ、存分な辱めを受けて京へ送られました。


 その間はむろんのこと、六条河原ろくじょうがわらの刑場に引き出された際も、三成さんは傲然と胸を張って微塵も恥じるところのない矜持を天下に示され、高僧からの読経の申し入れも丁重に断られたうえで、常と変わらぬ冷静沈着な面持ちで、従容しょうようと死出の旅路に出立されたのでございます。


  大方の武将が多かれ少なかれそうであったはずの「おのれに酔う」という残念な側面とは無縁の好漢でいらっしゃいましたから、文字どおり敗軍の将に堕したご自身を、そらからクールに俯瞰ふかんされていたのではなかったでしょうか。(´;ω;`)ウゥゥ


 ちなみに、小田原城に詰めていながら秀吉に内通して主君の北条氏を裏ぎり、忍城の陥落後は会津の蒲生氏郷がもううじさとに預けられた忍城主・成田氏長でございますが、よほど秀吉の覚えがめでたかったのか(笑)配流の身としては破格の1万石を与えられ、1年もせぬうちに招かれて入洛すると御家人並みの処遇を受けたうえ、氏長は下野烏山城3万石、弟の左衛門も5千石を与えられて、家康の旗本に迎えられております。


      *


 丸墓山古墳の頂きで微風に吹かれて思いを巡らせておりますと、さざ波ひとつない忍城の堀端に咲いていた、純白にひと筋の薄紅を刷いた山茶花さざんかが思い返されました。


 花言葉はたしか、


 ――ひたむき🌸


 であったはず。


 あの小さな城に籠って健気に戦ったとも、天下統一の締めとして奥州平定に行った秀吉の宴席で美貌を認められて側室になり、成田家の再興をおねだり(笑)したとも言われる甲斐姫かいひめの痕跡を訪ねることも、今回の取材の目的だったのでございますが、復元城郭を兼ねている郷土博物館でも、これという資料は見当たりませんでした。


 ただ、ほかならぬ自分の目で現地を見て、この足で大地を踏み、空気を肌で感じた意義は小さくなかったはずでございますので、いずれ、なにかのかたちにとは……。



      ☆☆☆☆



 さてと、拙い話に長々とおつきあいくださいまして、たいへん恐縮に存じました。


 まさか、冬タイヤの履き替えに出向いたディーラーさんに歴史ファンの営業さんがいらして、わたくしの読んでいた本にお目を留めてくださり、かように踏みこんだ話にまで発展しようとは思いもよりませんでした。縁は異なものでございますわねえ。


 では、来春、普通タイヤへの履き替えの折りに、またお目にかかりたく存じます。

 それまでお元気でご活躍のうえ、どうぞ佳いお歳をお迎えくださいませ。🙇🎍

 


  


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石田治部少輔三成さま命(笑)💖 上月くるを @kurutan

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