参.私が世界一怖いもの

「はぁ……はぁ……」

「……落ち着きましたか⁇」

 私が声をかけると、女の人は勢いよくこちらを睨んできた。

「海藤!!!!まさか、生還した私を迎えに来たのかっっっ!!⁇」

 私の名前を知らない女の人が知っている。

 どこにも名札なんかついていないのに……私は興奮する女の人を見ながら、頭をグルグルと回転させていた。

 入院中、年上の女の人、生還……この言葉に当てはまる人間は……一人だけ居る。

「もしかして……高校の美術部の先生⁇」

「きゃぁぁぁぁぁぁっ!!⁇私を呪い殺すのね⁉そうはいかないんだから!!!!」

 そう言うと、私を押し飛ばすようにトイレから飛び出してきた。

 逃げ出そうとする先生の腕を私は掴んだ。

「ひぃぃぃっっっ!!⁇」

 先生はこちらに振り返り、青い顔をしている。

 私は冷静かつ冷ややかな声で言った。

「先生……今、逃げたら死ぬまで追いかけますよ」


「……ふぅ」

 私はゆっくりとトイレから出てきた。

 洗面台の方を見ると、先生が正座をしながら待っていた。

「おぉっご苦労」

 そう言いながら、私は手を洗っていた。

 子犬のような目で私を見つめる先生だが、高校時代や今まで私を人間扱いしなかったのだ。

 これくらいは許されるだろう。

 一人だと怖いトイレも、人がいるだけで安心できるのは素晴らしいものだ。


「さて、戻りましょうか」

 私はにこりと笑い、先生の肩をポンポンと叩いた。

 決して、濡れた手を拭いたわけではない。

 先生は後ずさりながら立ち上がり、トイレの扉に手をかけた。


 がぁぁぁはぁぁぁはぁぁぁはぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ


 突然、奇声が聞こえてきたのだ。

「……なに⁇」

 そう言いながら、先生はトイレの扉を開けようとしたが、その手を私は掴んで止めたのだ。

「……これはよろしくない」

 私は口に人差し指を当てて、先生に黙れとジェスチャーを送った。

 すっとトイレの電気を消した。

 先生は硬直していたが、私は気にも留めずに先生を扉から遠ざけてゆっくりと開けた。

 目で廊下が見える程度の隙間を開けて、じっと見ていた。


 ズッ……ズッ……


 静寂な廊下から、何かを引きずるような音がした。

 私は音の正体を知っている。

 多分、これは私が昔書き殴った作品だ。

 ホラー小説としてネットには投稿していないが、この作品だけは覚えている。

 いや、忘れられないのだ。

 どんなに記憶の奥に追いやろうとしても、どんなに忘れようとしても、病院を見る度に思いだすのだ。

 私の人生最大の恐怖体験だ。


 あれは私が小学校の頃だ。

 今の私のように足を捻挫していて、母親に連れられて病院に行った時の事だ。

 今思うと、捻挫くらいで病院へ行ったのかは謎だが、あの時の母親は険しい顔をしていたのだけは覚えている。

 母親が病院の先生と話をしていて、退屈だった私は、バレないように診察室から抜け出して病院内をウロウロしていた。

 たくさんの人が同じ方向に座って静かに座っているのが、当時の私にはとても不気味だった。

 別の場所へ移動しようとひょこひょこ歩いていると、車椅子やベッドがガラガラと運ばれている光景が見えた。

 私は興味本位で後をつけたのだが、片足で追いかけるのは厳しかったようで見失ってしまった。

 戻ろうにも周りは先ほどとは異なり、静まり返った廊下だった。

 恐怖に泣き出しそうになった時だった。


「こぉぉぉらぁぁぁっ!!入院病棟に勝手に入ってくるんじゃないよ!!」

 後ろからドスの効いた怒鳴り声が聞こえたのだ。

 私はガタガタと震えながら、振り返る。

 そこには、ゴリラが居たのだ。

 私は驚きのあまり、言葉が出てこなかったのだ。

「ちょっと、子どもが怖がっちゃうでしょ⁇ごめんね。迷子かな⁇」

 ゴリラの後ろから、髪を一本に縛った白衣の天使が現れた。

 私に優しく微笑んだのだ。

 その瞬間、緊張が解けて私は大粒の涙を零したのだ。

 白衣の天使とゴリラに連れられて、泣きながら私は元の病棟へ連れて帰ってもらっていた。


「あんたねぇ、病院が怖いようじゃこの先大怪我できないわよ!!⁇入院なんてしたら、ブットい注射をバンバン刺されるのよ⁉」

 どう考えてもゴリラのせいで恐怖を感じているのに、ドスの効いた言葉のせいで、聞く単語すべてが恐怖でしかなかった。

「もー、優しく話さないからこの子怯えてるじゃないの」

 私は優しい白衣の天使に抱き着きながら、ゴリラを見て泣いていた。

「はっ!!あんたにとって私が一番怖いなら、もう怖いもの無しじゃないの!!よかったわね!!!!」

 そう言うと、ガハハハッと大笑いをするゴリラを見て、私はさらに恐怖に怯えてしまった。

 二人に連れられて母親の元に戻った時、私は母親にかなり叱られたことを覚えている。

 だが、母親に怒られるのがその時はとても嬉しかったものだ。

 白衣の天使とゴリラは業務に戻るため、また元の道を歩いて行った。

 その時、白衣の天使は足音がしないのに、ゴリラはズッズッと足音が聞こえたのだ。

 やはりゴリラなのではと、私はゴリラの姿が見えなくなるまで凝視ぎょうししたのだった。

 その日の夜、私は国語の宿題をやっていた。

 宿題中なのに、ゴリラに言われた言葉についてぼんやりと考えていた。

「ゴリラより怖いもの……あるもん!!!!」

 私はこの世で一番、怖いものがある。

 それは黒い彗星すいせいだ。奴の鎧を着たような姿に変則的な動きには恐怖しかないのだ。


「……もし、ゴリラと黒い彗星が合体したら……怖くなくなるんじゃない⁇」

 確かB級映画で、怖いものと怖いものを合わせると、面白おかしくなる現象が発生した記憶があった。

 私は鉛筆を持ち、国語のノートに恐怖の対象の合作を書き始めた。

 最初は面白おかしく笑っていた。

 だが、完成した作品を読んだ途端、背筋が凍るような想像が頭を過ったのだ。

「……やめよう」

 そう言って私はノートを押し入れにしまったのだ。

 次の日、国語の宿題を忘れたことは言うまでもない。

 臨時の先生に、私はお説教をされたのだった。


 そう、先ほどから聞こえるこのズッズッと言う音……これはあの頃に出会ったゴリラの足音だ。

 あの頃、勝手に設定した内容はこうだ。


 変な奇声を上げる

 病院を徘徊する

 物音に反応してそこに近づいてくる

 標的を発見すると四つん這いになり、追いかけてくる

 捕食直前は変則的な動きを見せる

 捕まった標的は捕食され、新たなゴリラが誕生する

 電灯は好きだが、陽の光には弱い


 どうして陽の光に弱いと言う設定をつけたかわからないが、多分幽霊か何かの類として考えて設定したのだと思う。

 つまり、朝日が昇ればヤツは……黒いゴリラは消滅すると言う事だ。

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