第47話 事件

「ラグとボトムブラケットまだできないの? チューブの方はそろそろ終わりそうなんだけど」

このところ加工場で作業をしているサイクリングサークル部員たちが、3Dプリンター室を頻繁に訪れるようになった。チューブ同士はラグで繋ぐため、チューブの加工が終わってもラグが完成していなければ、その後の作業はすべてストップすることになる。そのため、ラグが3Dプリンターで造形されて焼結される度に、加工場に引き渡して研磨し、チューブを嵌め込んで溶接するという作業を繰り返していた。


当初、作業効率を上げるために、ラグを3Dプリンターで作製するのとは別に、ラグを機械加工して作製する予定、つまり複数のパイプを切り出し、繋げて溶接しようという話になったが、いざ始めてみると思ったよりも難度が高く、作製のための治具から作らないと作業がやりづらいということが分かり、3Dプリンターで造形するのを待った方が早いという結論になっていた。


「まだ、二、三日はかかりそうです……。すみません」

必要な員数のうち、ようやく半数が終わり、残りは四つになった。3Dプリンターのワークサイズが小さく、一度に造形できるラグやボトムブラケットは二つが上限なので、早くてあと二日、何かトラブルがあれば三日はかかる計算だ。 


「分かった。別に責めてるわけじゃないよ。進捗を聞きに来ただけだから」

とはいうものの、部員の顔にはそれなりに焦りの色が浮かんでいた。部活が禁止されるテスト週間まであと十日を切っていた。それまでに自転車を完成させなければ、八月の中旬頃まで何もできなくなり、最悪、盆明けの大会の出場すら危ぶまれる。逆に言えば、テスト週間までに完成させることができれば、あとは自転車を適当な場所に運んで、先生たちの目の届かないところで練習やトレーニングをすることができるので、大会までの一ヶ月を有意義に過ごすことができる。


約束の三日後、3Dプリンターでの造形もいよいよ大詰めとなっていた。ラグはすべて完成し、フレームを組立てるために研磨されてアライメントの調整まで済んだ。残るはボトムブラケットのみとなっていた。ボトムブラケットは、ペダルのクランクがスムーズに回転するように支承する部分のことで、シートチューブとダウンチューブとを接続する役割も果たす重要で複雑なパーツだ。


それを一日掛けて造形したけれど、ボトムブラケットシェルが挿入される部分が本来は真円でなければならないところ、少し楕円に造形されてしまい作り直すことになった。これは、造形時の造形物のオリエンテーション、つまりどういう向きで造形するかという問題だったので、向きを調整することで解決することができた。


しかし、それによって全体の作業が一日ほど遅れ、そのため、あとでやろうと思っていた作業を前倒しでやることになった。それでもボトムブラケットがないと先に進めない作業も多く、いつもより早めに作業を切り上げた。早めといっても、午後六時を過ぎている。


放課後の作業が早めに終わり、少し時間ができたことで、六車環は再び競技自転車部の十河鈴に出走を依頼しにいくことにした。すでに何度も依頼しているが、そのたび断られ、またテスト期間も近いということもあって、今日を最後にするつもりだ。


競技自転車部の部室に行くと、すでにみんな帰り支度を始めていた。環の姿を見つけると、鈴は部員を先に帰らせ、部室で差し向かいに話すことにした。お互い今日で決着を付けるつもりだった。


「何度相談に来ようとダメなものはダメだ。勝手に辞めて、また勝手に来て代わりにレースに出ろだなんて、そんなことが許されると思ってるのか?」と、鈴。これまでに何度も繰り返されたやり取りだった。

「鈴に全部負わせて悪いとは思ってる。でも鈴じゃなくてもいい。誰でも良いから強い選手を貸してもらいたい」

「……」

「みんな頑張ってタンデムを作ってる。特に一年が頑張ってるんだ。十分に優勝できる自転車だと思う。そいつらのためにも勝ちたい。だから協力して欲しい」

「何を言い出すかと思えば、結局あんたはいつも自分のことばっかりで、こっちのことはお構いなし。誰でもいい? そんなヤツに誰が協力したいと思う?」

「……」

「私たちも来週レースがある。それにもうすぐ期末テストが始まる」

「そうだな」

「もう来ないで欲しい」

「……分かった」

環はここに来て、説得は不可能と知った。


去って行く環を見送り、十河鈴は部室のソファに横になった。

その胸にあるのは、何の相談もなく競技自転車部を辞めていった環に対する怒りだった。腹立たしさもある。


一年の時から、互いにライバルだと思っていたし、仲間だと思っていた。

二年の夏を過ぎたあたりから、環が心身に不調を抱えているらしいことはなんとなく気づいていた。ただ、環自身がそれについて何も語らなかったから、それについて環に訊くことはなかった。だからそれほど深刻とは考えていなかったし、もし相談されることがあれば、何を差し置いても助けになろうと思っていた。そして、その役は自分をおいて他にはいないとも思っていた。


けれども、ある日突然、環は退部した。

環が退部したことよりも、自分に一言もなく辞めていったことに激しく動揺した。環が辞めた理由は、なんとなく分かっていた。プライドの高い環のことだから、きっと弱みを見せるのが嫌だったのだろう。互いに似たもの同士だから、仲間にさえ強がる環の気持ちはよく分かる。


けれども、環が自分になにも相談しなかったのは、弱みを見せるのが嫌だからという理由ではなく、単に私を信用していなかっただけかもしれないと考えることもある。相談するに値しないと思われていたのかもしれない。


それが、怖かった。仲間だと思っていたのは自分だけで、環にとって私は、自転車が強いヤツくらいの認識だったのかもしれない。その証拠に、今日環が来たときも、自転車が強いヤツなら誰でもいいと言っていた。昔も今も環は自転車の速さにしか興味がないのではないか。


結局、環が辞めた理由は訊けなかった。訊けば必ず核心に触れる質問をしなければならなかったから。そして、それが怖くて、いまだに訊くことができない。


思えば、ここ一年半以上もの間、環と向き合うのをずっと避けていた。このままではいけないと思う反面、何か行動を起こしたところで余計に自分が傷つくだけかもしれないとの怖さとみじめさがまぜこぜになって、それに対抗するためには怒るしかなかった。


そんなとりとめのないことを考えるうちに、どうやら眠っていたらしい。ふと壁にかけた時計を見ると夜の九時だった。おもわずスマホを見る。友人からいくつかメッセージが来ていたが、親からの連絡はなかった。練習で夜が遅くなることはよくあるから、母親からも父親からも特に連絡は来ていなかった。母親に今から帰るとメッセージを送ると、すぐに分かったと返信が来た。


部室の戸締まりをして自転車に乗り、帰路につく。明かりの消えた構内を疾走する。さすがに夜の九時ともなると、活動をしている部活はまずない。ロボコンを間近に控えたメカトロ研くらいのものだろう。噂によると日が変わる時間まで部活をしているらしい。


構内の一角にまだ明かりのついた部屋があった。普段であれば気にも留めずに帰るところだけれども、この日はちょっと覗いてみようという気になった。環が加工場でタンデム自転車を作っているのは知っていて、その明かりがちょうど加工場のあたりだと分かったからだ。


加工場の電気は消灯していたが、どうやらその一画の3Dプリンター室の電気が点いているらしい。離れたところから自転車に乗ったまま、窓からそっと中をのぞいてみた。誰もいなかった。誰かいても声を掛けるつもりは毛頭なかったが、誰もいないのは予想外だった。ただ、何か不審を感じ、自転車を降りて、窓の近くによってのぞき込んだ。

「あっ」と思わず鈴の喉から声が漏れた。

3Dプリンター室の床の上で、うつ伏せに倒れている学生を見つけたから。

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