第41話 岡山遠征後

季節は梅雨になっていた。外出する機会は必然的に減り、その代わりに室内でできる作業がメインになっていった。カート部は人員を二班に分け、レース当日に出走するカートを作製するシャシー班と、車両に搭載するシステムを開発するシステム班に割り振った。


ミユは、舞と専攻科生の田村たちと共にシステム班に入り、遠征で得られたデータを基にして、横すべり角推定オブザーバーを完成させることにした。


横すべり角推定オブザーバーは、車体がどれくらいスリップしているかを推定するシステムだ。試験用カートのアポロ号に取り付けたGPS、ジャイロセンサー、速度センサーからの信号をインターフェースを介してノートパソコンに送信し、ノートパソコン内に構築した横すべり角推定オブザーバーで演算することで、実際に今、車体がどの程度スリップしているかが定量的に分かるようになっている。これをアポロ号のタイヤの前に取り付けた空気噴射ノズルの電磁弁と連携して、空気噴射を自動で制御できるようにした。


レース用のスリックタイヤは、タイヤに溝がないので、乾燥路面ではタイヤが溶けて強いグリップ力を発揮するけれど、濡れた路面では路面とタイヤの間に水の膜が発生する。そのため、路面とのグリップ力がなくなり、タイヤが路面を滑るハイドロプレーニング現象が起きて車体の制御ができなくなってしまう。レース当日は夏の盛りで通り雨が予想されるため、雨に強いレインタイヤの使用が推奨されるけれど、レインタイヤは雨を排水するための溝があるため、グリップ力が相対的に低い。レース中のタイヤ交換は禁止されているので、レインタイヤを装着して出場した場合、相手校がスリックタイヤで、しかも最初から最後まで雨が降らなかったとき、レインタイヤは相当不利になる。


しかし、ミユたちの開発したシステムにより、走行中にスリックタイヤで水たまりに突入した場合でも、空気噴射でタイヤ周辺の水を吹き飛ばし、ハイドロプレーニング現象を防ぐことができる。


梅雨の晴れ間を縫って、アポロ号のテスト走行を行うことにした。高専のサーキットのコーナーにバケツで水をまき、水たまりを作る。ミユは、アポロ号でゆっくりとコーナーに入る。しかし、ゆっくりすぎてスリップしていないのか、空気噴射は作動しない。


今度は少しスピードを上げて突っ込む。一瞬、ノズルから空気が噴射され、水たまりの水が動いたが、吹き飛ばすまでは至らなかった。ピットまで戻って降車する。舞と田村も参加して、ノズルの位置と向きを調整する。


再び水たまりのコーナーにそれなりのスピードで入ると、今度はずいぶんマシになったが、空気噴射のタイミングが遅い気がする。そこでオブザーバーのパラメーターを変化させることで、実験的に調整することにした。制御系のシステムは、多くの場合、演算を簡略化するために理想的な環境でモデルを作製するけれど、実際の環境下では様々なノイズが乗るので、実験と微調整を繰り返す必要がある。


途中、田村にドライバーを代わってもらい、データを取りながら調整を進めた。

ある程度、納得のいく結果が得られたところで、繭の意見を聞くために、繭を呼び出して実際に乗ってもらった。もちろん、まだ不完全なシステムなので、様子を見ながら運転して欲しいと注意することを忘れなかった。


繭は慎重に運転しながら、徐々にスピードを上げていき、何周かしてピットに戻ってくる。

「全体的に重心が前すぎるかな。だからブレーキのタイミングの感覚がちょっと狂うね」

繭がヘルメットを脱いで言う。確かに、アポロ号はもともとは二人の利用のゴーカートなので全体的に重く、前側にコンプレッサーなどの重量物を置いているので、重心は前寄りだった。ブレーキを踏むと慣性の法則で重心がさらに前寄りになる。そのため前輪に大きな力がかかる分、曲がりやすくはなるが、ハンドルが重くなるなどのデメリットもある。

「あと、空気噴射が作動するまでが、少し遅いよね。もうちょっとなんとかならないの?」

「まだ、遅いですか……。結構調整したつもりなんですけど」

「やっぱり、パソコンのOS上のソフトウェアで制御しているから限界があるな」と田村。

「と、言うと?」

「うん。この制御ソフトはパソコンのメモリ消費も大きくて、センサーからの信号を演算処理して、空気噴射ノズルを制御するまでにどうしてもコンマ数秒のタイムラグが出るみたい。カートのスピードが出てなければ問題にはならないけど、例えば時速六〇キロの場合、コンマ一秒でも一・六メートルは進むから、実用レベルにするには限界があると思う」


「何か、方法はないんですか?」困った顔でミユが尋ねる。

「ないわけじゃない。今みたいにOSで動作させるんじゃなくて、組み込みソフトウェアとかファームウェアみたいにハードウェア上で動作させれば、余計なものを挟まない分だけ遅延を最小化できるはずだけど、でも、果たして本番に間に合うかどうか」

少し沈黙が続いて、繭が口を開いた。

「テンテン……、頑張ってるのは分かるよ。でも、これで走るのはちょっと……難しいんじゃないかな。私は、これはなくても大丈夫。というか、いらないかも。レース当日に雨が降ると決まったわけじゃないし、もし降ったときは、タイヤの空気圧を下げて走るっていう手もあるからね」


繭に、これは不要なシステムだと遠回しに言われ、ミユはよほど残念そうな顔をしていたらしい。田村がテンテンの肩を抱いた。

「そう気落ちしなくて良いよ。私があとを引き取って卒業研究に使うからさ。私、自動車メーカーの設計の仕事がしたいんだよね。ちゃんと、舞ちゃんとテンテンの名前も卒業論文に載せるからね、無駄にはならないよ。だから、みんなはシャシー班に合流してあげて」

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