第40話 星を見る人

内山会長を家まで送ったあとで、寮に戻ると、夕食の時間にはギリギリ間に合った。けれども、間に合わない可能性を考慮して、予め欠食申請をしていたので、ミユたちの夕食はそもそも用意されていない。

普段ならこういうときは、外食したりコンビニで済ませたりすることになるけれど、今日は寮長が釣ってきたイワシが大量にあるので、自炊をすることになった。


ミユと舞と鳴は部屋着に着替えたあと、外の手洗い場の前にテーブルを用意して魚を捌き始めた。鳴がイワシの頭と内臓を取り、舞がそれの腹に指を入れ、手で開いて背骨を外し、ミユがタオルで水気を取ったあと小麦粉をまぶして、溶き卵にくぐらせて、パン粉を付けていく。二〇〇匹はいるだろう。途中から数えるのをやめて無心になって手を動かし続けた。


「手伝いに来たよ」

声を掛けられて振り向くと、環と彗だった。なんでも桜に手伝ってあげてと頼まれて応援に来てくれたらしい。

彗と環は、カセットコンロとフライヤーを準備して、次々とフライを揚げていく。そうこうしているうちに寮生が集まり始め、手の空いている寮生がイワシの皮を剥ぎ、刺身も用意された。やがて大皿いっぱいのイワシフライ、刺身、マリネの三品が完成した。


調理道具を洗って元に戻し、完成した料理が談話室のテーブルに運ばれて、スナック菓子と、ペットボトルの飲み物も一緒に並べられる。

池田繭も夕飯を食べてないだろうから、もし寮に帰ってきてるなら誘ってみたら良いと鳴に許可を貰ったので、ミユは繭のスマホにメッセージを入れた。ほどなくして繭からの返信が来た。

『私、何も手伝ってないけど、いいの?』

『主催の寮長がいいって言ってるからいいと思います』

『ありがとう。洗濯が終わったら行く』


すぐに宴会が始まった。ミユはイワシフライを何枚か紙皿に取り、ソースをかけて口に運ぶと、食感はサクサクで、すぐに平らげた。

まだ夕飯を食べていない鳴もおなかが空いているようで、会話よりも食事を優先しているようだったけれど、その他の多くの寮生はすでに夕食を食べているせいか、おしゃべりがメインだった。


「そういえば、環先輩って以前は競技自転車部だったんですか?」

ミユは食事が落ち着いたタイミングで、隣にいた環に聞いた。

「彗ちゃんに聞いた?」

「いえ、初めてみんなで競技自転車部に行ったとき、なんとなくそんな感じがしました。十河そごうさんでしたっけ? 知り合いのようだったので」

「ああ、そうだよ。私は二年のときまでは競技自転車部だったんだ」

「十河先輩はタンデムに乗ってくれるでしょうか?」

隣で聞いていた彗がジュースのグラスをいじりながら言った。

「分からない。ダメかもね。あいつは昔の私と同じで純粋に速さにしか興味がないヤツだから。多分、それは今も変わっていない」


「環先輩はどうしてサイクリング部に移ったんですか?」

彗は、以前、サイクリング部のプレハブに向かう途中に最後まで答えを聞けなかった質問をした。

「前に言わなかったっけ?」

「はい。合わなかったとしか」

「端的に言えば、それが全部だよ」

彗とミユの顔は、環の答えに満足していない様子だったので、環は一呼吸置いてから話を続けた。

「……私と十河は、二人で優勝を競い合った仲だった。互いに切磋琢磨して、誰よりも練習した。私たちは、優勝こそしていなかったものの、学生レースで何度か入賞して、先輩たちからも一目置かれていた。エースの自覚もあった。でも、二年の春、レースの日が近づくと眠れなくなった。夏のレースの出走前には、おう吐して直前で出走を辞めたよ。そのときは熱中症だと思ったけど、秋のレースでも吐いて病院に行った。身体に異常はなかったから、原因は精神的なものだろうということだった。エースなのに弱いと思われたくなくて誰にも相談しなかった。それから自転車をさけるようになって、部活にも行かなくなった。除籍になるのは格好悪いから、自分で退部届を出して、寮の自室に塞ぎ込んでいた」

彗とミユは、黙って聞いていた。


「そんなとき、たまたまサイクリングサークルの御厩先輩に出会った。いや、前から御厩先輩のことは知っていたけれど、それまでは変な自転車を作ってる変な人くらいにしか思ってなかったんだ。当時、何をやるでもなくフラフラしていた私を御厩先輩が捕まえて、暇なら今作っている自転車の手伝いをしろと言ってくれた。やることもなかった私は、友達に誘われて映画に行くような感覚で御厩先輩に付いて行ったんだ。もし私が競技自転車部を辞めていなかったら、全く関わることはなかった人だろうね。

で、いざ手伝い始めると、これがすごく面白かったんだ。御厩先輩自体が面白い人だったし、みんなで一つの物を作るのも楽しかった。自分の手に技術が身につくのも楽しかった。だからミマヤ号が完成したときはうれしかったし、今まで感じたことのない達成感があった。決してスピードの速い自転車ではないけれど、それ以外の価値があった。だから、気がついたら私はサイクリングサークルに入っていた。そんなところかな」

「すみません。軽々しく聞いてしまって」

「いや、良いんだ。今はもう大丈夫だから。こうなってよかったとすら思ってるから。でも……、心残りがあるとすれば、十河に全部を押しつけたまま、今日まで来てしまったことかな。

ああ、なんだか湿っぽい話になっちゃったね。私は先に部屋に戻るよ。片付けしなくてごめんね」

「いえ、大丈夫です。おやすみなさい」

潮時だと思った環は自室に戻っていった。それと入れ替わりで池田繭がひょっこり下をのぞかせる。ミユを見付けると、部屋に入ってきて遅い夕食を取り始めた。


刺身やマリネも楽しみ、おなかいっぱいになったところで、ちょうど料理もなくなった。料理がなくなると、一人減り、また一人減りと、なんとなくお開きのムードになって、会場を片付ける流れになった。準備を手伝っていない繭が洗い物を申し出て、ミユがその手伝いを申し出たので、二人で廊下の手洗い場で洗い物をすることになった。


「テンテン、今日は誘ってくれてありがとうね」

皿をスポンジでこすりながら繭が言う。

「寮長が誘って良いよって言ってくれたので。あの、ひとつ、訊いても良いですか?」

「答えられることなら」

「池田先輩は、どうしてここ何年もレースに出てなかったのに、今回のレースには出てくれるんですか?」

「それは、テンテンが出てくれって言ったから」

「いや、それはそうなんですけど……」

「私が今までレースに出なかったことが気になるの?」

繭は手を止めることなく洗い物を続ける。

「……あんなに優勝してたのに、なんだかもったいないなって」

「少し……、暑いね」

そう言って手に付いた洗剤を洗い流して、繭は窓を開け、そこから夜空を見上げた。それにつられてミユも天を仰いだ。雲一つない快晴ではあるけれども、街の光が明るいので、星は少ない。それでもひときわはっきりと、うしかい座のアークトゥルスが見えた。


「テンテンはさ、好きな星ってある?」

「好きな星ですか? うーん。フォーマルハウトですかね」

ミユがそう答えると、質問した方の繭が驚いたような顔をした。

「詳しいね。私から聞いておいてなんだけど、正直驚いた」

「家が山の中にあるので、星や天の川がすごくきれいに見えるんです。だから、小学校の自由研究はいつも星の観察をしてたんです」

「へえ、でもどうしてフォーマルハウトなの?」

「秋に見られるただ一つの一等星ってのもありますけど、なにより環がきれいだから」


みなみのうお座の一等星であるフォーマルハウトは、塵でできたいくつかの円盤を持っている。写真に映るそれらはとてもきれいだった。

「そっか。テンテンは犬が好きそうだから、シリウスが好きって言うと思ったんだけど、魚のフォーマルハウトなんだね」

「シリウス?」ミユはふと考え込んだがすぐに合点がいった。シリウスは、おおいぬ座の星なので、ドッグ・スターの別名を持つ。

「ああ、ドッグ・スターだからですか」

「そう」

「もちろん、それも好きです。先輩は? 好きな星、あるんですか?」

「好きというか、見たい星はあるよ」

「どれですか?」

「アクルックス」

「……アクルックスって何でしたっけ?」

「さすがのテンテンも覚えてないか。南十字座だよ」

「ああ、南十字座のα星ですか」


南十字座は北回帰線より北の地域では見られないこともあって、ほとんどの日本人にとってはなじみのない星だった。また、古来、固有名を持っておらず、アクルックスと命名されたのはつい最近のことで、ミユの持っている辞典には、南十字座のα星としか載っていなかった。

「でも、どうして、アクルックスなんですか?」

「なんでだろうね。見たことないから、憧れてるんだと思う。それに、三重連星なのも面白いと思わない?」


アクルックスは、肉眼では一つの明るい星にしか見えないけれど、実際は三つの恒星で構成される珍しい星だ。

「じゃあ、見に行きましょう」

「え? 南半球に?」

「そこは、私に考えがあります」

「へえ、それは楽しみだね」

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