名前のないもの

そんな状態になってから数週間後。

再び聖子、柚樹をメインにした取材が来た。

やはり未来を担う選手への期待は大きい。


今回の取材時は滑っていた人達が氷から上がるよう言われなかったが、リリィは一ミリもカメラに写りたくなくてトイレに篭った。


「いませんいません、島田りりさなんていません」


エッジカバーを付けたスケート靴を履いたまま便器の蓋に座り、そう呟く。


トイレでする事が無くて暇だが、写るよりマシだ。

そう思って取材の人が帰るのを待っていたが、現実は非情だった。


一時間後、そろそろ帰っただろうと思ってトイレの個室から出たタイミングで、トイレに知らない女性が入ってきた。

一瞬スケートをしていた一般客かと思ったが、それにしてはスケートには向かない綺麗なスーツを着ている。


それだけなら良かったが、その女性と目が合ってしまった。

女性は驚いた顔をした後、笑顔になる。そして


「ここで練習してる子ですか?」


と最悪の質問をされた。

トイレでまでインタビューをする記者魂、天晴れである。


「………はい」


嘘をつくわけにはいかない。


これで「聖子ちゃんのどういうところがすごいと思いますか?」などと聞かれたら、癪に触りすぎてその場で地団駄を踏みそうだ。

柚樹のすごいところはいくらでも語れる気がするが、聖子のすごいところは分かっていても語りたくなかった。


多分聖子もリリィにだけは語られたくないだろう。


しかし、女性からの質問はあまりにも想定外のものだった。


「あなたは島田りりさちゃん?安村先生が探してたよ?」

「えっ」

「関東選手権に出る選手を一人一人ダイジェスト用に撮影してるの。銀河くんを今撮ってるところだけど、あなたが見当たらなくて…」

「…………」


一気に身体中の体温が抜けていくような気がした。

メインはいつもの二人だと思っていたが、どうもそうではなかったらしい。


「えっと、私もですか?」

「関東出るんですよね?」

「はい…」


一気にトイレから出るのが怖くなる。安村コーチは今頃カンカンだろう。

安村コーチは普段は笑顔で優しく、時に厳しく教えてくれているが、怒ると本当に怖い。


優香は「お母さんが怒ると何が飛んでくるか分からないから部屋に逃げる」と言う。

某複数人で編集されるサイトでは現役時代、コーチと喧嘩して癇癪を起こし、周りの選手が遠巻きに見ていたというエピソードが書かれているくらいなのだ。


ずっとトイレにいたのに、もはや恐怖で色々と溢れそうな気持ちになりながら震える足で女性と共にリンクへ向かった。


「どこにいたの!」


リリィの姿を見るなり、大きめの声で叱りつける。


「えっと、トイレ………」

「そんなに長く?お腹でも壊したの?」

「え、いや、その……うん、はい……そういうことでいいです…」


リリィの言い訳にもならない言葉を聞いて安村コーチは呆れた顔を隠さないが


「まあ、出てきたならいいわ…まちちゃんの次にあなたって言っておいたから。ダッタン人滑ってもらうから」


と告げる。


銀河の撮影が終わり、まちに代わる。


「…なんでに篭ったの?」

「……写りたくなかったから…」

「バカね、今まで何度かチラッと写ったくせに」


そう言われるとぐうの音が出ない。

しばらく項垂れていたが、ふと疑問が湧いて安村コーチに目を向ける。


「そういえば去年までこんな撮影なかったよね」

「うん…最近フィギュアスケート人気が上がってきてるからね、今まで興味を示されなかった試合やそれに出る選手にも興味が持たれてるから、取材されるようになってるの。柚ちゃんだって去年はここまで取材されてなかったから」


その言葉に納得して頷いていたらまちの撮影が終わり、リリィの番になった。


リンクに出た瞬間、自分に向けられたカメラにどこかぞわりとした寒気のような感覚と、高揚感の両方を感じた。


島田りりさ、人生で初めて試合以外でピンでの撮影だ。今まで名もなきモブでしかなかったがこれで少しだけ名前が出るかもしれない。

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