夕日が沈む10

 ひさが亡くなった日の夜とは思えないほど豪勢な酒宴。そんな宴を開き私の隣に座っていたのは勝蔵さんだった。


「どうした夕顔? 今日はいつもより元気がないみたいだな」

「そうでありんすか? もしかしたら少うし疲れてる所為かもしれんせん。それより勝蔵さんはお仕事どうでありんすか?」

「おいおい。仕事の話は止めてくれよ。美味い酒と」


 勝蔵さんはそこで一度酒を呷ると続きの言葉と共に私の顎へ手を伸ばした。


「美しい花があるのによ」

「嬉しい事言ってくれんすね」

「それに巷で噂になってる辻斬りの事は気がかりだが、仕事が上手くいってなかったらここには来れないからな。お前とこうやって酒を酌み交わせてるのが答えだ」


 私は顔に伸びている彼の手を両手で包み込むとそのまま頬へ当てた。


「わっちたちを繋げてるのはお金だけではないでありんしょう?」

「よく言うぜ。支払えなきゃ会えないだろ? 違うか?」

「わっちは良いけど、吉原屋はどうでありんしょう」

「嘘でもそう言ってもらえて嬉しいね」


 笑みを浮かべた勝蔵さんは私の頬から手を離すと酒を注ごうとしたが、私はそれを彼の手から取ると空になった猪口に溢れんばかりに注いだ。


「なぁ、夕顔。ひとつ頼まれてくれないか?」

「何でありんしょう?」


 それが何かを言う前に勝蔵さんはまた酒を呷った。そして私へ顔を近づける。


「今夜は俺の相手だけをしてくれ」


 言葉と共に彼は巾着を差し出した。それを受け取るとずっしりとした重みが布越しに伝わる。中を見ずともそれが何なのかは分かる。


「それを決めるのはわっちではないでありんすよ」

「分かってる。だからそれを持って来たんだ」


 私は若い衆の一人に目をやり無言で呼ぶと巾着を渡した。そしてその若い衆は巾着を手に部屋を後にした。


「たった一夜の間、一緒にいてもらう為にあれだけ用意したんでありんすか?」

「あぁそうだ。分かってないのか? お前はそれだけ金のかかる女でそれだけの価値がある女だって」

「価値があるのはわっちではなくてこなたの地位とこなたの体だけでありんしょう?」


 すると勝蔵さんは私との僅かな距離を全て埋めると腰に手を回し私を抱き寄せる。だが彼に寄り添うように抱き寄せられても私は気にしてないかのように平然を保っていた(いや、実際に気にはしてない。すっかり慣れたものだ)。

 そして彼の顔が息を感じる距離まで一気に近づく。


「俺を他の奴らと一緒にするなよ。俺は他は気にしちゃいねー。最高位遊女であるお前を見せびらかすのに興味はない。ただたまたま気に入った女が最高位遊女だっただけだ。もしお前が下級遊女だっとしても俺はお前を選んでた。いや、その時はすぐに身請けしてたな」

「主さん程の男が下級遊女でも? どうでありんしょう」

「疑うなら疑え。だが、この体はっていうのとこはあながち間違いじゃないな。全てじゃないが確かにお前の体には価値がある」


 少し腰に回っていた手に力が入り私の体もそれに合わせ彼の方へ寄せられた。


「正直なんでありんすね」

「当たり前だ。愛する者に嘘はつかん。お前のは偽りだとしても俺のは本物だ。現にまだ結婚もしてないしな」

「わっちのは偽りでありんすか。傷つくことを言いんすね」

「俺は馬鹿じゃない。ちゃんとそれを承知でお前に会ってる」


 巷では遊女との口づけは『おさしみ』なんて呼ばれているらしい。鮮度のいい刺身はそうそう食べられるものじゃないからそれぐらい貴重ってことらしい。現に口づけを交わすのは恋人だけと決めている遊女も多いが、私は必要ならする。限られた人物しか馴染みになれない夕顔花魁。その更に限られた上客にはすることもある。


「それなら偽りかどうか試してみんすか?」


 私は彼の首に腕を回した。


「是非ともそうしてみたいな」

「他の客とは違う 。これは特別でありんすよ」


 ゆっくりと短い距離を更に縮めていく私。

 そしてあの時とは違い何の躊躇も抵抗もなく私と彼の唇は重なり合った。そこには何の感情も無くただの接客の一部でしかない。でもあの人とはしたいと思っても抵抗があったのにお客とはこんなにも簡単にしてしまう。その事実に私は秘かに一人惝怳としていた。そして同時に思った。

 やっぱりわっちは夕顔なのだと。


         * * * * *


「気分はどうですか?」


 隣に座る八助さんは少し心配そうにそう尋ねてきた。


「大丈夫やで」

「そう簡単に切り替えられないと思いますけど、少しでも支えになれたら嬉しいです」

「おおきに」


 私はお礼を言いながら手を彼の膝上に乗せてあった手へ伸ばした。だが指先が触れる直前で無意識に追いついた意識がその手を止めた。不自然な位置で触れることなく止まる手。私は内側で対立する感情にただその手を見つめる事しか出来なかった。

 すると八助さんの手が上から覆い被さるように触れるとそのままこちらを向いた膝上の手と私を包み込んだ。


「大丈夫ですよ」


 その言葉が何に対してかは分からなかったが、そんな事はどうでもよく私は手を包み込む温もりを感じながら彼の肩に頭を寄りかからせた。

 それからも私たちは変わらずこの場所で密会を続けた。でも以前とは違いその時間は至福なはずなのにどこか心の一部が余所見をしているような感覚が拭えない。それなのに夕顔としての時間は嫌いなはずなのにどこか落ち着くような気がする。

 やっぱり私は骨の髄まで遊女なのかもしれない。


        * * * * *


 それはある月光が遊郭の灯りに負けじと降り注いでいた夜の事。お客が眠りに着くと私は窓際に腰を下ろしいつもより明るい吉原遊郭を眺めながら煙管をふかしていた。その最中、ふと視線を下に落としてみるとそこには人影がひとつ。それは管笠を被り刀を腰に差した恐らく男。

 すると丁度と言うべきか夜回りの警備隊員の灯りが男の前で立ち止まった。何を話しているのかは分からないがその光景を見ていると警備隊員が少し声を張り上げた。あまり穏やかとは言えない雰囲気。

 私はそこで寝ているお客へ視線を向けた。この人は一度寝たら朝起こすまで起きない。もう一度下を見遣る。


「騒がしいと思ったら……吉原屋のお客に何か用でもありんすか?」


 部屋を出た私は吉原屋の正面戸を開き表へ出た。何故その人を助けようと思ったのかは分からない。その人が誰なのかも分からないし当然ながら吉原屋のお客でもないと思う。何よりわざわざ私がこうやって声を掛けるようなことも普通ならしない。強いて言うならただの気まぐれ。

 私は男の隣まで足を進めると抱き締めるように細いが筋肉のついた腕に寄り添った。近づいて分かったが男の背は少し大きく、髪は後ろで結んでいる。


「お客さん、折角の一夜なんでありんすから朝までいたらどうでありんすか?」


 男からの返事は無かったが私は視線を警備隊員に向けた。


「もう戻ってもいいでありんすか?」


 訝し気な警備隊員が私の後に男を見る。少しだけ沈黙が割って入るとは彼は何度か軽く頷いた。


「危険がないのであれば」

「ありがとうございんす」


 会釈をし私は誘導するように男と吉原屋へ歩き始めた。時間をかけゆっくりと。その後ろで警備隊員も夜回りを再開した。だが吉原屋の戸の前まで来ると後ろを振り返り警備隊員を確認する。どうやら灯りは向こうへ行ったようだ。


「主さんこなところ で何をしていんすの?」


 だが男からの返事は無い。


「寝る場所はありんすか?」

「いえ」


 今度は小さく辛うじて聞き取れる高くの冷たい声が返ってきた。


「なら向こうにある戸の前で少うし 待っててくんなまし」


 私が指を差したのは八助さんと会うあの場所への入口だった。吉原屋正面の左手、張見世の格子より更に向こうにある裏路地のように存在感も人気もないその場所。男は私の指を追い指先へ目を向けた。


「分かりんした?」

「えぇ」


 また小さく辛うじて聞き取れる声で返事をすると男は私から離れそこへ歩き出す。その後姿を少しだけ見送ると私は吉原屋の中へ入りいつもの道筋をなぞった。

 そして内側から鍵を開けると男を中へ。


「その物置小屋かこなたの腰掛け。いい所ではありんせんけど我慢してくんなまし」


 男は物置小屋を一見した後に腰掛へと向かい腰を下ろすと刀を腰から抜き横に置いた。


「それとこれ」


 そう言って私が差し出したは水の入った椀。それを男は受け取ると何も言わず呷り空になった椀を私へ。依然とお礼は無かったが別にいい。


「何故こんな事を?」


 すると初めて男から声が飛んできた。それは当然の疑問だ。


「別に理由なんてありんせん。でも欲しいといわすのならお金といわす事で」


 私は要求する手を出した。


「金はないですね。生憎ですが」

「別にいりんせん」


 言葉と共に私は手を引っ込めた。


「この鳥篭から抜け出したいと思った事は?」


 突然そんな事を訊かれ多少なりとも疑問は抱いたが、少し考えた後にこう返した。


「主さんならどうしんす?」

「そうですねぇ。――まず楼主を殺します」


 それは淡々とした本当に殺す事を厭わないといった声。人を殺すという行為に対して何の感情も抱かないようなそんな冷たさがあった。

 だが何故かその男はあまり危険な雰囲気は感じない。しかもその理由は探すまでもなく見つからないとどこか分かる不思議な感覚だった。


「それが出来んしたらそもそもこなたの場所に連れて来られてないでありんすがね」

「それもそうですね。ですが世の男を手玉に取る吉原遊郭一の花魁。まさかこうして直接お会いできるとはここへ立ち寄った甲斐がありました」

「それは幸運でありんしたね。それではおやすみなんし」


 そう言うと私はその場所を出て椀を戻してから部屋に戻った。

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