夕日が沈む11

「それでその人は次の日にはもういなかったんですか?」

「見てへんけど、不審な人物がおったなんて話は聞いてへんさかいそうや思うで」


 私は八助さんにいつもとは違ったあの夜の話をしていた。


「何してたんですかね?」

「さぁ。もしかしたらほんまはいーひんかったかもしれへんけどなぁ」

「それって幽霊って事ですか?」


 それに対してはっきりとした返答はしなかったが私はそうだと言う表情を浮かべた。八助さんは何かを言おうとしたのか口を少し開きながら二~三度首を振って見せた。


「もしかして怖がらしてしもうた?」

「まぁ……だったとしても会ったのは僕じゃないですし」

「直接見んは流石に怖いん?」

「怖いかもしれないですね」

「ほな後ろは見ーへん方がええかもわからへんね」


 私がそう言うと八助さんは素早く後ろを振り向いた。だが当然ながらそこには誰もいない。私はすぐに同じ速度で素早く戻ってきた彼の顔と目は合わせず一人先に声を出して笑ってしまった。


「いや、分かってましたけどね。何もいないって。ただつい反応しちゃっただけ――ちょっと笑い過ぎじゃないですか?」


 そんな事を言われながらも私は笑いをすぐには止められず少しの間だけお腹を抱えて笑ってしまった。

 そしてやっと収まり始めると零れる前に片目の笑い過ぎて溢れた涙を拭う。


「思い通りにいきすぎてつい。かんにんしてや」


 だが八助さんからの返事は無くもう片方の目も拭った私は彼の方を見遣った。八助さんは私の方を向きながら微笑みを浮かべていた。


「なに? どないしたん?」


 若干眉を顰めながら視線と共にそう尋ねると彼の表情は我に返ったのかハッとしたものに変わった。


「あっ、いや。ただ……ちょっと昔の事を思い出しちゃって」

「わっち以外の女なん? 妬いてまうな」


 冗談だと分かる声で私はそんな事を言った。


「実は僕がまだここに来たばかりの頃。初めて花魁道中っていうのを見たんです」


 すると彼はその思いだしていた昔の話を始め、私はそれに耳を傾けた。


「歩いてたのは夕顔さんが姐さんって言ってた朝顔花魁さん。前も言いましたけど子どもの僕から見てもとても綺麗で思わず見とれてしまう人でした。でも何故か分からないけど、僕はふと視線を別の人に移したんです。分からないって言うか理由はないんだと思うんですけど、それはは朝顔花魁さんと共に歩く一人の少女でした。僕より少し大きいぐらいの少女。彼女は目を向けて少ししてから視線を感じたのか僕の方を向きました。そして目が合うと――笑ったんです。別に彼女にとってはなんてことないただ笑顔を浮かべただけかもしれないですけど、僕にとってはこう――雲から太陽が顔を出すみたいな感覚でした。それぐらい素敵な笑顔で心に焼き付いたのを今でも覚えてます。それからもずっとその笑顔を忘れられなくて、思い出すたびに胸が高鳴るんです。そして僕も少しぐらい成長したある日。店先に出ると偶然、夕顔さんを見かけたんです。あなたは丁度、笑ってました。その笑顔を見た瞬間。気づいたんです。あなたがあの時の少女だって」


 八助さんから真っすぐ向けられたその視線は遊女である私すら通り抜け心の奥底まで届いているようなそんな視線だった。


「一度でもいいからその少女に会おうとずっと源さんに貰っていた給料を貯めてたんですけど、あの少女があなたと分かってからその為に更にお金を貯め続けてたらいつの間にかあなたは最高位花魁になっちゃって流石に諦めてたのが本音です。でも源さんのおかげでこうやって会えるようになった」


 彼は私の手を取り両手で包み込んだ。真っすぐ目を見つめたまま。


「僕はあの時からずっとあなたに恋してました。それは今も変わりません。むしろあの時よりずっと好きです。あなたが吉原屋の最高位花魁なんて関係なしに、その笑顔もその声もこの手の温もりも。もちろんいけずなところも」


 そう言うと八助さんは片手を私の頬へ伸ばした。言葉は無く見つめ合い繋がる二人の双眸。そしてそれに引き寄せられるように彼の顔が私の方へ近づき始めた。この後、何が起こるのかは分かる。鼻先が触れそうな程に近づく私と八助さん。

 だが私はそれが触れ合う前に彼の首に腕を回し抱き付いた。


「そないな事言うてもらえるなんて嬉しいなぁ。わっちも――やで」


 明確な言葉は口に出来なかった。それに加え私は避けた。お客の男にはなんの躊躇いもなく自らするのに、私は避けた。その真実に彼の顔の横で私は秘かに眉を顰める。

 そして私は少しでも早くこんな自分から彼を遠ざけようと言葉の後、すぐに離れた。


「ありがとうございます」


 彼の言葉の余韻を残すようにゆっくりと離れた私たちは互いの目を見つめると同時に気恥ずかしさから笑いを零した。そして一緒に前を向くと先にそうしようと思ったが動かなかった私の手を八助さんは握ってくれた。私はそんな彼に答えるように肩に寄り掛かる。でも握り合ったその手を見る事は出来なかった。

 それからは残りの時間をその状態のままゆったりと過ごした。


「それじゃあまた」

「ほなな」


 そして八助さんとその日の別れを交わした私は鍵を閉めるといつも通り部屋へと戻ろうとした。

 だが戸を開けたそこには人が一人立っていた。私を待っていたんだろう動じる事のない視線が私を貫く。

 そこに立っていたのは、吉川秋生だった。


「話はお前の部屋で聞く。それまで待ってろ」


 秋生はそれだけを言い残すと踵を返し吉原屋へ。私は少し間その場で立ち尽くしてしまい秋生の姿が消えてから我に返ると足を動かし始めた。

 そして部屋に戻り着付けを終えた後に化粧をしていると襖の磨れる音が聞こえ言葉通り秋生が部屋の中へ。

 私はそんな彼を一瞥すると鏡に顔を戻した。


「いつからだ?」

「知らへん。忘れてもうた」

「あの場所以外でも会ってるのか?」

「いや、あの場所だけやで」


 私は怒っている訳ではないが自分は悪くないと主張するように淡々と答えた。


「他に知ってる奴は?」

「いーひん。今はもうな」


 その言葉に何かを感じた訳じゃないと思うが秋生は沈黙を挟んだ。


「もう奴に会うな」


 微かな沈黙の後に聞こえたその言葉に私は化粧の手を止め彼の方へ顔を向けた。


「別に仕事もちゃんとしてるさかいええやろう」

「駄目だ」

「他の子たちはええのに?」

「行燈部屋のことか。――第一にあいつらの相手は客だ。だがお前のは違う。第二にお前とあいつらは違う。もしがあればお前の場合はこの妓楼の大損失になる。故に許されん」

「そないな事――」

「お前の意見は聞いてない。話は終わりだ」


 そう言うと秋生は踵を返したが襖の前で立ち止まると少し顔を振り向かせた。


「しばらく仕事以外でこの部屋から出るな。あの場所も封鎖する。それと馬鹿な事は考えるな。どの道ここからは逃げられん」


 私の声など聞く気もなく言うだけ言うと秋生は部屋を出て行った。強めに閉められた襖の音が部屋に響くとその後を続き私の嘆息が追う。夕顔として最高級花魁となり得た物は確かにある。でもそれにより失ったものも確かにあった。心を寄せる人に触れる事も口付けを交わす事も出来ず、そして今度は会うことすら取り上げられた。もし私がただの遊女なら変わってたんだろうか。そんな事を考えながらも私は残りの化粧を仕上げた。

 こうなってしまってはもう私に残された彼との繋がりは手紙だけ。私はこの事をどう伝えようかと考えつつも、次の日に届くはずだった彼からの手紙を楽しみにしていた。

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