夕日が沈む9

「夕顔さ――」


私の遊女としての名前を呼ぶ声を頬から口へ滑らせた指で止めると瞼を上げた。泪に濡れてはいるがその双眸からもう雨は上がっていた。

そして私は彼の口と手に触れていた自分の手を彼の首に回し何も言わずゆっくりと顔を近づけていく。私と彼の目を繋ぐ直線を縮めていくように真っすぐ。それにつれ彼の目は少し見開き瞳孔が大きくなるのが見えた。でも私は近づくのを止めなかった。

だが鼻先が一足先に触れ合うところまでくると私の意思とは関係なく脳裏にある映像が浮かぶ。それは夕顔花魁がお客相手に触れたり顔を近づけたり手付け(口づけ)をしたりしている場面。お客の偽りの妻として相手を虜にする為の行動だった。

私はその映像に今自分がしようとしている事を止めると、少しだけその状態で止まり一度、目を瞑り唇を噛み締めた。そして瞼を上げ再び顔を動かし始めると八助さんの頬へ軽く口づけをし、そのまま彼を抱き締めた。すれ違うように隣り合う互いの顔。

私は彼の耳元で名前を口にした。夕顔ではない本名を彼に教えた。


「それがわっちの本名。知ってるのんは蛍とあんただけ。忘れたらあかんで」


言葉の後、何も言わなかった八助さんの返事分の間が空いた。


「どうやらわっちもあんたの事、好きみたいや。そやけどわっちは穢れてんで? 沢山の男に体を売ってその気もあらへん男たちをその気にさせてきた。偽りの愛を口にして男たちの欲望を受け入れてきた。ほんでもええの?」

「いいですよ。それにあなたは穢れてなんかない。むしろ誰よりも綺麗です。そして僕は誰よりもあなたが好きです。吉原屋の最高位花魁だからじゃなくてあなただから。それはこれからの五年の間でどれだけの、どんな男と夜を共にしようが変わりません」

「ほな約束してくれる? 年季明けたら今度は外でまた会うてくれるって」

「僕はずっとそのつもりですよ」

「ほんまおおきに」

「いえ。僕がそうしたいんです」

「その時はもう夕顔って呼んだらあかんで? ちゃんとさっき教えた名前で呼んでな。その時にはわっちは夕顔をほかしてるさかい」

「分かりました。それまでは呼ばない方がいいですか?」

「そうやな」

「分かりました」

「もう少しこうしとってええ?」

「もちろん。気の済むまでこうしてましょう」


それから須臾の間、私たちは何も言わず抱き合ったままでいた。

そして互いの温もりが沁み付いたままの体を離し目を合わせるとどこか気恥ずかしくも愛しい気持ちで胸は一杯だった。ひさもこんな気持ちのままで最期を迎えたのかと思うと少しだけ安堵する。

出来る事なら今日はこのままずっとここで時間を過ごしたかったがそうはいかない。彼も私も。だから私は名残惜しかったが彼から手を離すと軽く残っている泪を拭き立ち上がった。


「もう少し一緒におりたいけどそうもいかへんさかい」

「え? 今日も仕事するんですか?」

「別に遊女の死は珍しない。それに妓楼はそないな親身ちゃうしな。特にわっちは悲しいなんて理由では休まして貰えへんやろうな」

「そんな……」

「妓楼にとって遊女はあくまで商品でしかあらへんってことやな」

「酷いですね」


言葉と共に彼の顔が僅かに俯く。


「もう慣れたけどなぁ」


そして自然にできた間の後、私は彼の肩に手を伸ばした。


「ほなな」


私の手が肩に触れると八助さんは顔を上げ、私の手の上に自分の手を重ね合わせた。


「はい、また。ここで」

「ほんまにおおきにな」


そして彼の手から滑り落ちるように手を離すと私はそのまま部屋へと戻って行った。

部屋に着くと早速、着付けをし化粧を始める。既に一日分過ごしたような気分の中、今日を思い出しながら鏡に向かっていた。ひさの事を思い出し、その後の八助さんとの事を思い出す。悲泣する私を慰め包み込む腕と声。身も心も温めてくれたあの温もりは今でもそこにある。それから彼の真っすぐ私を見つめる瞳。思い出すだけで思わず手が止まり真っすぐ鏡の自分を見つめてしまう。でもすぐに我に返ると私は紅を引き始めた。

だけどまたすぐさまその手は止まってしまった。

私の視線の先にいたのは鏡に映る自分。それはいつも通り着飾り化粧をした夕顔花魁だった。豪華な着物に頭の簪。そして中途半端に引かれた紅。私の脳裏にはあの瞬間が過った。息がかかる程に近づいたのに口づけを交わせず避けたあの瞬間を。そしてひさが言っていた間夫に本名を教える理由が後を追うように脳裏で再生された。

『特別な関係になる為と遊女である自分と切り離す為』

私はあの時、自分の心に従い口づけを交わそうとした。でもその直前でお客の心を逃さぬ為に近づく遊女の夕顔とその瞬間の自分が重なってしまった。まるで今からしようとしている事が他の男たちにしたのと変わらぬ行為であるかのように。今から八助さんと触れ合うのが私じゃなくて夕顔であるように思えてしまった。だから私は避けた。

そして私は頭の中から目の前の鏡へと意識を戻した。ここに連れてこられた時からずっとそこにいて、奥深くにまで沁み込んだ夕顔。男たちに求められ男たちを悦ばせる遊女。


「確かにひさの言う通りやったな。そやけどそれだけじゃあかん」


私は夕顔ではなくただの私として八助さんに触れたい。もしかしたらそう願うのは、それだけ本気で、心の底にいる私自身の想いである証なのかもしれない。この手もこの唇もこの体も。彼に触れるのは私がそうしたいと心から思うから。夕顔としての行為ではなく私自身の意思。

でもそう思うにはあまりにも夕顔は私に沁み込み過ぎている。本名で呼ばれたぐらいじゃ私は彼女を切り離せない。そして私は嫌いな彼女のまま八助さんに触れたくはない。今までは手や頬に触れ、寄り添うことは出来たけど自分の想いに気が付いた今はどうなんだろうか。私はどれだけ夕顔を忘れて彼の隣に居られるんだろうか。それは分からない。床だけじゃなく酒宴においても男を悦ばせる術を私は知っている。それを多少なりとも八助さんに使ったこともある。それにこれら先も無意識のうちにしてしまうかもしれない。遊女として他の男たちにしたように八助さんに接してしまうかもしれない。他の男たちへ向けた偽りで彼と接したくはないのに。そうしてしまうかもしれない。

私は鏡の夕顔と目を合わせた。少しの間じっと目を合わし続け、そして残りの紅を引いた。自分はどこまでも遊女であることを思い知りながら。


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