第5話 平坦な心
その場に居合わせたグレーボヴィチ教官と、食卓を囲む。
冷たい真っ白なペンキで塗られた木製のイスに腰を掛けて、僕達は一息つく。
砂漠の大地の上に建てられた城塞都市ジェイミーティの中にあるレストランで、一人のシェフが僕達に声をかける。
「お食事は、何にいたしますか?」
コック帽をつけた料理人が、料理をするのではなく直接、僕達と会話をしている。
他の料理人の様子を眺めると、調理室に戻るが、作られた料理を運ぶだけで料理はしてないようだった。
料理人は、この店で唯一、働く人物であり、料理のレシピを作成し、接客をするのが、シェフの役割であり、レシピ通り作るのは、料理人の役目ではないということだった。
料理のプロセスが省かれた作業はとても、スムーズであり、見事な仕事様だった。
料理人はすばやく、店の奥からできたての料理を持ってくる。
寒い地域特有の鮮やかな赤色のスープをお膳に載せた料理人は、オーダーとは別に、サービスと言い、
寒いから、体を温めるように。と、スープを提供してくれた。
お皿の上からは湯気がのぼり、その暖かさだけで、僕たちの食欲を喚起した。
お皿の中を覗き込むと、肉団子やベーコン、ソーセージ、野菜がいっぱい、ゴロゴロ入っていている。
「うわぁ。。」
美味しそうなスープを見て、アリスは目を輝かせる。
料理人がしずかに、上品にテーブルの上にスープを置いて、どうぞ。と声をかける。
僕たちは、自分たちの体を温めるために、手元のスプーンを手に取った。
僕は、まっさきに口元にスープを運ばずに、みんなの様子を眺める。
料理を美味しそうに、食べるアリスと、淡々と口元にスープを運ぶミサ。
無機質に唇が動き、受動的にスープが口の中に一定間隔に注がれる。
僕は、少し、虚ろな表情でスープを口に運ぶ彼女を見ていた。
そして、彼女にかける言葉。
それを僕は探していた。
さきほど、公園で僕に泣きついて来たことを思い出す。
今まで、僕の前では、笑っていた彼女が初めて涙を見せた。
理由も告げずに泣く彼女を見て、僕の心は、なにかしなければ、と認識していた。
星空の夜も、アリスと出会った日も、自分から周囲を勇気づけるように笑っていた彼女。
そんな彼女が、何かを抱えている。
彼女の言葉が僕の心に蘇る。
「言えない。きっと、皆に迷惑かけちゃうから」
彼女は、僕の胸元でそう、苦し紛れに呟いていた。
僕の肌がミサさんの微かに震えるの手の感触を思い出す。
僕がそこまで思い出したところで、グレーボヴィチ教官が視界の端で動き出し、僕の思考は一旦止まる。
食卓を挟んで、向かいにいるグレーボヴィチ教官は、そんな姿を横目で見ながら、雰囲気を壊さないように、メニューをオーダーしていた。
かつて、師事した教官と戦地へ赴く旅路で出会った彼女と両親と逸れた孤児。
僕は、この不思議なめぐり合わせに対して、感傷に浸りながら、再び、彼女の仕草に目を向ける。
真っ赤な唇と銀色のスプーン。
スープを静かにすする音と、食器がぶつかり合う音。
そして、以前にもこんなふうに家族と食卓を囲んだ過去を思い出した。
「さすが、ヒロトね。兄は優秀。あなたも医療の道へ進みなさい」
これが、母の口癖だった。
「お前は、いつも不器用。そんなに、試験で緊張する必要はない。落ち着いて、冷静に、淡々と。目の前の問題を解くだけのはずだ。なぜ、それができない。」
これが、父の口癖だった。
目の前に映る灰色の虚像が僕に語りかける。
「話を聞いているのか?」
父は苛立ち、テーブルを叩いて声を荒らげる。
「ちょっと、声を荒らげないでください。こっちまで、気分が悪くなります。」
雰囲気の変化に嫌悪感を感じる母は、父の感情の動きと連動するように反応する。
「お父さん。お母さん。この話はやめましょう。心配するのは自由ですが、心配しすぎると、二人の健康を損ねます。弟は、あとで、キツク叱っておきますから。どうか、落ち着いてください」
そう言い、仮面をかぶったような笑顔を作り、仲裁に入る兄は、僕の隣の席で柔らかい雰囲気を演出しながらも、両親が見ていない足元で、僕の足を踏みつけていた。
いつも、似たようなやり取りを一定期間繰り返す家族。
最初は、生き生きと色付いていたはずの景色が、僕にとっては、凹凸の無い刺激へと次第に変化していった。
家族は、僕ができそこないということを、料理の
その一方通行の単一なコミュケーションパターンしか描かない姿に、僕は飽き飽きしていた。
家族を形成する意味は、なんなのか。こんな詰まらない話をするためなのか。
でも、最初からこうだったわけではない。
次第に、変化をしたのだ。
いつしか、僕の家族は、自分の心にストレスがかからない。
コミュニケーションにおいて、自分の一番心地よいポジションに身を置くようになったのだ。
そこに、相手がどう思っているかは重要ではない。
すべては、自分の身を守るためであった。
自己の防衛本能の姿だった。
家族が、自らのポジション取りを進める状態で、僕も同様に、家族の輪の外に意識を持ち出す。
僕は、この会話を耳にしながら、どこか。違うことを頭の片隅で考えていた。
この無機質な気持ち悪い、居心地の悪い場所から、抜け出したいと。
この決めつけられたレールから外れたいと。
そのためには、僕には何ができるのだろうか?と。
そして、僕の持っている記憶の中で、一番、色づいていた記憶を思い出す。
それは、祖父と出会った子どもの頃の正月休みを思い出だった。
居間で用意された食卓を囲みながら、僕たち兄弟を見て、やっと会えたと笑う祖父。
祖母を数年前に亡くした祖父は、それはそれはとても嬉しそうに、僕たちが、家に訪れたことを喜んでいた。
普段は、滅多に食べない鮮魚や、今や滅多に食べられなくなった牛肉が盛り付けられたお皿を食卓に並べる。
しかし、毎回、そんな祖父を黙って見つめる父と母の存在があった。
僕は、その様子が幼いながら、気になり、
なにか両者の間に関係性を引き裂くような確執があったのかと、言葉を濁しながら、祖父に公園の帰り道に聞いたことがあった。
そのとき祖父は、しばらく考え込んだあと、僕に視線を合わせるようにしゃがみこんでから、祖父は笑って、僕を落ち着かせるように答えた。
「何もないよ」
そして、しばらく間をあけて。言葉を選ぶようにこう答える。
「ただ。感情を保つことに対しての考え方の違いがあるだけだよ」
僕には、その言葉の意味が当時わからなかった。
その時は、一人ひとり、喜怒哀楽に差があるように、自分自身の感情の傾きに対しての閾値が違うのかと、感じたが、僕が考え事をしている最中に、祖父は補足するように付け加えた。
「ワシは、戦地に行ったことがある。だから、なぜ、感情を保つ必要があるのか。その意味を知っている。だけど、マサトのお父さんやお母さんは、戦地に行ったことはない。ただ、聞かされていることは。感情を保たなければいけない。ということだけなんだ。
それが何のためになのか。正確には把握していない。
あるのは、感情を保つという行動だけなんだ。
だから、感情をどちらに傾けてはいけないのか?
感情をどの程度傾けてはいけないのか?
感情をどこで、傾けてはいけないのか?
その情報を考えることなく、すべての感情の揺れを抑制しているんだよ。」
祖父はため息をつく。
「でも、マサトのお父さんやお母さんが悪いわけでは、決してないよ。それは、最終的に自らの身を守ることに繋がるから。」
しかし、祖父は一言付け加える。
「但し。その行動は、自分の身は守れるが、相手の身は守れない。そこは、十分に注意しておくんだよ。特に。大切な人を守りたい場合はね」
祖父はそう言って、僕の頭をなでた。
そして、僕は、家族と食卓を囲みながら、祖父との会話を思い出し、両親に黙って、軍隊への入隊を果たした。
祖父の言葉の意味を知るために。
ちょうど、人手が足りないということもあり、あっさり軍隊の試験は通った。
その事実を知ったときに、父は残念そうな顔をしていたが、
決断した僕に一言付け加えた。
「医療の部隊なら、許す」
結果的に、軍隊の組織には、医療も戦闘も区別がなく、どちらも学ばなくてはいけなくなった。配属は、後方部隊になったので、逆鱗に触れることはなさそうだと僕は思っている。
家族には2年以上会っていない。
だけど、過酷な訓練生活のおかげで、大したことでは、僕の感情は揺らがない。
しかし、祖父の言葉の意味を訓練期間中に知ることはできなかった。
目の前で、食事をするグレーボヴィチ教官も、感情を保つ真意を訓練生に教えることはなかった。
「美味しかった」
アリスがそう答えたとき、僕もご飯を済ませていた。
お会計を済ませてくれたグレーボヴィチ教官が、僕に目配せをする。
ミサさんとアリスを、レストランの前で待たせながら、グレーボヴィチ教官は二人から離れた場所で、僕に告げる。
「あのお嬢ちゃん。感情が傾いた場所に遭遇したそうだ。
君も気づいただろう?公園で会ったときから様子がおかしいことに」
ええ。僕は返事をする。
「戦場で、感情が傾いたときにどうやって対処をすればよいか。君も習っただろう?
今回は、そのケースには、当たらないが。
話を聞いてあげなさい。君の大切な人だろう?」
グレーボヴィチ教官はそう言い残し、僕の返事を聞く前に、彼女たちのもとへ戻っていった。
列車の出発時刻が近づき、僕達は列車の停車する駅へと向かう。
帰り道、ミサさんは、アリスのおしゃべりに付き合いながらも、アリスに心配をかけないように平然な表情を浮かべていた。
僕は、足を進めながら考える。
ここまで、彼女のことをまじまじ見たことはないと。
笑うときに上がる頬と口角。
目を細めて、優しく笑いかける表情。
意識せずにアリスと歩幅を合わせる気遣い。
そのときに感じた優しさは、最初に貴婦人を助けたときそのものだった。
家族の中で生まれることのなかった感情の機微に、ぼくは集中する。
なぜ、君は自らを危険に晒して、人を助けるのか?
なぜ、君は困っている人がいたら、手を差し伸べずにはいられないのか?
なぜ、君は自分が困ったときに、人を頼らないのか。
家族や軍隊でも、彼女のような人とは出会わなかった。
そして、思う。
彼女は、本当に、僕なんかの助けを必要としているのか。と。
実は、なんでも自己解決できてしまう人ではないのかと。
軍隊では、医療行為は、戦力を維持するという目的のためであり、決して、助け合いで行っているわけではかった。
助けても、無駄な人は助けない。
助けても、役に立たない人は助けない。
居なくなると、戦力の損失につながるものは助ける。
助けて、復帰できる見込みのあるものを選んで、助ける。
彼女は、なにも選んでいない。
彼女は、何も考えず、人助けをしている。
でも、助けられなかったら、彼女は、きっと己の力不足を後悔するだろう。
そして、悩むだろう。
助けるのをやめれば、彼女は、自分の下した判断に対して後悔するだろう。
彼女は、助けたことで、その生に対して責任を背負うだろう。
助ける行為は、それほど、難しいことなのだ。
自己犠牲が付き物なのだ。
助けたいという感情は、身を滅ぼす毒なのだ。
どちらに傾いても、選んでも、毒になり得る。
彼女は、この時代とマッチしていない。
相性が悪い。
きっと、灰色の心が。
両親のような冷徹な視線が。
この時代を生き抜くためには、必要なのだ。
それが、この時代の処世術なのだ。
僕が、彼女を待ち受ける運命に対して、悲観した頃。
列車内で僕が、自分の席に向かおうと別れを告げると、アリスが言う。
「マサト。一緒にいなきゃ、嫌だ。」
アリスは、僕の服の袖をぎゅっと握りしめる。
「はは。まぁ、仲良くやるんだよ。」
グレーボヴィチ教官は笑って、この場を去り、僕の隣に立っているミサさんもニコニコしながら僕に話しかける。
「マサトくん。アリスちゃんに好かれてるね。」
そう言われ、苦手ながら、僕はアリスに話しかける。
「じゃあ、僕といっしょに寝る?」
僕はアリスと目を合わせて、その真意を確かめようとした。
しかし、アリスは首を振った。
「ミサとも一緒に寝たい」
アリスはミサさんの服の袖も掴んで離さない。
寝たいって。
それは、まずいんじゃ。
僕は、困惑する。
ミサさんの表情を確かめると、やっぱり苦笑いしている。
それは、そうだ。
この2,3日で会った仲で、一緒に寝床を共にするなんて、さすがに彼女も困惑するだろう。
僕なんて、助け合っただけであって、過去も知らない。
見ず知らずの他人なのだから。
もちろん、
長距離走行を行うこの列車は、座席だけではなく、もちろん寝台も用意されている。
しかし、用意されている寝台は、列車の幅の制約で、一人用、もしくは少し大きめの二人用が限界だった。
アリスは、交互に僕達の顔を見つめて、必死に腕を降ってアピールする。
「一緒がいい。一緒じゃなきゃ寝れない。怖いの」
泣きそうになる表情を浮かべて、ミサさんに抱きつくアリス。
アリスは僕の袖を握る力を強めた。
ミサさんは、落ち着かせるようにアリスの頭をなでながら、答えた。
「うん。いいよ。」
そして、いつかのように、自分の耳を真っ赤にして、
僕の顔を見て、恥ずかしそうに、こう付け加えた。
「マサトくんが、よろしければ。」
***********
よいしょ。
寝間着に着替えたミサさんが、隣でアリスを寝かしつける。
結んでいた髪の毛をほどき、甘い匂いが個室に漂う。
普段は厚着で見えることのない肌着が服の隙間から、ちらりと見え、
僕の心はざわつく。
僕は、そんな気持ちを隠すように、列車内に用意された毛布をアリスの体に被せる。
「ありがとう」
アリスは、眠い目をこすりながら、僕に言う。
「ゆっくり休んで」
僕は、アリスを落ち着かせるように彼女の髪を撫でる。
アリスは、さきほどの取り乱した様子から、少し安堵をしたのか、気持ちを落ち着かせていた。
僕は親代わりには、なれないかもしれないが、せめてもの気持ちで、アリスに寄り添った。
アリスの体温は徐々に上がっていき、自然と眠りに落ちる。
ちょうど、
就寝の時間になったのか、列車内が暗くなった。
しばらく、光の加減になれるのに時間がかかり、僕の視界も暗闇に落ちる。
僕は、アリスが急に目が覚めても怖がらないように、しばらく、アリスの頭に手を添えていた。
アリスの髪越しに体温を感じる。
池に突然落ちたときは、驚いたな。と回想しながら、ひとまず無事に、気分転換をしてこの場所に戻れたことに安堵する。
まだ幼い輪郭に、芽生える心を抱えながら、僕はアリスが無事に生き抜くことを祈る。
そのとき、ふと、僕が触っていた場所に冷たい手が触れた。
あ。思わず、相手の方から声が漏れる。
「ごめん」
声が聞こえる。
「まだ目が慣れてなくて」
相手は、アリスを起こさないようなひそひそ声でそう言った。
「いや。僕の方こそ」
僕はそう言って、すぐに撫でていた手を離す。
「マサトくんの手。暖かいね」
ふふっと笑ってから、アリスを介して、ヒソヒソ声で話を続ける。
「私の手じゃ、冷たくてアリスちゃん起きちゃうよね」
僕の目も次第に慣れてきて、彼女が僕の方を見ながら喋っていることがわかった。
「今日は、ありがとう。ほんと。ずっと、頼りっぱなしだね」
僕は、その反応に戸惑う。
君は、ずっと一人で頑張っているではないかと、僕は思い返す。
「公園でも、急に泣いちゃってごめん。なんか、ずるいことしたよね。私」
なにがずるいのか。
「旅は道連れ世は情けって言ったけど、いつか、マサトくんにお返ししないとなぁ」
「お返しって」
僕は、つい、反論するようにそうつぶやく。
「あ、いや。。そんな私じゃ。大したお返ししてあげられないけど」
ミサさんは、慌てた声色でそう返事をする。
「いや、そういう意味じゃなくて、お返し。要らないよ」
僕が、気を使ってそう答えると、ミサさんは、そう?と、なぜか声のトーンを少し落した。
僕は、その仕草にフォローを出すつもり付け加える。
「十分。頂いてるよ。一人の旅路がこんなことになるなんて思わなかったし」
「ほんとうに、そうかな?」
ミサさんは、半信半疑のようだった。
「そうだよ。一人で過ごしていたら、きっと窓辺を眺めるだけの旅だったはずが、君やアリスと話しているだけで、楽しい気分になるし」
「それは私もだよ。」
ミサさんが、楽しそうに笑う。
そのとき、んん。と、アリスの寝言が聞こえた。
僕は暗闇の中で、ミサさんと目があったような気がして、少しドキッとした。
「起こしちゃうといけないし、もう寝よっか」
ミサさんはそう言うと、アリスの横に寝そべる。
アリスを挟んで、僕も横になった。
アリスの寝音が聞こえる。
たくさんのことが一瞬のうちに過ぎ去った一日のはずだ。
親とはぐれ、僕達と食事をする彼女の姿を思い浮かべる。
この年齢で、親とはぐれた、きっと辛いはずだ。
この夢が覚めたあとに、すべて幻であったと思いたいに違いない。
僕は両親の存在が、決して良いものだとは思えない。
それが、僕の心を育てたとは思わない。
でも、僕をここまで、育ててくれた事実は変わらない。
しかし、彼女は、生きるためのレールを今朝の事件で失ってしまった。
そして、この家族ごっこには、終わりがある。
ミサさんは、家族に会うまでの間。
僕は、戦地に赴くまでの間。
彼女の将来を保証するものは何もない。
これから、どうするのか、彼女と相談する日が来るだろう。
助けた結果に対して、責任を負う。
その決断の日が、責任を負う日なのだと、僕は思う。
僕が、物思いにふけていると、誰かが動く音がして、アリスを挟んだ場所にいる
ミサさんがムクッと勢い良く起き上がったことに気づいた。
ミサさんは、そんな自分に驚き、周囲を見渡すと、隣りにいるアリスが寝ていることを確認して安堵する。
額に掻いた汗を拭うと、溜息をつき、ミサさんは寝台を降りて、個室を出ていった。
「あのお嬢ちゃん。感情が傾いた場所に遭遇したそうだ。」
グレーボヴィチ教官が、僕に耳打ちした言葉を思い出す。
ミサさんは、思い出したのだろうか。
記憶の中で、トラウマが現実になったのだろうか。
僕は、
****
ミサさんは、誰もいないちょうど、寝台列車と客席をつなげるための車両にいた。
トイレと廊下しかない車両に備え付けてある廊下側の窓で外を眺めながらため息をつく。
僕は、寝台から持ってきた毛布をミサさんの薄着を覆うように肩にかける。
「あっ、ありがとう」
ミサさんは僕がついてきたことに驚き、肩にかけられた毛布を握ると反射的に反応する。
「ごめんね。起こしちゃった?」
ミサさんは、肩にかかった毛布で暖を取りながら、僕に話しかける。
「いいや。僕もちょうど眠れなかったんだ」
僕は、ミサさんの横に並んで、一緒に窓の外を眺める。
いつかの日と同じ、今日も星空の夜だった。
寒い廊下は、焚き火こそ焚かれてはいなかったが、自然と僕たちの会話が進む。
「なにかあった?僕とアリスがいない間に」
僕は、ゆっくりと、そっと彼女に問いかける。
彼女の身体が、その言葉に反応して少し揺れる。
そして、少し躊躇った様子を見せると、彼女は答える。
「なにも、ないよ。なにも」
彼女は、答えない。
星空を眺めていた視線、窓の縁にそむける。
僕は次の言葉を発することに躊躇した。
彼女がきっと、僕にも同じ思いをさせないがために言葉に発さないことをうすうす感じたから。
記憶は、染み付く。
記憶と感情は夢で連動する。
きっと彼女はそれを恐れていた。
自分が、こんだけ眠れないくらいに苦労していることを相手にも強要してしまうことが。
直接、体験するわけではないが、怖い話をして、眠れないのと同じで、それくらい人の体験に紐付けた物語は感情を支配する。
だから、僕は、次の言葉をかけるのを辞めた。
誰も通らない、数個の電球で灯された廊下で、彼女の背中に手を回して、優しく、心を落ち着かせるように手を添えた。
そして、彼女に寄り添うようにもう一度。
寄り道をするように言葉をかける。
「感情は、劣化するんだ。辛いものを食べて自然と慣れるように。感情はだんだんと刺激に鈍感になるんだ」
「え?」
彼女は、僕の発言に驚くように、その意図を確かめるように聞き直す。
「最初、出会った頃。少し話をしたと思うんだけど。僕は軍人なんだ。
今日、たまたま、公園であった人は、実は僕の教官。
だから、ちょっとや、そっとのことじゃ。僕の感情は傾かない。揺れ動かない。」
僕は、淡々と話を続ける。
「だからね。その。。辛いことがあるなら、抱え込まずに話してほしいんだ。
きっと、ミサさんの気持ちが楽になると思うから」
僕の問いかけに彼女は戸惑う。
「でもそれは。そう。まるで犯した罪を共有するようで。秘密を共有するようで。きっと、マサトくんに負担がかかっちゃうと思う。怖い話とか嫌でしょ?」
ミサさんは、笑う。
「大丈夫だって。怖い話ももちろん平気だよ。
甘く見てもらっちゃ困るなぁ。怖い体験は一杯してきたから。
だから心配しなくていい。
それに。秘密は共有するものでしょ?付き合ってるんなら。」
僕は冗談交じりにそう言って、彼女に笑いかけた。
「そっか。そうだったよね」
ミサさんは毛布の隙間から、くすっと笑って、僕を見つめる。
「一番、印象に残っているのは何?」
僕は、全体像ではなく、なるべく辛い部分のタンスの引き出しをあけるように問いかけをすすめる。
「男の人の感情が傾いて、肉体が破裂した記憶」
彼女は、言い淀みながら、続ける。
「まだ、感覚が残っているの。肉片が飛び散る感覚。床に落ちる音。死ぬ前の男の言葉が」
彼女は話しながら、目をつむり、身体を震わす。
僕は、落ち着かせるために、彼女の冷たい手を握る。
「男は、死ぬ前に何を言ったの?」
「”お前の今、感じている恐怖は、どちらに傾いている?”って聞かれた」
どちらに傾いてる?
男は、何が知りたかったのだろうか?
どちらという、方向が重要なのだろうか?
それとも、わざわざ恐怖と限定をかけているのが気になる。
「ほかに、印象に残ったことは?」
「白装束の20番さんは、胸から血を流して倒れたの。私より先に出口に立ったせいで、真っ先に刺された。」
「犯人の格好は?」
「黒髪のパーマかかった人」
そう言われて、僕は、白装束の人が応対していた人だということに気がつく。
「今、一番気にしていることは?」
「私も、あの男と同じように感情を傾けたら、肉体が破裂してしまうんじゃないかって思うと、怖くて」
なるほど。
僕は考える。たしかに、先日の感情が傾いた人が目撃されないままの恐怖と、感情が傾いた人がどうなるのか知ったあとの恐怖では、種類は違うが、たしかに恐怖を感じる。
しかし、その恐怖が必要以上に彼女の行動に対して、首を絞めているようだった。
そして僕は、こう答える。
「それなら、心配しなくても良い。人は感情が傾いても、破裂なんかしない」
僕がこう言うと、彼女は、驚いた顔で僕を見つめる。
もちろん、嘘だ。
僕は、人の感情が傾いたらどうなるのか、知らない。
しかし、必要な嘘もあると思った。
アリスに、彼女が嘘をついたように、僕が彼女に嘘をつくのも、全ては彼女を守るためだった。
そのための、嘘をついた責任の為に、僕の感情が揺れたとしても、彼女が救えるなら喜んで、痛みを受けよう。そう思った。
「そういえば、懺悔はできたの?」
僕は、気分転換に話題を変える。
「あ。うん。できたよ」
ミサさんは不意打ちに感じながらも答える。
「懺悔って、何をするの?」
ミサさんは、しばらく悩んでこう答える。
「うーん。今みたいに、話を聞いてもらうだけかな?私が言葉に発することで、気分を解消するのが目的かな」
彼女は笑う。
「じゃあ、少しは、楽になってもらえたかな?」
僕は、彼女に笑いかける。
「うん。もちろん。ありがとう」
そう、僕に返事をする彼女は、いつもどおりの笑顔に戻りかかっていた。
僕は、その表情を見て安堵する。
しばらく彼女は、僕の手を両手で握り直して、震える手を抑える。
彼女の冷たい手は、徐々に僕の体温が伝わって、温まりかけていた。
何も言葉を交さなくても良い。
無理に盛り上げる必要はない。
ただ、僕がそこに居ることで、彼女が少しでも安心してくれれば良いと。そう思っていた。
「ねぇ。マサトくん」
しばらく、間をあけて、彼女が口を開いた。
「あ、あの。。ね」
彼女は落ち着いていた唇を、また震わせて、続きの言葉を発しようとする。
身体をしどろもどろさせながら、僕と目を合わせる。
いつもより、彼女の瞳が大きく見えて、黒目から反射する僕の姿が映り込む。
「ありがとう」
その言葉を大事に噛み締めながら、彼女は口にする。
「どういたしまして」
僕は、その言葉を受け取って、丁寧に言葉を返す。
しかし、彼女は、申し訳無さそうに苦笑いする。
「ごめんね。こんな言葉しか返せなくて。
私。こういうとき、どうやって感謝すればいいのか。わからないんだ」
彼女の過去は知らない。
だけど、彼女ももしかしたら、僕と同じように感情に不自由なのかもしれない。
そう感じた。
「ちゃんと言葉にせずに、こういうことをするのは、正しいことなのかわからないんだけど、私の身体が、そうすべきだって言ってるの」
彼女の頬が赤くなる。
それが、列車内の寒さのせいか。
感情の高揚のせいかは、分からなかった。
彼女はそう言って、僕と向き合って、その距離を縮める。
そして、ゆっくりと、僕の胸元に頬を近づけて、白い吐息を吐く。
「どうしたら、この気持ちが伝わるかわからないけど、マサトくんとの距離が少しでも縮まれば良いなって。思ったの」
彼女は、不器用ながら、気持ちを伝えようと言葉を慎重に選ぶ。
「お前は、いつも不器用だ」
父の言葉を思い出す。
でも、丁寧に自分の気持ちを自分なりに解釈しようとする彼女の姿を見て、僕はそれでも良いと思えた。
心臓の鼓動が高鳴る。
彼女にも聞こえてるのだろうか。
感情の揺れ動きは、網膜につけているセンサーでは、すでに判断ができない。
彼女の表情は、読むことができず、僕は、どんな言葉を返してあげたら良いのかわからなかった。
「もし、嫌だったら断ってもらって、良いからね」
彼女はそう言って、僕の胸元から顔を離し、少し背伸びをする。
そして、そっと僕の頬に唇を近づけて、優しく触れた。
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近況ノートにあとがきを書き始めました。
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