第6話 高揚する心

 胸の高まりが収まらない。


 なぜ、あんな行動をしてしまったのか。


 誰もいない静かな寝台列車と客席をつなげるための木目調の空間。

 夜になって冷える窓辺と白い吐息。 


「ありがとう」

 私が口ずさんだその言葉は、何故か彼には届かず、宙を舞うような感覚がした。


 彼の表情は、どういたしまして。と言いつつも、どこか、私の視線の先を見ているようで、なんだか落ち着きがない。


 私は、今の感謝の気持ちをどう伝えたら良いのか。分からなかった。


 私の記憶の情景を口伝することの重みは、現代では罪深い。

 それは、自分の身体が大人になっても、いくつになっても、嫌な記憶として、夢の中で追想されるから。


 彼は、追想による呪縛を、私を救うために、許容してくれた。


 一生、背負わされる記憶を、私と共有してくれると言った。


 だから、普段口にする。「ありがとう」の言葉では、足りないと思った。


 だから、戸惑う彼を見て、謝った。「ごめんね。こんな言葉しか返せなくて。」と。


 私は、こんな気持ちになったことはない。

 どうしようもなく。こんなにも、人の優しさを噛み締めたことはない。


 ありがとうと。言いながらも。

 申し訳ないと思いながらも。


 嬉しかったのだ。



 教会の白装束の修道士は、人への想いを捨てたと言った。

 そのほうが、なにも考えずに済むから。と。



 あの人も、一度は体験したのだろうか。

 この胸の高まりを。



 生命は不思議だ。

 誰にも、一度も教わったことがないのに。


 まるで、もともと組み込まれた機械式の装置が動き出したかのように。

 心臓の心拍数を上げる。


 この寒さを、感じさせないように。

 体温が、温もりへと昇華していく。


 感情の高揚は、間違いなく起きていた。



 私達に刻み込まれたDNAは、生命を繋げる役割を果たそうと、本能的に私の理性と主導権を変わって、勝手に動き出す。


 私は彼と向き合って、ゆっくりと、その距離を縮める。


「もし、嫌だったら断ってもらって、良いからね」



 私はあの時、彼の頬に口づけをした。



 本能のままに。

 まるで、こうすることが正解だと。

 誰かに導かれるように行動した。



 その時は、これが一番、最善な方法だと思っていた。


 そう、気持ちが持続して、高揚している間は、それでよかった。



 もう一度、教会の白装束の修道士の言葉を思い出し、自覚する。


「もし、見えない力を感じたときに、逆の力を働かせることをオススメします。」

 見えない力とは、このことだったのか。



 私は、トイレと言って、立ち上がったマサトくんの背中を目で追う。


 隣の席で、アリスちゃんは目をパチパチしていた。


 マサトくんは、ここ数日間、明らかに様子がおかしかった。


 彼と目を合わせれば、なぜか、視線をすぐに逸らし。

 窓を眺める彼の表情もどこか遠い場所を見ているようだった。


 何日も、同じだった。


 そして、その仕草を目にする度に心が少し痛んだ。


 なんで、あんなことしてしまったのだろう。

 私は思い出しては後悔を繰り返していた。


 教会の白装束の修道士は言った。

「感情にとっての一番の害悪は、異性だと思っています。」と。


 これが、言っていた綱渡りしている状態か。


 私は、両手で顔を覆う。


 そして、自分の温かい顔とは、真逆に冷たい手の感触を感じて、

 ふと、我に返る。


 思わず、心の中で呟いてしまう。



 ”何してるんだろう。私。”




 ***

 列車は、カタカタと音を立てて進む。

 私の悩みなど、気にすることなく、淡々と目的地へ向かって突き進む。


 規則正しい音の中に、時折、石ころを挟んだような音を立てながら、脇目も振らずに進んでいく。


 そんな物音にボーッとしながら、窓の外を流れる景色を眺めていると、向かいの席から、落ち着いた声がする。


「お嬢ちゃんは、どこまで、行く予定なんだい?」

 公園で私を助けてくれた老人・グレーボヴィチさんは、私に声をかけてくれた。


 グレーボヴィチさんは、わずかに口角をあげて、場をなごませるような雰囲気を作り出す。

 ベンチで、話しかけてくれたときもそうだった。


「私の家族がいるので会いに行く予定なんです。年齢が近い、弟がいて、その。すこし体調が悪いと聞いて、様子を見に伺う予定です」


「駅名は?」


「エルブルース駅です」


「では、次の駅か。まさか、最終駅の手前がお嬢ちゃんの目的地だったとはね。」

 グレーボヴィチさんは、あごひげに手を当てながら、よそ見をしながら、考え事をする。



 続けて、話を続けようと、口を開いたグレーボヴィチさんの声を遮って、ずっと、気になっていたことを問いかける。


「教官だったんですよね。。。?彼は。

 マサトくんは、どんな人だったんですか?」

 私がそう問いかけると、グレーボヴィチさんは、重々しく、口を開く。


「一言で言えば、優秀だよ。

 筆記試験も、実技試験も。

 コツをつかむのが早かった」


 想像はつかないけど、きっと大変な環境なんだろうと私は想像する。

 あまり、詳細は知らないけど、軍の人の大変さは。

 めったに家に帰ってこない父の横顔が思い浮かぶ。


 いつもふざけたことを言って、和ませてくれた父親は、

 時折、一人でいるときに、怖い表情を浮かべる。

 子どもの頃に受け取った印象は、あまり良いものでは無かった。



「すごい人なんですね。」

 でも、私が知りたいのは、そんなことではなかった。


 彼の人間性。

 彼を育てたルーツを知りたかった。


 しかし、どんなふうに聞けばよいのかと、迷っていると、次は、グレーボヴィチさんのほうが、話を続ける。


「お嬢ちゃんは、戦場において一番大切なものは、なんだと考える?」


 唐突な質問だった。

 グレーボヴィチさんは、時々、不意をついた哲学的な質問をする。

 さすが教官さんだな。と感心しながらも、私もその問いかけに一生懸命に反応してみせる。


「冷静な判断力、でしょうか?

 やはり、いろんな情報を受け取って、判断することも、大事でしょうし」


「違う」

 そう返事するグレーボヴィチさんの瞳は、ただの優しい老人ではなく。

 教官そのものだった。


 私は、なんとか当てようと頭を巡らせて、返事をする。

「武器の使いこなしですか?相手より、素早く攻撃をするとかでしょうか?」


「違う」

 そして、グレーボヴィチさんは、私と目を合わせながら、続けて回答する。


「感情を保つことだ」

 それは、私が先程から、悩まされていたワードだと思いながらも、そう聞いたとき、戦場において、一体、なんの意味があるのか。すぐには理解できなかった。


 そんな私を置いて、グレーボヴィチさんは、話を続ける。

「感情を保つことは、頭脳を鍛えても、筋肉をトレーニングしても

 身につくものではない。


 先天的なものだ。


 大勢の敵を前にしたときに、極限の状態で、感情を保てることは、状況を打破する鍵となり得る。」

 グレーボヴィチさんの言葉に力が入るのが伝わる。


 数日前、夜になって冷える窓辺でマサトくんが、私に話したことを思い出す。


 ”最初、出会った頃。少し話をしたと思うんだけど。僕は軍人なんだ。

 だから、ちょっとや、そっとのことじゃ。僕の感情は傾かない。揺れ動かない。”


 感情が傾かない。と、彼は確かに、そう言っていた。


 しかし、それを決して誇らしげに語ってはいなかった。



「だが。」

 グレーボヴィチさんが、そう言葉を濁らせて、話を続ける。


「世界がもっと、単純なら良かったんだ。


 感情を保てる人が、すべてを手に入れるような、単純な世界だったら、彼はすべてを手に入れることができただろう。


 でも、世界は複雑だ。


 自動車がすべて、電気自動車になったからと言って、エネルギー問題が解決するわけではないし、第2の居住可能惑星が見つかったとしても、地球の問題が解決するわけではない。

 問題は、根本が解決されなければ、もぐらたたきのように、躊躇なく発現する。


 感情を保てることによって、確かに、強さを手にした。

 が、手に入れたのは、強さだけだった。

 それが、霧島マサトという男だ。


 だから、驚いたよ。彼が、お嬢ちゃんと知り合いで、アリスという子どもも一緒に、いると知ったときは。彼にもこんな一面があるのかとね。


 うーん。すこし話がそれてしまったかな?

 つまり、


 ここ最近のお嬢ちゃんは迷っているように見える。


 彼と、どう接すれば、良いのか。その距離間を」


 グレーボヴィチさんは、手に持っていた湯気の立ったコーヒーに口をつける。





 数日間のうちに列車は、みるみる北上し、遠かった山脈がどんどん大きくなっているように見える。


 周囲は次第に雪景色になっていた。針葉樹は雪をかぶり、太陽の光は、白い雪に反射する。


 ふと、隣を見ると、アリスちゃんは、退屈そうに、曇った窓ガラスに落書きをしていた。


 なんの絵だろう。


 グレーボヴィチさんは、乾燥して乾く、口の中を潤わせながら、話を続ける。


「北半球ゴリドア山脈・紛争撲滅部隊それが、霧島マサトの所属部隊の名前だ。」

 グレーボヴィチさんは、まさに、その姿を現しつつある山脈の名前を呼ぶ。


 列車の行き着く先で、どのような紛争が起きているのだろうか。


 ニュースで一度は聞いたその言葉を、頭の中で反復する。


 "人類は今世紀で戦争行為を撲滅することに成功し、残すは最後の紛争だけとなった。"


 その歴史で習ったような最後の紛争は、いつ収束するのだろうか。




 私は、気になって質問をする。

「あまり、戦況のことは、聞かないのですが。というより、耳にしたことが、お恥ずかしながら、無いのですが。現在は一体、どんな状況なのでしょうか?」


 グレーボヴィチさんは、私が質問すると、私の予想とは真逆に彼は、ものすごく、難しい表情をした。


「あまり、質問に質問で返すのは、真正面から、答えられていないようで、申し訳ないのだが、老人の戯言だと思って、質問してもよいか?」


「はい」


「お嬢ちゃんは、それを聞いて、どうするつもりなのか?」


「どうするって、聞くのはダメなんですか??」

 私は、これから、彼が行く場所が、どんなことになっているのか知りたくて聞いた


「では、知ってどうする?

 そこが、危ないと知れば、彼を止めるのか?

 危なくないとわかれば、安心して、送り出すのか?」



「いえ、そういう意味で言ったわけでは。」


 私は、息を吸って、しっかりと言葉にする。


「マサトくんには、生きてて欲しくて。生き続けてほしくて。

 もちろん、これがマサトくんの志願したことだから、止めるつもりはないです。」


「そうか。」

 グレーボヴィチさんの瞳は、私を見据えてこう言う。


「普通の人間は、この話をすると、ある一定の反応をする。

 なにか、反射的に、言葉を発して、哀れむ。

 優しさに、報おうとしているのか。

 ただ、同情するだけなのか。


 意地悪な話をしたね。


 お嬢ちゃんは、反射的に動いているわけではない。

 しっかり、彼のことを考えて動いている。


 そのままでいいんだ。恋は悩んだほうが良い」

 グレーボヴィチさんは、くすっと笑う。


「んなっ」

 私は、一生懸命、話した後に、足をすくわれたような気がして、

 思わず声がもれる。


 顔が熱い。

 横にいるアリスちゃんが、今の話を聞いていなかったか、気になって

 振り向くと、

 アリスちゃんは、唇に指を一本立てて、楽しそうに笑っていた。


 私は、なぜだかそんな、おとぼけた雰囲気に無意識に力んでいた肩の力が自然と抜ける。


「結局。戦況は、教えていただけないんですか?」

 私は、強引にグレーボヴィチさんが脱線させた話をもとに戻す。


「うむ。正確に言えば、これは、知っていても話せない内容なんだ。

 力になれなくて、すまぬな。

 でも、これが一番、待つものの不安が和らぐ方法だ。

 許してくれ」


「そうですか。」


 私の不満そうな答えに、グレーボヴィチさんは付け加えて話す。

「お嬢ちゃんは、いろんな一件もあって、心が少し強くなったと思う。

 だけど、ここの乗客のほとんどは、戦場をしらないんだ。


 ましてや。世界を知らない。

 彼らは、鳥かごに守られている。故に。


 条件反射的に、感情が傾けば、慌て。感情が保たれれば、心を落ち着かせる。

 そう。


 目の前の振り子を見ながら、その様子に変化がないか、確かめるのに必死なんだ。

 だから、その周りのことなど、視界にも入れない。


 お嬢ちゃん以外の人には、耐えられないんだ。その事実に。」


「あっ」

 私達が、話を続けていると、何かに気づいたアリスちゃんが先頭の座席に指を指す。


「ん?」

 私は、その反応が気になり、マサトくんが来たのかと思って、急いで口を閉じた瞬間。


 列車の動きが急に止まり。

 私とアリスちゃんは、勢い余って、立ち上がって、グレーボヴィチさんの方によろめいた。



 ***


「なんだ」

 低く切迫した声が、耳元で響く。


 列車内を数人が駆け回る音がする。

 私が顔を上げると、赤色で装飾された軍服が目に入る。


「そのまま、席に座っていてください」

 若い軍人の声が、乗客に呼びかける声が聞こえる。


「ああ。やっと来てくれた」

 つい数日前に相談に乗ってくれた車掌さんの姿も奥の車両を歩いているのが確認できた。


「アリスちゃん。怪我ない?」

 私は、状況を確認しながら、一緒に急停車した車両に煽られたアリスちゃんの様子を確認する。


「うん。怪我してない」

 アリスちゃんは、グレーボヴィチさんが体で受け止め、どこもぶつけた様子はなかった。


 グレーボヴィチさんもその様子を確認しながら、状況を確認するために、立ち上がり、周りを見渡し、歩き回っている若い軍人に声をかける。


「君、どこの部隊の者だ?」

 2,3席奥にいた軍人がこちらを振り返り、返事をする。


「ハッ。エルブルース駐屯基地の北半球ゴリドア山脈・紛争撲滅部隊所属の上等兵であります。

 あ。え。。

 もしかして、グレーボヴィチ教官でしょうか?」

 女性らしい胸元に星3つの勲章をつけた、気難しい表情を浮かべていた軍人の顔がほころぶ。


「わたしです。ヒイラギです。以前、訓練兵の時代にお世話になりました。」

 ヒイラギと呼ばれる軍人は、礼儀正しく、グレーボヴィチさんにお辞儀をする。


「うむ。今、どんな状況だ?」


「ハッ。数日前に、この列車内で、いきなり乗客が暴れだしたとの連絡が入り、状況を確認に伺った次第であります。」


「なぜ、急停車することになった?」


「理由はまだ、定かではないですが。とにかくこの地点で、停車しているので、救援に伺えと、指令があったものですから。。

 軍用機で、こちらに数人の兵士が到着したところであります。」

 ヒイラギは、列車の外に静音で浮遊している無人浮遊器官を指差す。


「グレーボヴィチ教官は、なにか、ご存知ではないですか?

 車両で起きた事件について。」


 グレーボヴィチさんは、ヒイラギが、己の拳を握りしめ、身につけた白い手袋が微かに擦れる音を気にしながら、彼女から目をそむけずに返事をする。

「数日前に、感情の傾きが生じた。

 網膜のセンサーが反応し、状況を確認しに伺ったが、感情を傾けた本人は見当たらず、対処することができなかった」


「対象の人数は?」


「未知数だ。このセンサーは、人数や方向まで把握することはできない」

 グレーボヴィチさんが当然のようにそう回答すると、ヒイラギは、歯を噛み締め、苦い表情を浮かべる。


 グレーボヴィチさんは、静かに座席から立ち上がり、ヒイラギの肩に手を置くとこう告げる。

「そう焦るな。感情の傾きは、一つの現象に過ぎない。

 君は若いから、以前の世界を知らない。故に、そう躍起になってしまうのは仕方がないことだが、感情が傾いたとき、重要なのは、その方向性だ。

 どちらに傾いたかが重要なのに、このセンサーは敏感であるがゆえにポンコツなシステムだ」

 グレーボヴィチさんは、溜息をつく。


「このチームの指揮は誰がしている?」


「ハッ。ルーカス兵長であります。」


 あいつか。。と、めずらしくグレーボヴィチさんは、頭を抱える。

「わかった。話をつけてくる。どっちの車両にいる?」

「あちらです」

 グレーボヴィチさんが、前方の車両に向かう。


 私は、グレーボヴィチさんの様子に普段とは違う張り詰めた緊張感を感じながら、その背中から、ヒイラギと呼ばれていた女性の上等兵に視線を移す。


 彼女は、グレーボヴィチさんと同席していたアリスちゃんに声をかける。

「怪我はない?」


「うん」

 アリスちゃんは、突然声をかけられ、驚きつつも、小さな声を出して頷く。

 彼女の優しげな眼差しは、私の方にも向けられる。

 甘い香りがする。


「あなたは、大丈夫?」

「はい」

 私は、少し緊張しながら、おそらく聞かれるであろう質問に用意していたような返事を返す。


 そして、ずっと気になっていたこと。

 彼女が私達に笑いかけて、ここを立ち去る前に、話を聞こうと、思い切って口を開く。


「あの。ヒイラギさん。ヒイラギさんは、グレーボヴィチさんとお知り合いなのですか?」


「ええ。以前、訓練兵の時代にお世話になりました。大変、聡明なお方で、色々とご指南いただきましたよ。」

 彼女は、少し眉毛を上げて、私の問いかけに驚きながらも、優しい口調で応対する。


「その。。霧島マサトってご存知だったりしますか?」

 しかし、私がその言葉を発したとき。

 彼女の口調が厳しいものに急変する。


「ええ。知っていますよ。。霧島マサト。霧島マサト。

 一発殴ってやりたいくらいですよ。」


 彼女の返事は止まらない。


「あいつには、実力があるのになぜか、私より下の一等兵止まり。

 透かした感じが、むかつきます。なにを考えているのか。いつも表情は読めないし」

 彼女の言葉に、私も思い当たる節があって、少し笑いそうになる。


 やっぱり、そうなんだ。




「それに。。そうですね。は、はだかを見られたことがありました。

 最悪です。にも関わらず、あいつは、何も反応もなく。。」


「え、あ。は、裸体はだか?」

 私は、思わず、口元に手を当てて、叫びそうになる。


 隣を見ると、聞き耳を立てていた、アリスちゃんも同じ反応をしている。


「え、ちょ。あの。お二人は、どんな御関係で。。」


 と、そのとき、話を遮るように、コツコツと列車の床と微かに反響する足音が聞こえる。


 乗客のざわざわした物音から、突き抜ける足音。周波数の違うその音は、私達の耳にすぐに到達した。


 ヒイラギさんは、その足音の方向にすぐさま振り向き、目視で目標を捉えると周囲を気にせず、走り出した。


 まずい。

 私は焦る。さっきの話で鼓動する心を必死に落ち着かせながらも、彼を守るために叫ぶ。


「逃げて。マサトくん」

 久しぶりに彼の名前を口にした。


 その口の動きに懐かしさを覚え、ずっと動かしたがっていたことを知る。

 彼の名前の響きに、私の心は、また反応して、躍動する。


 周囲の乗客が急に走り出したヒイラギさんの行動にどよめく。

 ある乗客は、その様子を目で追い。

 ある乗客は、慌ててこれから、目にする光景から目を塞ぐように外を眺め始める。


 止めるものは、誰もいない。


 彼女は、その拳を振りかぶって、この車両に入り始めていた彼に向かう。


 その寸前。

 彼は、私の声に驚いて、え。と声を漏らす。

 一瞬、彼と目があった気がした。


 久しぶりに数秒、お互いに見つめ合った気がした。

 私は、どんな表情をしていたのだろう。


 驚きすぎて、みっともない表情をしていただろうか。

 変な髪型をしていなかっただろうか。

 いつもどおりの何も悟られないような表情を彼に向けられていたのだろうか。


 彼は、いつもより凛々しい表情に見えた。

 いつものクールな表情が崩れない程度に口を開けて、目の前の状況を把握しようとしていた。


 あっという間に時が流れるような、短いひとときに、彼の本領は発揮された。

 ありがとう。と彼の口元が動いたかと思えば、彼の視線は、私から彼女に目を据える。


 普段は、見せない。一段、変化したその表情に私は、少し手の震えを感じる。

 彼のつり上がっていた口角は、脱力し、目の前の対処に集中する。



 感情が平らになった。


 心拍のように時折、ピークが立つこともなく。

 さざなみのように、緊迫感が押し寄せることもなく。

 どよめく、乗客の声が、ノイズとなり、意識的に遮断される。



 瞬間。ヒイラギさんの振りかぶる拳が彼の目前に迫り、彼が反応しようとしたことを認識したヒイラギさんは、その拳の軌道をフェイントに変化させて、走り込んだ体の動きを利用して、軸足を使って体をよじり、回し蹴りを彼の頭部を狙って当てに行く。

 彼は、その動きを読んで、体幹をぶらすことなく、腕で回し蹴りを受け止める。


 木製の列車は、その動きに微かに振動し、窓枠がびびり、ガラスが木枠と接触し、振動音を立てる。


「くそ。かっこつけやがって。」

 そう言って、ヒイラギさんは、次から次へと、あの手この手で拳や足技を使って畳み掛ける。


「なんで、なんも言い返さないのよ。こんだけ、不意打ちで殴りかかっているのよ」

 彼女は、額に掻いた汗を拭う。

 攻撃をやめて、両手を握りしめ、両肩を上下させるように、吸えなかった息を吸う。


 そして、息を切らしながら、防がれたすべての攻撃を頭の中で反復しながらも、彼女は、問いかける。


「やっぱり、ムカつくわ。あんたの表情。その見透かしたような表情」

 彼女は、継ぎ接ぎつぎはぎの言葉を羅列して、その嫌悪感を伝える。


「訓練していたときからそうよ。なんで全力を出さないの。

 なにか、抑え付けるように、行動している。

 そのやり過ごしたような感じが嫌なのよ」


 そう言われて、マサトくんは、ようやく口を開ける。


「グレーボヴィチ教官に習わなかったか?

 感情を傾けるなって。

 君は、その真意を理解できていない」

 彼は、何かをさとすように、感情を落ち着かせたまま、彼女をなだめようとする。

 彼女と少しずつ距離を詰め、この騒動を抑えようとしている。


「なに言ってんのよ。私は、センサーに反応しない範囲で行動してるわ。

 それより、あんたのほうが可笑しいわ。

 この状況で、私が全力でやっているんだから、あんたも本気出しなさいよ。

 そんな、のらりくらりしてちゃ、生き残れないのよ。私達が向かう戦場は

 死ぬわよ。あなた。」

 彼女は、そう言って、彼の心を揺さぶるような言葉を並べる。


 そのときに、感じた。

 マサトくんと、彼女の関係性。


 距離間を。


 私より時間を積んだ、様々な経験を共にした距離間を。


 胸が少し痛む。

 ヒヤリと冷たいものが刺さるような感覚がする。

 その感覚は、じわじわとむず痒いように、私の胸に広がる。


 どこからか来たかわからない。

 どこが傷んでいるのかわからない痛みを抑えるために、私は震える手を自分の胸に当てる。


 服の上からじゃわからない。

 分かりようがなかった。


 皮膚の中。

 心臓と言われる体の中心が悲鳴を上げている。


 渦巻く負の感情に押しつぶされないように、必死に抵抗している。


 私からすると、到底追いつかないヒイラギさんの想いを見えない天秤で推し量って、自分の劣等性を感じる。


 敵わない。

 適わない。


 私は、こんなにも強く彼を動かそうとはならない。

 そんな度胸はない。


 この数日間。

 たくさん時間はあった。

 彼に話しかける時間はたくさんあった。


 だけど、話しかけようとすると、唇が動かず、心臓の鼓動がひたすらに邪魔をした。

 きっと、彼女のような強い想いがあれば、唇は動いたのだ。


 だから、自覚した。

 彼の隣には、違う人がふさわしいのだと。


 でも、そう考えれば、考えるほどに。私の身体は悲鳴を上げた。

 瞳から気づかぬうちに、涙をこぼしていた。


 目の前の視界がぼやける。

 うっすらと映り込む二人の姿。


 気づけば、マサトくんは、どこからか取り出した鉄の仮面を身につけていた。


「やっと、やる気になったのね」

 ヒイラギさんも、自らが所持していた伸縮式の形状記憶合金である仮面を取り出し、装着する。


 マサトくんは、何かを察したように、ヒイラギさんに向かって、飛び込む。



 ああ。あなたのそばに居たかった。


 あなたのそばにいるのは私でありたかった。




「ミサ。ミサ」

 隣で、私の肩をするアリスちゃんの声が遠くに感じる。


 気づけば、アリスちゃんの網膜は赤く染まり、まばゆい閃光が、外の雪景色が見えなくなるほどの光が、窓から差し込む。



「危ない。伏せろ」


 見知った声が、近くで響く。


 瞬間、列車を貫くほどの熱源が襲った。

 遠くにいても皮膚が焼けそうな温度だった。


「なっ」

 その熱源は、もともと、ヒイラギさんの居た場所を貫き、しばらく沈黙が襲った。


 マサトくんのおかげで、光線をかわしたヒイラギさんは、しばらくその状況に身動きを取れずにいる。


 その様子を見て、驚いた乗客は、次々と立ち上がり、我は先にと、この場を離れようとする。


「落ち着いて。伏せて」

 マサトくんの叫びも、ざわめく乗客には届かず、乗客は次々に冷静さを失い、感情を傾かせる。


 四方から降り注ぐ白い光。





 私の赤く染まった視界から見えた景色は、次々と天からの光線に狙い撃ちされる乗客たちの姿だった。







ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 近況ノートにあとがきを書き始めました。

 ぜひ、フォローしていただいて、読んでいただけたら嬉しいです(*^^*)


 最新話の先行配信も始めました。詳しくは、近況ノートをご覧ください。

 https://kakuyomu.jp/my/news/16816927860905423930




 いよいよ。第2章という感じです。くーぅ、書いてて楽しいぃ。。。


 新しいキャラ(ヒイラギさん)も登場しましたね。

 マサトとの過去が気になるところです。

 ヤキモチ焼いてるミサもこれからどうなるんでしょう。。。


 これからもよろしくお願いします!!!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る