第九幕

 

 

 新選組の屯所に着いた頃には、もう東の空が白み始めていた。

 近江屋にいた時間の長かったことに、伊織は少し驚く。

「高宮! 今までどこに……!?」

 思いがけず、門で山崎が待っていた。

「あ、山崎さん。どうしたんです、こんな時間に?」

 言いながら、伊織は山崎が自分を凝視しているのに気付いた。

 闇が薄れて、服や腕にこびりついた血痕がはっきりと判別できる。

 おまけに足は裸足のままだ。

「──何があったっ!?」

 山崎の顔色がサッと青ざめ、伊織の肩を鷲掴む。

 伊織は揺さぶられながらも、すっかり血相を変えている山崎を穏やかに宥めすかした。

「一応、話はつけてきましたから」

「話って、おま……っ! この血ィは何やっ!!」

 滅多なことでは動じない山崎が、珍しくうろたえている。それだけ、血痕は夥しかった。

「──坂本龍馬が暗殺されました。一応言っておきますが、私がやったんじゃないですからね」

 山崎が息を呑むのが聞こえた。

「坂本龍馬が……?」

 山崎は伊織の肩から手を放すと、改めてその格好を足元から嘗め上げ、中に入るよう促した。

「その話、詳しく聞かせてもらおか。ともかく着替えてこい!」


 ***


 身なりを改め、伊織は山崎と共に副長室を訪れた。

 昨夜遅かった上に夜も明けきらぬ時分に起こされ、土方は虫の居所が悪そうである。

「で? 報告ってのぁ、何だ」

 土方の問いに、まず山崎が答えた。

「高宮が言うには、昨晩、四条河原町近江屋で、坂本龍馬が暗殺されたらしいんですわ」

 やはり土方も少なからずこれに驚いた。

「本当なのか?」

 土方と目が合い、伊織は短く「はい」と肯定した。

「下手人は」

「私が行った時には、引き上げた後でした」

 実際に誰の犯行であったのかは、伊織にも確かなことは判らなかった。

「高宮の格好には、正直度肝抜かれたわ。血みどろでしてん」

 しかめっ面で土方に告げ口して、山崎はため息を吐く。

「詳細を話してみろ。まさかと思うが、無用な刃情沙汰を起こしちゃいまいな?」

 土方と山崎の二人に睨まれて、伊織は三条大橋から近江屋に至るまでの経緯を簡潔に報告した。

 慎太郎を必死に手当したことも、恐縮しつつ小声で語る。

「ほな、あの血ィは中岡のもんやねんな?」

 伊織は頷く。

「坂本龍馬はほぼ即死だったようです。中岡さんのほうは瀕死の重傷ですが、一命を取り留めています。……でも……」

 でも? と二人は先を促す。

「……恐らくは、中岡さんも……」

 それ以上は何故か口に出すことが出来なかった。

(──この後に及んで、まだ捨てきれないのか、私は)

 自分自身に無性に腹が立った。

 土方にそれを悟られまいと平静を装ってはいるのだが、慎太郎の運命はどうしても語れなかった。

「……そうか。しかし、こりゃあまた、思わぬ展開になったな」

 土方が伊織の言葉の先を読み、難しい顔で言った。

「伊東はこれで警戒するんとちゃいまっか」

「いや、それはどうかな。奴は矜持の高い男だ。この程度で怖じ気づくとは、俺は思わんが」

「伊東はそうでも、周りのモンまでそうとは限らんと思いまっせ」

 土方と山崎の話は、既に十八日に予定している伊東甲子太郎暗殺の件に推移していた。

 その切り替えの早さに伊織は多少困惑したが、すぐにそれもそうだと考え直した。

 今、土方らが目前にしているのは伊東一派を粛清することであって、必ずしも坂本・中岡暗殺事件が一大事ではない。

(動揺してるのは、私だけか……)

ほんの僅か、疎外感を覚えた。

「局長とはもう一度話してみよう。だが、計画は実行するつもりだ。山崎君、君は伊織に変わって坂本暗殺が誰の仕業か、それとなく調べておいてくれ」

「わかりました。ほな、これで」

 言って山崎が立ち上がったので、つられて伊織も立ち上がる。

「伊織、おめぇは残れ。話がある」

 土方に止められて、素直にその場に座り直した。

 また怒られるのかと思うと嫌な気持ちもしたが、それも当然かと覚悟し、しおらしく反省した。

 手負いの敵将を救わんとした事実を責められても、何一つ文句は言えない。

 山崎が退室してしまうと、土方はわざとらしく長いため息を吐いた。

「……あぁーったく、何だってそう厄介事に飛びついていきやがるんだ」

「すいません……」

 げんなりとこめかみを押さえる土方に、伊織はますます身を縮める。

「新選組はただでさえ土佐藩に恨まれてるんだ。現場におめぇがいたとなりゃ、ウチに嫌疑がかけられる。今ごろ、おめぇのお陰で命拾いした中岡が、ベラベラ状況をしゃべってやがるだろうなぁ?」

 伊織の存在と行動が、新選組下手人説の決定打になったことは否めない。

 事実、誠一郎は新選組が犯人だろうと決めかかっていた。

「……ごめんなさい。もう、土佐には関わらないようにする……」

「あぁ、そうしてくれ」

 ぶっきらぼうな土方の一言の後、気まずい沈黙が流れた。

 その空気に耐えられず、伊織は上目遣いで土方の顔色を窺う。

「………何だ」

 たっぷり尊大さを着て、土方は伊織を見おろす。

「あ、いえ……、それであのぅ、処分は……」

「切腹だな」

「えっっ!!!」

 伊織はサッと血の気が引くのを感じた。

「冗談だ」

「はあ……、お、脅かさないでくださいよ……。これでも反省してるんですから」

 引っ込んでいた息を吐き出し、胸に手を当てがう伊織の眼前に、土方はしゃがみ込む。

「で、何だってわざわざ中岡を助けに行ったりしたんだ。まさかとは思うが、奴に惚れたわけじゃあるめぇな?」

 土方の鋭い目がじりじりと睨みつけてくる。

 殆ど図星を指されて、伊織は顔を背けた。

「図星か。分かりやすいんだよ、おめぇはよ」

「土方さんが目敏いだけですよォ」

 開き直ってふてくされながら、土方の顔を見上げる。

「どうすんだ」

「どうするって?」

「中岡んところに行くつもりか」

「え?」

「だから、また中岡に会いに行くつもりなのかよ」

 怒っているような照れているような、それでいて困っているような表情で土方が問う。

 ここ暫く伊織の元気がない様子に、土方は微妙に調子が狂っているらしい。

 そこで伊織は、ははぁ、と口を歪めた。

「やきもちですか?」

「ばっ……、馬鹿か! 誰がそんな……」

 土方が微かに顔を赤らめて狼狽する。分かりやすさは土方も伊織に引けをとらないようである。

 これを図星と読んで、伊織は思い切り笑顔を作って見せた。

「うわぁー、やっぱりやきもちだ」

「してねぇ!! おめぇこそ、そのイイ笑顔やめやがれ!!」

 本当に照れ怒りといった風の土方を見る伊織の目が、ふと優しく笑った。

「さっきも言ったじゃないですか。土佐には関わらないって」

「……あ?」

 急にまともに話し出す伊織の変化に、土方は些か戸惑いを見せる。

「もう、中岡さんには会いません。……私たちの敵ですしね」

 寂寞とした思いが、浮き彫りになる。

 誠一郎はきっと、新選組が犯人だと思い込んでいるだろう。伊織の存在が、それを裏付ける確証になっていると考えてまず間違いはない。そしてそのことを、近江屋に集まった仲間たちにも話しているはずなのだ。

 慎太郎は、助からないであろう。

 あの後頭部の傷は深すぎた。恐らくは、脳にまで届いているだろう。

 きっともう、長くはない。

 伊織はそう確信していた。

 慎太郎の傍には、陸援隊や海援隊、土佐藩士といった多くの同志がついている。

 そこに自分がいる必要はないのだ、と伊織は思う。

「──でも、土方さん」

「何だ」

「十八日の夜、お墓参りに行ってもいいですか?」

 沈んだ声で言う伊織を、土方は呆気にとられて見た。が、すぐに意地悪く笑って、

「まだ生きてる人間の墓参りたぁ、妙なもんだな」

 と、嘯いた。

「駄目ですか?」

「……いや、行ってやれ」

 ただし、例の現場には近づくなよ、と土方は言い添えた。


 ***


 伊織は十六日からの三日間、副長命令で小姓業に専念することになった。

 土佐側に顔が知られている以上、監察として動いては不都合であったし、このことは一応伊織の独断に対する処罰でもあった。

 土方の側に付いてあれこれと雑用するのは、随分久しぶりのことである。

 土方が江戸に行く前は、薩長の動静を探るために監察として奔走していたし、土方の東下以後は陸援隊に入り込んでいた。

 だから、土方の小姓ができるのは嬉しいのだ。

 この気まずい雰囲気さえなければ。

 どうにも、慎太郎を手当したと報告して以来、土方の周りの空気が張り詰めている。

 つい今し方出した茶にも、土方は口をつけようともしない。

 どうぞ、と言って差し出したのに、返事もなかった。

 ただ無言で机に向かい、ひたすら筆を走らせている。

 毛筆が紙を撫でる音と、時折火鉢の炭がきしむ音があるだけだ。

(──十七日、か)

 伊織は何となく、火鉢で熾る炭を眺めた。

 赤々と燃えているこの炭も、やがては尽きて灰になる。

(人も同じだな──)

 熱く燃えて生き、いつか死んで灰に帰する。

いつになく静かな時間に、らしくもなく感傷に浸り目を細めた。

「伊織」

 筆を置く音とともに、土方が呼んだ。

「あ…っ、はいっ」

 我に帰って、すぐさま顔を上げる。

 土方はこちらを振り返って、一通の書類を差し出していた。

「悪りぃが、これを会計方に持ってってくんねぇか」

 伊織は書類を受け取りながら、土方の目を覗く。

 土方はそれが気にかかってか、怪訝そうに伊織の目を見返した。

「何だよ、俺の顔がどうかしたか」

「いえね、なんかお茶飲んでくれないのかなぁって……」

 土方は気の抜けた声で、もらうよ、と返した。

「じゃあ、そいつは頼んだぞ」

「はーい。会計方でしたね」

 にっこり笑って副長室の障子戸に手を掛けたが、伊織はふと土方を顧みた。

「土方さん」

「あぁ?」

 湯呑みを持ったまま、土方も伊織を見る。

「私……、土方さんのためだったら、死ねますからね」

 生真面目な顔で言われ、土方は唖然とした。

が、すぐに照れくさそうに笑うと、

「ありがとうよ」

 と言って、湯呑みの茶を一口啜った。


 ***


 書類を懐に忍ばせて副長室を出ると、冷たい風が吹き付けた。

 夕刻も近くなり、外気は一段と冷えてきている。

 伊織が会計方の部屋まで行こうと一歩踏み出した時、庭の植え込みが不自然にざわついた。

「───?」

 警戒をもって目を凝らしていると、植え込みから人影が立った。

 それが知った顔と判ると、伊織は適当な下駄を履き一人で裏手へと向かう。人影もそれについて来た。

 人目につかぬ場所まで来て、伊織は足を止める。

 背を向けたまま、去れ、と低く威嚇したが、それが去る気配はなかった。

「──中岡隊長が、危篤じゃ」

「だからどうだと言うんですか」

 伊織が振り返ると、流れ落ちる涙を拭おうともせずに立ち尽くす、誠一郎の姿があった。

「隊長は、おまんに会いたがっちゅう。つまらんことは気にせんで、一緒に来いっ!」

 誠一郎の涙は、少なからず伊織の動揺を誘った。

 だが、行けば伊織の身柄は今度こそ土佐陸海援隊に拘束される。

 そればかりか、土方との約束を破ることになる。これ以上土方を裏切るような事はしたくなかった。

「私は行けない。行きたくない」

 迷うことなく、正面から誠一郎を見据える。

誠一郎の双眸が一瞬見開かれ、伊織をきつく睨んだ。

「中岡隊長の、最期の願いじゃぞっ!!? ……最期じゃ!! もう会えんがよ!? 苦しがってッ──おまんの名を呼んじゅうがよっ!!?」

 誠一郎が取り乱すのを初めて見た。

 その涙も。

 伊織は頬を強ばらせて瞑目した。

「──今回ばかりは、行ってやるわけにはいかない」

「今回っ……て、これが最期じゃ言うちょうがやないか……っ!!」

 涙で声を詰まらせる誠一郎に、伊織は再び背を向ける。

 これ以上、誠一郎の哀れな様を見たくなかった。

「隊長に、一目でエエ……会うてやってくれッ」

 聞くに忍びない声で嘆願するのを、伊織は拳を握りしめて聞き流す。

「私が行けるはずのないことは、あなたとて知っているだろうっ!」

 やりきれぬ無念さがこみ上げるのを、抑えきれなくなる。

「私が最期を看取って何になる!?私が行こうと行くまいと、もう助からないんだぞ!?」

「この通りじゃっ!!」

 嗚咽混じりに言い、誠一郎は地に手をついた。

「おまんに看取ってもらいたい!! それが隊長の最期の望みなんじゃッ!!」

「見苦しいぞ! 中岡一人のために土方さんを裏切る真似は、私には出来ない!!」

 伊織は誠一郎を激しく恫喝すると同時に、自らを必死に抑制した。

「……副長に用事を言いつけられてますので、私は戻ります」

「高宮っ!!」

「あなたも早く戻らないと──、間に合わなくなりますよ」

 言い終える前に、伊織は足早に歩き出していた。

 もう、火は尽きる。

 こうしている間もに、慎太郎の命は失われつつあるのだ。

 せめて、誠一郎にだけは、慎太郎の最期を見送ってやって欲しい。

「高宮っ!! 後生じゃ……っ! 必ず、会いに来とうせぇッッ!!!」

 背後に、誠一郎の必死の声が響く。

 けれども伊織は足を止めなかった。

 夕闇の迫る中、伊織はただ一筋だけ、涙を流した。



【第十幕へ続く】

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