第八幕

 

 

 伊織は、陸援隊屯所内の牢に入れられた。

 牢というものに入るのは初めての経験だが、それ自体はさほど気にはならなかった。

 投獄されたことを気に病むより、土方との約束が気にかかっていたのだ。

 牢に入ってからも、もう一刻は経つ。

(会合にはもう間に合わないなぁー…。土方さん、怒るんだろうな……そりゃあもうプリプリと……)

 薄暗い牢で、伊織はぶつぶつと自分の処遇を嘆いた。

 何とか抜け出せぬかと、見張りの目を盗んで試行錯誤してみたが、どうにも堅牢で容易には破れない。

(刀で格子を叩き斬るわけにもいかないものなぁ……)

 どういう了見か、誠一郎は伊織の大小を取り上げないまま牢に入れたのだ。

 如何に刀を以てしても、女子の力で牢は破れぬと見てのこと、と思われる。

 甘く見られたものだなと苦笑してみたが、すぐにげんなりと肩を落とした。

 甘く見られるも何も、実際格子を斬るには腕力が足りないのである。

 牢の監視をする隊士は、見える限りで二人。

 牢さえ破れれば、決して手に負えぬ数ではない。

 振り切って逃走するのは、やってやれないことはない。

(それも牢を破れれば、だな)

 嘘でも恭順を示してみようかとも考えた。

 あるいは、女子として慎太郎に添うと言ってみれば、牢から出してもらえるかもしれない。

 けれど、それでも誠一郎の監視は続くであろう。

 何しろしつこい上に、慎太郎にはつくづく忠実な男なのである。

「あのー、すいません」

 牢を見張る隊士に声をかけてみる。

「隊長か誠一郎さん、呼んでもらえませんか?」

 ふと思ったのが、二人とも伊織を牢に入れたきり、様子を見にも来ない。

 誠一郎はともかく、慎太郎あたりは入り浸っていてもおかしくなさそうなのに、声すら聞こえてこないのだ。

「岩村さんは藩邸に出ちゅうし、隊長はさっき坂本先生んとこに出かけちゅうがよ」

 だから帰るまで待て、と隊士はそっけなく言い捨てた。

「───!!」

 伊織は瞠目した。

 慎太郎は、龍馬のところへ出かけたと、そう聞こえた。

(近江屋へ行ったのか!?)

 愕然とした。

 あぁ、と思わず声が漏れ、伊織はその場にへたり込む。

 どうあっても運命は変えられぬということなのか。

(馬鹿な……ッ! どうして今日に限って!)

 宮川の処遇の相談が今日でなくとも良いように、わざわざ早くに教えてやったのに。

 それなのに、なぜ今日でなければならない。

 思い悩んだ末に、ぎりぎりまで運を味方につけてやろうとしたのに。

 瞬く間に焦燥感と苛立ちがこみ上げる。

 潮騒にも似たそれは、伊織の全身に満ち、その衝動を駆り立てた。

「──出せ」

「あぁ? 何じゃあ?」

「私を出せ!! 隊長が殺されるかもしれないんだぞ!!!」


 ***


 伊織は、河原町近江屋へと急いだ。

 伊織の豹変ぶりと逼迫した形相、そして何より隊長の死を予感させる言葉に、見張りの隊士も動揺し、散々狼狽えた末に牢の錠を外したのだった。

 外に飛び出した時には、もう日が暮れてからだいぶ経っていたようだった。

 間に合わないかもしれない。

 けれど、足は躊躇うことなく慎太郎の元へと駆けた。

 これまでの長い逡巡が、嘘のように消えていた。

 今は、助けたい、としか思えなかった。

 それ以外には何も浮かばない。

 切れる息が白く流れた。

 途中、下駄の緒が切れたが、その場に脱ぎ捨てて走った。


 ***


 体は焼け付くようだった。

 やっとのことで近江屋近くまで駆けつけ、伊織は一旦足を止めた。

 全力で長く走ったために、唾を飲み込むのにも喉につっかえる。

 視線の先で、店の家人があわただしく出入りしていた。

(──まさか)

 思った時には再び走り出していた。

 何にも目をくれず、中に飛び込み階段を駆け上がった。

「慎ちゃん!!!」

 叫んで、息を呑んだ。

 身体が震え出す。

 立ちこめる血の匂いが、鼻につく。

 室内は、一面に血の飛沫が散っていた。

 その中にうずくまる、人。

 一体どれだけの太刀を受けたのか、ずたずたに斬り裂かれた、人。

 伊織はそれを凝視したまま、その場に立ち尽くした。

(───間に、合わなかった───)

 己の身体に満ちる潮騒がうるさすぎて、鼓膜はすべての音を受け付けない。

 その場で卒倒しそうになった。

 血溜まりにうずくまったその人の指が、微かに動いた。

「……しっ、慎ちゃん!?」

 伊織は辛うじて我を取り戻した。

 自らの血で染まる慎太郎の身体に寄り添い、その手を強く握る。

 今にも途絶えそうなほどに脆弱ではあったが、脈がある。

「慎ちゃん!!」

「………お、り……」

 呼びかけに、掠れた声が返った。

 生きている。

 意識がある。

 きっと、助かる。

「誰か!! 医者をっ! 医者を呼んで!!!」

 叫ぶ伊織の双眸からは、滂沱と涙が流れていた。

「しっかりしてよ!! すぐ、すぐに医者が来るからっ! だから……ッ」

 慎太郎が虚ろに目を開け、伊織の姿をとらえた。

「頑張ってよ!! 絶対ッ……助かるから……!」

「───は、はっ……伊織、泣いちゅう……」

 暗紫色の唇から息混じりの声を絞り出して、やっと笑う。

 あらゆる傷口からは未だ脈動に合わせて血が溢れ出て、その顔には明らかな死相が浮き彫りになっていた。

(──止血が先だ!)

 思い立つや、伊織は自らの袖の縫い目を噛みしめて引き裂いた。

 腕と、足と、それから──。

 震える腕で、思いつく限りの応急手当を施していく。

 だが、悪いことに傷は全身に及んでいた。

「駄目だ、止まらない……! なんで……、なんでよ!? 医者はまだなのォ!!?」

 関節ごとに止血しても、後頭部に負った傷はどうにも出来ない。その傷が一番深手なのだ。放っておけば致命傷になりかねないだろうと思われた。

「今、身体を起こすからね! 心臓より高くしなきゃ───」

 自分より大きな慎太郎の身体を必死に抱え、やっとのことで上半身を起こすと、手近な襖にもたせかける。

 その一方でもう片方の袖を喰い散切って後頭部を押さえた。

 それでも、血は一向に止まらない。

 押さえた布がみるみる赤く染まり、果ては伊織の手をも染め、血は諾々と流れ落ちた。

「止まらない……っ、止まらないよっ! どうしよう、どうすれば止まってくれるの!?」

 正面から慎太郎に縋りついて喚き散らす。

 医者の到着を待つこの時間が、永遠に続くのではないかと思うほど長く感じる。

 これ以上自分に何が出来るのか、考える余裕は既になくなっていた。

 辛うじて意識だけは保っている慎太郎に、声を聞かせてやるくらいのことしか思い浮かばない。

「もうすぐだからね! 大丈夫だからッ! ……絶対死なせないから…!!」

「……すまん、にゃあ。あんだけ……言われ、ちょったが、のに…………刀……手元、に、……置かんかった」

 全身に走る激痛から、慎太郎は切れ切れに息を吐く。

 慎太郎が言葉を発するごとに、生温かい血が新たに噴き出すのが恐ろしくてならない。

「もういい! ──喋らないで……っ」


 ***


 ばたばたと慌ただしく階段を駆け上がる足音が聞こえ、伊織は顔を上げた。

 医者だ。

 駆け上がってきたその人は、まさに待ち望んだ医者だった。

「──たっ、助けてっ!! お願いッ、慎ちゃんを助けて……!!」

 こんな悲痛な声で懇願したのは、生まれて初めてのことだった。



 駆けつけた医師による現場での処置が済むと、慎太郎はすぐに別室に移された。

 伊織はその様子をひたすら見守るしか出来ず、移された先の部屋には入室を許されなかった。

 医者に託したことで、すっかり茫然自失してしまい、部屋の外に座り込んで壁に背をもたれる。

 慎太郎の血に染まった手も衣服も、気にはならなかった。

 そればかりか、普通なら震えるほどの寒さをも、感じることが出来ない。

 総ての神経が失われた錯覚に陥っていた。

 板敷きの廊下には、どこからか人の嘆く声と嗚咽とが聞こえてくる。

 それが、駆けつけた土佐藩士たちのものだと、無意識のうちに理解した。

 龍馬のほうは、ほぼ即死であったのだ。

 目前の慎太郎に気を取られ、伊織は龍馬にまでは目が届かなかったのである。

 今も、慎太郎の治療は続いている。

 一度は引いた涙も、耳を掠める泣き声に誘われて、また一筋、頬を伝った。

 あんなに取り乱したのは、久しぶりのことだった。

「───ごめん」

 誰にともなく、謝った。

 自分が間に合わなかったために、瀕死の重傷を負わせてしまった慎太郎に対してか、或いは、土方を裏切るような行動をとってしまったことにか、もはや判断はつかなかった。


 ***


 何刻か経った頃に、閉ざされたきりだった襖が開き、伊織は飛び上がった。

 部屋から出た医師と助手に掴みかかる勢いで訊く。

「先生! 慎ちゃんは──!?」

「……あぁ。出来る限りの手は尽くしたが……」

 どっしりと貫禄のある医師の表情からは、容態の良し悪しは読み取れない。

 伊織は複雑な思いで顔を下向けた。

「そうですか……」

 考えてみれば、あれだけ身体中を斬り裂かれていたのだ。

 少なくとも容態が良いはずがなかった。

「彼の応急処置は、君がやったのかね?」

 心なしか、医師の声音が明るさを帯びる。

「……はい。夢中で、よく覚えてはないのですが……」

 顔を上げてみると、医師は笑顔を作って伊織の肩に手を乗せた。

「良い処置だった。君のお陰で、彼は一命を取り留めたんだよ。──快方に向かう見込みもある。側についていてやるといいだろう」

 喜ぶべき言葉であるはずなのに、伊織の心中は釈然としないもので溢れていた。

「──はい。……ありがとう、ございました」

 伊織は一礼して医師らを見送った。

 自分の施した処置のために、慎太郎は命を取り留めた。

 果たして、それは良いことだったのだろうか。

 廊下に一人残され、伊織は閉められたままの襖を見やる。

 そばについているべきか、正直迷っていた。

 直に誠一郎もここへ来るはずだ。

 そうなればきっと脱獄を咎められ、今度こそ本当に斬られるかもしれなかった。

 ───…伊織……。

 微かに慎太郎の声が聞こえ、伊織は咄嗟に部屋の中へ飛び込んだ。

「慎ちゃん!?」

 まさかと思って慌ててしまったが、慎太郎は静かな寝息を立てていた。

(……なんだ、寝言……)

 ほっと安堵の息を吐いて、伊織は音を立てぬようそっと傍らに腰を降ろした。

 行燈の明かりに照らされる寝顔は、時折苦痛を堪えるように眉頭を寄せる。

 それを静かに見守りながら、伊織はとうに平常心を取り戻していた。

 けれど、身体中を包帯に捲かれた痛々しい慎太郎の姿に、涙はつつと流れて止まらなかった。

(──きっともう、助からない……)

 そう思った。

 中途半端に助けたいなどと、思うのではなかった。

 結局、こうまでしても運は味方しなかったのだ。

 定められた命運を変えるほどの力など、自分には最初からなかったのかもしれない。

 見方を変えてみれば、未来を知るという思い上がりが、結果的に慎太郎をここへ導いてしまったのではなかろうかとさえ思えてくる。

 スッと背後から冷えた空気が流れ込んだ。

「高宮……、隊長は……」

 報せを受けて駆けつけた誠一郎の姿があった。

「今は落ち着いて、眠っています」

 慎太郎を起こさぬようにと気遣って、声を低める。

「……そうか」

 誠一郎はゆったりと伊織の隣に座った。

 二人は目を合わせることなく、慎太郎の寝顔を見つめる。

 やがて、誠一郎が口を開いた。

「牢を出るとき、中岡隊長が死ぬかもしれん言うちょったらしいの」

 いつもより一段と低い誠一郎の声は、抑揚に乏しい。

「こうなることが判ってたっちゅうことがか」

 まさにその通りだ、と心中で呟き、声には出さなかった。

「……下手人は、新選組の奴がじゃろう」

「それは違う……!」

 伊織は誠一郎に振り向き、語気を強めた。

 が、誠一郎のほうは目を合わせようとしなかった。

「下手人がもし新選組だったとしても、俺はおまんを責めん。おまんは隊長を助けようと駆けつけたがじゃろう。それに、おまんの手当がなけりゃあ、隊長も今ごろは命を落としちょうたはずじゃき。……来てすぐ店のモンからそう聞いちゅう」

「……いや、間に合わなかったんだ。私が躊躇していたために──すまない」

 声が震えそうになり、伊織は声を押し殺した。

「何を言う。こうして隊長は生きちゅうがやないか。おまんが駆けつけてくれたお陰じゃき、礼を言うぜよ」

 覇気のない誠一郎は、珍しく蒼白になっている。

 伊織はかぶりを振って否定した。

「私は、何も出来なかった」

「そんなことはない」

「本当に、何も出来なかったんだ」

 伊織が慎太郎に視線を落とすと、誠一郎は少し困惑したように伊織の横顔を見た。

「私は、今日この近江屋で、二人が刺客に襲われることを……ずっと前から知っていたんだ」

 誠一郎の目が、疑惑に満ちる。

 誠一郎が新選組を下手人だとほぼ思い込んでいることは、伊織にも察しがついていた。

「このことだけじゃない。これまでの事件も、この先に起こる事も、新選組の行く末も、日本の未来も、世界の未来も、何だって知っているんだ」

 言いながら徐々に自分が興奮しつつあるのが、自分でわかった。

 膝の上で握り締めた細い拳が、小刻みに震えだしていたのだ。

 誠一郎は、ただ黙って聞いていた。

「中岡隊長は坂本さんの巻き添えで斬られたんだ。だからこそ、私は助けたいと思った。でも……、何の力にもなってやれなかった」

 誠一郎はゆっくりと慎太郎に目を向ける。

「知っちょったんなら、教えてくれりゃあ良かったがのに──。おまんがまっこと助けたい思うちゅうがやったら、何で一言話してくれんかった」

 穏やかで静かな声音の中に、誠一郎の僅かな苛立ちが見え隠れする。

「怖かったんだと思う。私のせいで歴史が変わってしまうことが。──でも、それは間違いだったと、ついさっき気付いた」

 伊織は、また熱くなってきた瞼を閉じる。

「私には、人の運命など動かせない。いつだって、人や歴史に翻弄されてきたのは、私のほうなんだ──。私は、すべてが定めの通りに流れていくのを見守るだけだ。何を成せるでもない。ただ、すべてを知っているだけなんだ……」

 誠一郎には理解出来ないと分かっていても、言葉が次々に口をついて出てくる。

「……情けないのう」

 思いがけない誠一郎の反応に、伊織は顔を上げた。

「な……っ!」

 情けないとはどういう意味だ、と言おうとしたが、誠一郎が間を空けずに言葉を紡いだ。

「運命が決まっちゅうがやったとして、なぁんでその通りにならにゃいかんがよ。そんなもんは人次第でいくらも変えられるもんじゃき。同じ一生がじゃったら、人っちゅうんは少しでもエエ方に生きようとするんが当ったり前ぜよ。おまんはそんなくだらん理由つけて、エエ方の生き方を自分で拒んじゅうだけがやないか」

 不意に、誠一郎と伊織の視線が交錯する。

 どうしてか、心の虚をつかれたような気持ちがした。

「良い方の、生き方……」

 ふと、土方の顔がよぎる。

 伊織は何故かおかしく思えて、くすくすと笑ってしまった。

 誠一郎は渋面を作り、

「何がおかしい」

 と威圧するように問う。

 伊織は笑うのをやめた。

「思い出したんだ──。良いも悪いもない。私は、答えなんてとっくに出していたんだ。……他を選べようはずもなかった。それなのに、気がついたら近江屋に向かっているんだもの。馬鹿だな、私は──」

 思い出させてくれて、礼を言う、と伊織は破顔した。

 未来が判っていて、それでもなお、あの人がゆえに生きたいのだと、思っていたのだ。

 そうしてあの人もまた、そんな自分を重く用いてくれている。

「私は、あの人を守ることさえ手に余るというのに、他まで……まして敵方の人間まで守ろうとした」

 本当に愚かだった、と伊織が呟き、誠一郎は瞑目する。

 やがて伊織は立ち上がり、部屋の端まで歩いて足を止めた。

「伊織」

 背後で、誠一郎とは違う声が呼んだ。

「隊長! 起きちょったがですか!?」

 続けざまに誠一郎の声がしたが、伊織は背を向けたまま振り返らなかった。

「……行くな」

「動いたらいかんがです、隊長!」

 背中に、慎太郎の視線が刺さる。

「誠一郎さんの言うように、動かぬ方が良いでしょう。今の貴方は重体なんですから」

「おまんが……ここに、残りゆう……なら、……動かん」

 渾身の力で身を起こそうとしているのが、気配で感じ取れた。

「人の身を案じてばかりいるから、自身が運に見放されるんだ。私があれほど忠告したにも関わらず、刀を手放すような者を──、これ以上守りたいとは思わない」

 半ば無理矢理に声に出した言葉だった。

 酷薄なことこの上ないと、自分で自分が鬼のように思えた。

 だが、これで良いのだと、存外冷静に構えることが出来る。

「伊織──…」

 悲壮な、縋るような声だった。

 それを敢えて無視し、襖を開けた。

「誠一郎さん。後はお任せします」

「待て! ……新選組は、疑われるぞ」

「──疑いたくば、疑うがいい」

 言い捨てて、伊織はついに一度も振り向くことなく部屋を後にした。

 襖がピシと閉められ、残された二人は伊織の足音が遠ざかっていくのを聞いた。

「誠一郎……伊織を……、止めとうせ……ぇ」

 なお起きあがろうとする慎太郎を、誠一郎は必死に宥めた。

 包帯の至るところから、じわりじわりと血が赤く滲み出す。

「隊長っ! 今の高宮を連れ戻すんは無理がです! 高宮の話を聞いちょったがでしょう、あいつは新選組を捨てはせんがですよ…っ!」

 本当は、すぐにも慎太郎の望むとおりに、伊織を連れ戻したい気持ちでいっぱいだった。

 誠一郎とて、好き好んで伊織を見送ったわけではない。

 伊織が付き添っていてくれれば、慎太郎も精神的に落ち着くはずだ。それは身体の回復にも大きく関わる。

「今は安静にしちょってくださいっ……!」

 弱りきった慎太郎の腕と足は萎えて、どんなに懸命に身体を起こそうとしても叶わない。

「伊織を…っ、死なせとう、ない……」

 誠一郎は切実に慎太郎を宥めかかった。

「高宮よりっ、隊長のほうが死んでしまうがやないですか……っ!!」

 ほとんど泣きそうな声で言い、慎太郎はそれでようやく諦めたようだった。

 仰向けになった慎太郎の目が、虚ろに天井を見つめる。

「………『土方副長』、か………」

 ぽつりと言った慎太郎の独り言に、誠一郎は返す言葉を探しあぐねた。

 一番やりきれない思いをしているのは慎太郎であるはずなのに、自分まで胸が痛んで仕方がなかった。

「──さっきまで、……あんな……泣いてくれゆうがやったのに………」

 声が掠れて、慎太郎の双眸が潤むのが見てとれた。

「油断──しちょった……、俺が悪かった──」

「隊長……」

 伊織が慎太郎に刀を預けて、新選組の監察を名乗った夜のことは、誠一郎も知っていた。

 まさか伊織自ら正体を明かすとは思いもよらなかったために、さすがにあの時は誠一郎も驚いた。

 誠一郎にしては、珍しく咄嗟の判断をし損ね、伊織を引き留めることが出来なかったのだ。

(刀を常に手元に置け言うちょったんは、隊長の深くを見越してのことだったんか……)

 未来を知っているという伊織の言葉が、誠一郎の中で急激に信憑性を増した。

(中岡隊長は……、助かるがじゃろうか──)

 誠一郎の脳裏に、伊織の見せた涙と自嘲めいた笑いと、そして決意とが浮かぶ。

 それらが訳もなく誠一郎の不安を駆り立てた。

 目の前の慎太郎は、これまで見たことのないほど弱気な目をしている。

「このまんま、……伊織に、会えんのじゃろうか……」

 小さく呟いた慎太郎の声が、誠一郎の耳に今にも消え入りそうに幽けく響いた。



【第九幕へ続く】

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