第七幕

 

 

 十一月十五日は、驚くほど早くやってきた。

 伊織が陸援隊を去ってから、五日目の朝である。

「今夜はおめぇも出席しろ。いいな?」

 各隊ごとの隊務割が伝えられた後、土方は伊織にそう耳打ちした。

 今夜、近藤・土方をはじめ主だった幹部を集めて、伊東甲子太郎暗殺のための会合がもたれる。

 伊織は声に出さず、ただ頷いて了解の意を示した。

(眠い……)

 昨夜はよく眠れなかった。

 運に委ねると決めたのに、伊織の心が凪ぐことはついになかった。

 土方と別れ、その足で監察方の集う一室へと向かう。

 屯所に戻った翌日は、山崎などには散々小言を聞かされ、島田からは愚痴を聞かされた。

(今日はみんなどうするのかな──。やっぱり高台寺党関係だろうか)

 高台寺党とは、伊東の御陵衛士の連中を指す。

 かつての同志の暗殺ともなれば、さすがに気分の良いものではない。

 が、それにしても、今日は仕事に打ち込まねば、とても平静ではいられそうにない。

 ちょうど人気のない裏庭に面した縁側に差し掛かると、伊織はぴたと足を止めた。

視線を感じる。

(何だ……?)

 目だけを動かすも、その気配の主は映らない。

 伊織は低く誰何した。

「──出てこい」

 微動だにせぬまま告げると、庭の隅から見知った顔が覗いた。

 伊織は少しうんざりした表情になる。

「……どうやってここまで入ってきたんですか。まったく、あなたという人は……」

「ちくと話がしたいちや」

 誠一郎であった。

 白昼堂々、単身敵陣に忍び込む剛胆さは、感服の至りである。

「見逃してあげますから、すぐに出ていってください」

「そうはいかん。話を聞いてもらわにゃ、俺も陸援隊に帰れんきに」

 誠一郎も、いたって真面目である。

「んじゃ、ここで聞きます。何ですか?」

「出来るがやったら、落ち着いて話したいがよ」

「私も忙しいんです。今は隊務も山積してますしね」

「三条大橋の下で待っちょる。必ず来い」

「えっ! ちょっ…」

 伊織が言い返すのも待たず、誠一郎は姿を消してしまった。

「……あんにゃろう」

 一方取り残された伊織は、長く重いため息をついてから、ともかくも本来の目的地に行くことにした。

(誰が行くものか! だいたい今日に限って何の話があるってんだ)

 ぶつぶつ小さく文句を言いながらも、結局気になってしまう。

 二度と関わるまいと思っていたのに、誠一郎の出現によって、さらに心は乱される。


 ***


「すみません、遅くなりました」

 室内には、山崎と島田の姿があった。

「あれ、お二人だけですか?」

 もっと集まっているかと思っていた伊織は、やや首を傾ける。

「他はもう出たわ。オマエが遅いだけや」

 山崎が不機嫌そうに言う。

 それに悪びれもせず、あらら、と軽く流してしまえるのは、やはり付き合いの長さゆえである。

 伊織は山崎と島田の輪に入り、ちらりと島田と目を合わせた。

 島田もどこか虫の居所が悪そうである。

「お二人とも、どうしたんですか。お腹でも痛いんですか?」

「冗談はエエ。さっき庭におったネズミは、オマエの何や?!」

 庭のネズミ。誠一郎のことだな、と伊織は苦笑った。

「気付いてたんなら駆除してくださいよ、山崎さん」

「阿呆。ありゃぁ土佐のモンや! 下手に取り締まれるかいな!」

 山崎が眉をぴくぴくさせながら、怒りを抑えている。

 毎回の事ながら、島田が一生懸命に仲裁してくれた。

「まぁまぁ、まずは高宮の話を聞いてやろうじゃないか。な?」

 決して山崎と仲が悪いわけではないのだが、どうも叱られる事が多い。

(陸援隊での事は、あんまり知られたくないんだけどなぁ)

 思いながらも、伊織は仕方なく誠一郎について説明した。

 両名ともそれぞれに腕組みをして聞き、説明が終わると同時に島田はがっくりと肩を落とし、山崎は堪忍袋の緒を切った。

「ど阿呆!! そんな厄介なモンに目ェつけられて、監察失格や!!! バレてたんなら何でそれなりの始末してこんかった!?」

 鬼副長も真っ青な山崎の形相に、伊織はさらに小さくなった。

「すっ、すいません~!!」

「謝って済むかッ!! このうすらボケ!!」

 怒り狂う山崎の叱責に、伊織は少しばかり反感を抱く。

「だってじゃあ、どうしろって言うんですかー! 下手に取り締まれない土佐の人なんですよ~?」

「やかましわ!! いつもいつもへマしよってからに!」

「うわっ、いつもいつも!? 今回だけじゃないですか、正体バレたのはー!」

「今回だけでも充分すぎるわ、たわけ!!」

 もうほとんど子供の喧嘩になりつつあったのを、島田が鬱々とした顔で止めに入った。

「とにかく、その呼び出しには応じないほうがいい。その岩村とかいうのが高宮をどうするつもりかは知らんが、厄介事が増えるのは必至だぞ」

 根が優しい男なので、前回多大な迷惑を被ったにも関わらず、やや伊織側に付いてくれる。

 とはいえ島田も、さすがに心労が溜まっている様子だった。

 だから伊織も素直に島田に従う。

「今度ばかりは自粛しますよ。今夜は用がありますし、厄介事に付き合う暇はないですから」

 島田がホッとしたのも束の間。すぐに山崎が大反論した。

「行かな、あいつはまた来よるで! 元々オマエが蒔いた種や、しっかり摘み取って来い!! それが今日のオマエの仕事や!」

「えぇー……」

「待て待て、それもわかるが、高宮ひとりで行かせるのは危険だろう。もう少し様子を見て……」

「陸援隊がコイツをどうするんかは知らん。せやけど、高宮のせいでこの先あいつに付きまとわれたらかなわんのや!!」

「それは……そうだが……」

 山崎の正論に圧され、島田も返す言葉をなくしてしまった。

 強力な味方を制圧され、途端に伊織はいたたまれなくなる。

 しゅんと俯いて、伊織は二人に詫びた。

「──三条大橋に、行ってきます……」

 伊織は一礼して、退室した。

(あぁ~あ、山崎さんて土方さんより怖いよ……)

 しかし、怒られる理由も充分にある。

 伊織が陸援隊に潜入さえしなければ、こうもならなかった。

 いくら村山を救出するためとは言っても、いささか無鉄砲だったと、伊織自身も思うのだ。

 気持ちも足取りも重く、誠一郎の待つ三条大橋へと出向いていった。


 ***


「……来よったがか」

「あなたが来いと言ったんでしょう」

 伊織は心から嫌そうに吐き捨てた。

 橋の下に身を潜めていた誠一郎も、やはり穏やかでない様子だった。

「で? 話というのは何です」

「──何ちゅうことはないがよ。おまんを連れ戻しに来ちゅうだけじゃきにの」

 伊織は、口を引き結んだ。

 誠一郎の執念深さに、ますます機嫌が悪くなってくる。

「連れ戻しに…って、私は元より新選組隊士ですよ。あなたに従う義務はありません」

「中岡隊長がおまんを取り戻したがっちゅうきに、従ってもらわにゃあ困るぜよ」

 淡々と語る誠一郎を、伊織は鋭くねめつけた。

 出来るなら今日は、中岡慎太郎の名を聞きたくはないのだ。

「今更遅いと思いませんか。私が陸援隊を去る時、隊長は引き留めなかったんですよ」

「それをッ! 隊長は後悔しちょる!」

 誠一郎が語気を強める。

 伊織はそれには構わず、土手に座り込んだ。

 そして大儀そうに首をぐるりと回して、凝りを解す。

「諦めてください」

「陸援隊に戻るゆうまでは諦めん」

 伊織の正面に仁王立ちになって、誠一郎は言った。

 一歩も譲らぬ構えである。

「私は戻りませんよ? どうします? ここで始末しますか?」

「げにまっこと意地っ張りじゃな、おまん」

「そりゃあ私にだって、曲げられない意地はありますよ」

 それでも誠一郎ほどではない、と心で毒づく。

 伊織は心底うんざりして、首筋を掻きながら明後日の方向を見た。

 誠一郎を説得するのは至難の業である。

 適当にあしらって帰ってしまってもいいが、それでは何の解決にはならない。

(山崎さんにドヤされるのも嫌だしなぁ……)

 山崎の言うように、伊織が陸援隊に戻るまで、誠一郎は何度でもやって来そうである。もしかすると、毎日付け回されるかもしれない。

(それは困る……)

 完全に諦めてもらうにはどうすべきか、考えても妙案は浮かばない。

「だいたい、敵方の間者を請じ入れるだなんて、どうかしてますよ。わざわざ危険分子を連れ戻して、どうしようってんですか」

「そんなんは戻ってから隊長に聞いたらエエきに」

 誠一郎は身じろぎもせずに言う。

 それにひきかえ、伊織はだんだんと投げやりになってきていた。

「あなたが諦めてくれないと、帰ってから怒られるんですよ~。なんとか諦めてくれませんかぁー?」

 自分でもびっくりするぐらい情けない声で嘆願する。

 それにも誠一郎は動じなかった。

「それは俺も同じことじゃき」

 話がまとまりそうな気配は、毛筋ほどもない。

 結局は誠一郎も、命令によって来ているのだから、立場上は伊織となんら変わりない。

 互いに引き下がれないのも、わからなくはないのだ。

(そうすると、命令を出した隊長を叩かないと駄目なのか……)

 命令を取り下げさせれば、誠一郎もそれに従わざるを得ない。

 ある意味で、慎太郎の方が攻略は手易いだろうし、それが最も確実である。

 しばらく思案して、伊織は立ち上がった。

「わかりましたよ。陸援隊に行けばいいんでしょう?」

 ただし、と伊織は条件をつける。

「復帰するわけじゃないですからね。あくまでも隊長と話をつけに行くだけです」

 すると誠一郎は、人の良い笑みを浮かべて承諾した。

 伊織が陸援隊屯所に来れば、後は思う壺と考えているだろうことは、重々見越している。

 だが伊織は、対立する相手が誠一郎でなければ、説き伏せる自信があった。

「隊長が待っちょる。馬を用意してあるきに、ついて来い」

 誠一郎は伊織の腕を掴み、さっさと土手上に引き連れて行く。

「ちょっと、逃げやしないから放してくださいよー」

「またかつぎ上げられたいがか?」

 それは嫌だ、と伊織は黙って誠一郎の後に続いた。

 二人を乗せた馬は、瞬く間に陸援隊屯所に到着した。

 昼間ということもあって、隊士のほとんどは調練に出て、内部は閑散としていた。

 誠一郎には相変わらず腕をひっつかまれたまま、隊長室へ向かう。

 なんとなく、その足が重く感じられて、引きずるように歩く。

「ちゃっちゃと歩けェ!」

「だって、ホントはあんまり会いたくないんですよ……」

 つい本音を呟いてしまった。

 けれど誠一郎は気にする風もなく、先を急ぐ。

「今更何を言うがよ。隊長に会えば、おまんの気鬱も消えるんと違うか」

 誠一郎にあっさりと返され、伊織は押し黙る。

(今日は本当に駄目だ。精神状態が悪すぎる……)

 それでも新選組で通常の隊務に就いていれば、まだ平静を保てたはずなのに、と思う。

(でも、こうして私を呼ぶってことは、今夜は近江屋に行く気はないのかも……?)

 近江屋へ行く気がないならばそれに越したことはないが、伊織が自らの目で確認することは出来ない。

 会合があるために、どんなに手こずっても、あと二刻後にはここを出ねばならないのだ。

「中岡隊長、高宮を連れ戻して来ました」

 誠一郎の声で、ハッと顔を上げると既に隊長室の前だった。

 気を引き締めて、誠一郎に促されつつ室内に入る。

 正面に鎮座する慎太郎と、目が合った。

 互いに真顔である。

「誠一郎さんが聞く耳を持ってくれないので、あなたを説得しに来た」

 始めに口を開いたのは、伊織のほうだった。

「私は新選組を出る気はない。今後、妙な使いを寄越すのは遠慮してもらいたい」

 一歩も譲らぬ構えを示して、立ったまま居丈高な声音を使った。

 慎太郎はそれには答えずに、ひとまず誠一郎に退室を命じる。

 二人きりになると、慎太郎は側に座るよう目で合図した。

「長話をする時間は、あいにく持ち合わせていない。あなたが今後、新選組に関わらぬと言ってさえくれれば、それで話は終わるんだ」

 すぐにも立ち去る気満々である。

 無駄に長居をすれば、また情に走ってしまう恐れがあるからだ。

 ところが、慎太郎は傍らの火鉢に手を翳すと、例によって伊織に笑いかけた。

「寒かったがじゃろう? こっちで火にあたるぜよ」

「そんなことはどうでもいい。私はすぐ隊に戻らねばならない」

 ぴしゃりとつっぱねるが、慎太郎の態度は変わらなかった。

「まぁそう言わず、ちくと側に来とうせぇ」

 慎太郎ののんびりとした雰囲気に、伊織は僅かに苛立つ。

 が、あくまで冷徹な面もちで一歩前に腰をおろした。

 慎太郎はそれを見ると、苦笑混じりに言う。

「伊織は相変わらずじゃのー。動揺しちゅう時ほど、冷たい顔を装っちょる」

 伊織の目が鋭利さを増す。

 陸援隊指揮官というのは伊達ではなかったらしい。

 ふとすれば、余計な事を口にしてしまいそうな気がして、自然に振る舞うことが出来ない。

(よく人を観察しているじゃないか)

 同時に自らの未熟さを痛感する。

「ずーっと、思っちょった。隊に来てからの伊織は、いっつも何かを怖がっちゅうような感じでのー」

「! ───」

 やんわりと伊織の図星を突いてくる慎太郎から、目をそむけてしまった。

「何をそんなに怖がっちゅうぜよ?」

「──何を根拠にそんな事を……」

 少なからず狼狽えた声音になってしまったことが悔やまれた。

 慎太郎は自ら伊織の前へ歩み寄ると、腕を掴んで火鉢の傍へと導いた。

「見くびってもらっちゃあ困るぜよ。おまんの事はいーっつも近くで見てきちゅうきに、そんくらいのことはわかる」

 火鉢の前まで来ると、慎太郎は伊織の肩に手を置いて、その場に座らせる。

 背後から伊織を抱えるようにして、慎太郎自らも腰をおろした。

「何が怖い? 伊織が何を不安に思っちゅうのか、気になってしゃあないがよ」

「───」

 答えられるはずがない。

 言ってはいけない、と伊織は固く目を瞑った。

 ──今夜、暗殺される。

 ──だから、龍馬のところへは行くな。

 声に出さなければ、こんなにも簡単な言葉なのに、喉のところで蟠る。

 教えれば、きっと慎太郎は龍馬を救おうとするだろう。

 龍馬の生死は未来の日本を大きく分かつ。

(教えるわけにはいかない──)

 慎太郎が伊織の身体を後ろへ引き寄せた。

 伊織は驚いて振り解こうとしたものの、羽交い締めにされて身動きがとれない。

「放せ」

「放さん。せっかく捕まえたんじゃ、もう放さん」

「………」

 抗う気力も、いつもより萎えてしまっていることは、明白だった。

「伊織が何を怖がっちゅうかは判らんけど、俺にも怖いモンがあるぜよ」

 慎太郎の声は、ひどく穏やかな響きを持っていた。

 伊織の首筋に頬を擦り寄せる。

「おまんを死なせとうない」

「………」

「おまんが誰のために命捨てる覚悟しちょろうが、そんなんはどうでもエエ。俺は、幕府じゃ新選組じゃゆうモンに、伊織の命をくれてやりたくはないぜよ」

 伊織は返す言葉を見つけられなかった。

 穏やかな口調とは裏腹に、慎太郎の腕の力は徐々に強まる。

「陸援隊に戻ってきとうせ」

「………断る」

 一言低く、しかしきっぱりと言った。

 今更もう、どうにもならない。言ってやれる限りの事は言ってやったのだ。

 伊織の決意は固かった。

 自分には、土方という守るべき主がいる。

(浮気は今日で終わりにしないとね、土方さん──)

 それでもなお、慎太郎は食い下がった。

「でかい戦になるぜよ。おまんらは賊になる。このまんま新選組におっちゃ、……生き残れん」

「承知の上だ」

「おまんを死なせとうない。そんなんは、見とうない」

「ならば目をそむけていればいい」

 慎太郎の腕か震える。

 伊織とて、いちいちつっぱねるのが辛くないわけではなかった。

 けれど、慎太郎を突き放さなければ、土方の元へ帰れないのだ。

「陸援隊に戻る言うまでは、この手は放さん」

「それは困る。今夜は外せぬ用がある」

「行かさん」

 慎太郎の腕に、さらに力が込められた。

 締め付けられる身体より、心が痛む。

 この必死の引き留めに、応えてやりたい。

 だが、そうすれば必ず後悔するであろうと、伊織は思っていた。

(……気持ちは、同じかもしれないな)

 互いに命を救いたいと願うのに、それを何かに阻まれる。

 伊織は、自ら慎太郎の腕に手を添え、目を伏せた。

「戻って来とうせ」

 伊織はこれに答えず、抱き締める慎太郎の体温を全身に感じて、確かめた。

(───生きて)

 心から、そう願った。

 そうして僅かに腕の力が緩むのを待ち、伊織は慎太郎から離れた。

「二度と使いを寄越すな」

 言って、背を向けて立ち上がると、慎太郎も追って起立した。

「おまんは俺んとこにおるべきぜよ!」

「私のことは私が決める! あなたも自分のことに専念するといい」

 冷静に跳ね返して部屋を出ようとし、襖の手前で左腕を掴み止められた。

「しつこいぞ!!」

「おぉ、なんとでも言えぇ! おまんを手放すよりマシじゃ!」

 焦りが出てきたのか、慎太郎の言動も荒くなる。

 伊織は大きく呼吸した。

「──私は、あなたが好きです」

「! そんなら──」

 少しだけ慎太郎の口調が明るくなる。

 しかしそれを伊織は遮った。

「確かにそれは、恋というものか、あるいは愛情だとも言えるのでしょう。出来るならあなたの側にいたいとも思いますよ」

「だから! 側におってくれたらエエがじゃろう!?」

 掴んだままの腕を引き、伊織を振り向かせる。

 振り向きざまに慎太郎を見た伊織の目は、好意を伝える言葉にそぐわぬ鋭いものであった。

「私には、恋愛など要らない。あなたとの恋愛よりも、ずっと重要なものがある」

「何ぜよっ!?」

「誠です」

「誠……新選組がそんなにエエがかよ!?」

「あなたには解りませんよ。私はここへ来て、新選組でしか生きたことがない。──中でも土方さんは、私の唯一の拠り所なんです。私にとって、土方さんへの誠以上に重要なものなど有り得ない」

「そりゃ、前にも聞いちゅう! そんでも俺はこの手を放す気ィにはなれん!!」

 掴まれた左腕は、ぎりぎりと締め付けられる。

 言葉通り、放す気はないらしい。

 伊織はおもむろに脇差しに手を掛けた。

「私は、この左腕を斬り落としてでも、新選組へ帰る」

 明らかな脅しであったが、慎太郎の力を緩ませるには充分な効果があった。

 隙をついて腕を引き上げ、襖を開けた。

 その刹那、伊織の正面から白刃が振り降ろされた。

 伊織はとっさに脇差しを抜き放ち、刀をはらった。

「──誠一郎さん」

 正面から斬りつけてきたのは、誠一郎だったのだ。

 誠一郎ははらわれた刀を構え直し、伊織を睨みつける。

 対する伊織も、油断なく脇差しを構えた。

「誠一郎!! 何をしちゅう!? 刀を退けっ!!」

 伊織の背後から響く慎太郎の怒声も気にかけず、誠一郎は姿勢を崩さない。

「高宮。どうあっても帰るゆうがやったら、俺はここでおまんを斬るぜよ!!」

 逆転して、今は伊織が脅しを受ける。

 抜刀して誠一郎と立ち合うのは、初めてのことだ。

「困りましたね、帰りたくて仕方がないんですが……」

「誠一郎!! 刀を退け!!」

 慎太郎が重ねて諫めるも、誠一郎は一向に刀を収めようとしない。

「高宮は敵がです、隊長。敵が逃げるんを、黙って見過ごすわけにゃいかんぜよ!」

 後半は伊織に向けられた科白である。

 痺れるような緊迫感が、たちまちに張りつめる。

「圧倒的に私の不利だな。こんなことなら、やはり来るのではなかった」

 伊織は誠一郎を見据えたまま自嘲する。

「おまんは俺には勝てんがよ。どうする?」

 確かに尋常な立ち合いで誠一郎に勝つのは難しい。

 しかし、もとより誠一郎が伊織を斬るつもりならば、今ごろは既に勝負はついていておかしくない。

 慎太郎の目前だからかもしれないが、詰まるところ、誠一郎は伊織に恭順の余地を与えているのだ。

「さて、どうするかな。あいにく私は剣術はあまり得意ではなくてね」

 新選組でもろくな稽古を受けておらず、剣技などは殆ど実戦において学んできた。

 けれど、伊織の実戦経験など、誠一郎や慎太郎には遠く及ばない。

 今は慎太郎が仲裁にまわっているから良いが、万が一にも二人を相手にすることになれば、勝ち目はまずない。

「──高宮。刀を引いて大人しゅうしちょれば、斬りはせん」

「伊織! 刀を下ろせ!!」

 慎太郎の諫言が伊織に向けられた。

 誠一郎もまたそれに伴って、刀は構えたままに説得する。

「おまんの度胸は俺も認めちゅうが、ここで無駄死にするんは、それこそおまんの誠にそぐわんと思わんがか?!」

「………」

 伊織は静かに呼吸を繰り返し、やがてゆっくりと脇差しを鞘に収めた。

 それを見届け、慎太郎は誠一郎を横から睨む。

 無言のままに、誠一郎も慎重に刀を収めた。

「伊織! 怪我はしちょらんがか!?」

 慎太郎が伊織の手を取る。

 伊織は誠一郎と睨み合ったまま、怪我はない、と返した。

「隊長。高宮は牢に入れます。エエがですね」

 一応は伺い立てる言葉ではあったが、誠一郎の声には有無を言わせぬ力があった。

 刀は収めても、伊織に恭順の意志はないことを、誠一郎は読み取っている風だ。

 慎太郎は顔をしかめたが、最終的には誠一郎に賛同の意を示した。

 新選組に帰すよりは、牢に閉じ込めておくほうが良いだろうという、誠一郎の論に折れての賛同であった。


 伊織がここを訪れてから、既に一刻が過ぎていた。



【第八幕へ続く】

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