第十幕

 

 

 深夜、日付が十八日に変わった頃、伊織は島田に呼び出された。

 屯所内はひどく静まり返っており、それはさながら嵐の前の静けさを感じさせた。

「島田さん、入りますよ」

 声をかけてから、伊織は障子戸を滑らせて入室した。

「遅くに呼び出して済まないな」

 ぽつんとたった一つ灯された火が揺れた。

 いつになく思い詰めたような島田の表情がそこにはあり、伊織は招かれるままその正面に正座した。

「構いませんよ。私も眠れずにいましたから」

 何故こんな時間に呼び出されたかは、既に予測はついていた。

 つい何刻か前に誠一郎が知らせてくれたことの結末を、島田がこれから言おうとしているのだ。

 伊織は笑いかけ、用件を言い出しかねている島田に話の進行を促した。

「無理に笑うこと、ないんだぞ?」

 山崎からは到底聞けないような優しい言葉をかけてくれる。伊織の心境を察して気遣ってくれるのだろうが、今はそれがかえって切ない。

「私は平気ですよ。心配いりません」

 ただ際限もなく切ないというだけで、覚悟は出来ていた。

 なおも気丈に笑う伊織の目をのぞき込み、島田は一つ肩で息をすると、静かに口を開いた。

「──中岡が、息を引き取ったよ。今し方、東山に向かう葬列を確認してきた」

 島田の息づかいがやたら重苦しく感じられ、伊織は目を伏せた。

「そうですか……」

「良かったのか、最期に会いに行かなくて」

「会いに行っていたら、私は今頃は捕虜ですよ」

 単調に言葉を紡ぎ出し、口元だけで笑う。伏せた目だけは、笑うことができなかった。

 島田の報告を聞いても、何となく実感というものは沸き起こらない。

 自分の目で実際に見ていないからなのだろうが、不思議なほど感情は穏やかだった。

 最後に見た慎太郎の顔が脳裏をかすめる。

「これで良かったんですよ」

 島田に、というよりも自分自身に言い聞かせるために言った。

「……辛いだろうが、高宮。俺も、これで良かったんだと思うよ」

 敵将の死に、何故こうまで暗くなれるのか、他の隊士では理解などしてはくれない。伊織と慎太郎の出逢いを知る島田だからこそ、こうして同情してくれるのだ。

「あんたは副長にとって必要な存在だ。その思い入れは、中岡の比ではないだろう」

 伊織は顔を上げた。島田が真剣な顔で土方の心情を語るものだから、少し驚いた。

「島田さん、土方さんの心の中が読めるんですか?」

「ははっ、そうじゃない。ただ、普段の副長とあんたを見ていれば、何となくわかるんだよ」

 まだ少しぎこちないが、にわかに和らいだ空気が漂う。

「そうですかね? 私はともかく、土方さんは怒ってる時の方が多い気がしますけど」

「本気で怒ってるわけじゃないってことは、誰が見てもわかるさ。副長は本当にあんたを大切にしてる」

「……だと、いいですけどね」

 伊織は、ようやっと目元を緩ませることが出来た。同時に島田も歯を見せてニッと笑う。

「私にとっては、唯一無二の人ですから、土方さんは……」

「それを聞いて安心したよ。あんたが陸援隊から戻るまでの土方さんは、正直見ていられなかったからなぁ」

 眉尻を下げて破顔する島田を、伊織は不思議な思いで見た。

 陸援隊から戻った夜の土方は、機嫌こそ悪くはあったが、別段変わった様子はなかったように思う。

「あんたを連れ戻すための手だてを画策したり、毎晩遅くまで灯をつけたまま待っていたり……。ただでも忙しいのに、あんたが心配で仕方がないって様子だったんだぞー」

「えぇー、本当に?」

 島田が嘘をつくような男でも、大袈裟な男でもないことは心得ているが、何だかそんな土方の姿を想像すると擽ったい。だから心にもなく疑ってしまった。

「本当だ。沖田さんもこのところ身体の調子が良くないからなぁ……。近くで副長を支えられるのは、高宮、あんたしかいないんだと思うよ」

「……支えられてるのは、いっつも私のほうなんですけどね」

 島田が偲び笑う。

「支え合っているってことだ。良い事じゃないか」

「えぇ、まぁ確かに」

 久しぶりに、僅かな平穏の時を過ごす。

 伊織は、その夜遅くまで島田と談笑し、副長室に引き返した後もなかなか寝付くことが出来なかった。


 ***


 翌十八日の日没の頃、土方は近藤と連れだって、近藤の妾宅へと出かけていった。

 伊織は見送りには出ず、副長室で土方を送り出した。

「今夜、行くんだろう?」

 部屋を出る前に、土方が問うた。伊織は黙ってそれに頷き、土方と目を合わせた。

「気を抜くんじゃねぇぞ。なにがあるか判ったもんじゃねえからな。……それに、今日は何かあっても助けに行ってやれねえ」

「大丈夫ですよ」

「言い切れるのか」

「陸援隊も海援隊も、ともに隊長を失っているんです。いかに新選組を疑っていようと、報復よりもまず、組織の再編成を優先すると思いますよ」

 昨夜の島田の報告の中にも聞いたが、やはり彼らは新選組が暗殺犯だと決めてかかっているらしい。

 伊織の単独行動が危険であることは確かだ。 特に、誠一郎あたりがどう出るかは、伊織にも見当がつかなかった。

 ふと、土方の腕が伊織の肩を抱き寄せた。

「! 土方さん……?」

「こういうことは、今日で仕舞いにしよう。……互いにな」

 ごく近いところで、土方の声が低く響いた。

 土方の言う、こういうこと、というのが初め何のことか解らなかったが、すぐに伊織はその真意を見つけた。

 袂を分かったとは言っても、かつての同志を粛清という名目で以て殺しに行くのである。

 これまでに何人の隊士をそうして葬ってきたか、正確な数などもはや知れない。

 しかし、本来優しい性質の土方が、それを辛く思わなかったはずがなかった。

 だからそれを、今夜で最後にしようと言ったのだ。

 そうして、互いに、というのは言うまでもなく伊織の心の迷いのことで、危うく土方を裏切りそうになるほど敵に思い入れたことを戒めているのである。

「──約束、しましょう」

 ふわりと柔らかく笑んで、自らの肩を抱く土方の手に手を重ねた。

 この手を、裏切るところであった。

 この手を守る信念を、もう二度と見失うまい、と伊織は強く心に誓った。

「──あぁ、約束だ」

 土方も笑い、それから伊織を残して副長室を後にした。


 ***


 十八日には月夜であった。

 東山の墓地にも月明かりが深々と注ぎ、辺りを静寂で包む。

 伊織は、二つ並んで立てられた真新しい卒搭婆の前で足を止めた。

 一方には『坂本龍馬』、もう一方には『中岡慎太郎』の文字が綴られている。

 伊織は花も手向けず手も合わせずに、『中岡慎太郎』の文字を目でなぞった。

「……最期に、会いに行けずに……済みませんでした」

 無表情に詫びを述べる。本当のところ、どんな顔をして良いのかわからなかった。

 卒搭婆を目前にしても、それだけではやはり実感は得られない。

 笑うことも出来ない代わりに、涙が出てくる気配もないのだ。

 乾いた風が吹き、枯れた枝葉を揺らす。

 その物悲しい音の中に、伊織を呼ぶ声が聞こえた。はじめは空耳と思ったが、何度か呼ばれるうちに、それが生きた人間の声だということに気がついた。

 声は、『伊織』とは呼んでいなかった。

「高宮」

 と、姓で呼ばれた。

 振り返ってみると、三間ほど離れたところに誠一郎が佇んでいた。

「なんで、来てくれんがやった」

 立ち尽くしたままの誠一郎の表情は、明るい月光を以てしても窺い知ることが出来ない。 唯一、声がひどく沈んでいることのみ感じ取れた。

「──だって、行かないって言ったじゃないですか」

「隊長はずっと、おまんが来るんを待っちょったがよ!」

 語気を強め、誠一郎はゆっくりと伊織の傍へ歩み寄る。その距離が間近になると伊織は誠一郎から目をそらし、慎太郎の眠る方を眺めた。

「私は敵なのだと、あなたも言っていたじゃありませんか。……その敵が、どうしてわざわざ捕らわれに行くものですか」

 伊織は口元に微かな嘲笑を浮かべる。

 今の誠一郎には、いつもの覇気が微塵もない。如何に語気を強めても、どこか息の抜けたような声音に聞こえた。

 こんな誠一郎ならば、恐らく伊織でも打ち負かせるだろうと思われた。

 暫く重い沈黙が続き、背後の誠一郎が押し殺した声でそれを破った。

「おまんの正体は、今も俺と隊長しか知らん」

 伊織は思わず誠一郎を振り仰いだ。

「──皆に、公表していないんですか」

 意外なことだった。誠一郎はとっくに、伊織が新選組の間者であったことを公にしているものと思っていた。

「俺も、新選組は好かん。奴らのせいで多くの同志が死んだ。──けど、おまんのことは憎めんがよ。敵じゃゆうても、どうしても割り切れん」

 本当は、たった一度でも太刀を向けてしまったことを後悔しているのだ、と誠一郎は語った。

 互いに静かな長いため息を吐くと、誠一郎はふと思い出したように言った。

「おまんが隊長に言うた通り、宮川さんは陸援隊に入りゆうことになりそうじゃ」

「それで、隊長はわざわざあの日に近江屋まで相談に出向いたんですね。……愚かなことを……」

 頬に、誠一郎の吐息が届く。

「隊長は、坂本先生におまんのことを相談しに行ったんじゃ」

「──私のことを?」

 腑に落ちない顔で尋ね返すと、誠一郎は大きく頷く。

「どうしても、死にに戻らせとうなかったがじゃろうの、隊長は」

 言い終わらぬうちに、誠一郎の右目から一筋涙がこぼれた。それに気づき、伊織はおもむろに懐紙を取り出して誠一郎に手渡す。

「……こんなことを誠一郎さんに話しても、言い訳にしかならないのでしょうけど……」

「何じゃ」

 伊織は空の高みを仰いだ。

 木々が風に揺れ、不規則に月と星の光を遮る。

「私は、中岡隊長を好きになりきれなかったのだと思うんです。口に出して好きだと言ったことは一度か二度ありましたけど……、心の中では常に隊長を好きだと思っていました」

 だけど、と伊織は間を開けずに言葉を繋ぐ。

「それは、同情、というものだったのではないかと思うんです」

「……同情……」

 伊織の目に反射する月光を見つめながら、誠一郎は呟いた。

「そうだとしても、隊長のことは本当に好きですよ。今でもね。ただ、一番ではないというだけです」

 もしこれを慎太郎が聞いていれば、一体どんな反応を示しただろうかと考え、誠一郎は思わず俯いた。

「中岡隊長の、最期の言葉は……何じゃったと思いゆう?」

 伊織は軽く、さぁ、と返す。

 目前にまで迫った討幕決起を、同志たちにしつこく託したであろうことは容易に想像できる。一挙の日は近いのだと、皆の士気を散々高めて逝ったに違いない。

「伊織、ぜよ」

 伊織は誠一郎に視線を戻す。

「私の、名を……」

 誠一郎が悲しげに笑った。

「隊長にとっちゃあ、今でもおまんが一番なんじゃ」

 初めて、涙が出た。

 危篤の知らせを受けた時以来の涙であった。同時に何故かおかしさを覚えて、伊織は泣き笑った。

「ははは……っ、最期まで、敵の私を呼ぶなんて、……馬鹿ですねぇ」

 その馬鹿みたいな素直さが、なお愛しくて嬉しかった。

 慎太郎が笑いかけてくれても、自分はいつも憮然としてつっぱねていたのに。

 向けられた笑顔に微笑み返せたことなど、果たして何度あっただろうか。

 最後に自分が慎太郎にかけた言葉の冷たさは、どれだけ彼を傷つけたことだろう。

 そればかりか、慎太郎の生涯最期の願いさえ、聞き届けてはやらなかった。

 それでも。

 こんな自分を嫌うどころか、命の尽きるその時まで、心から想ってくれる。

「……強いですよね、あの人は」

 心底、尊敬した。

 自分の想いを、いっかな受け入れようとしてくれない相手を、こうまで求め続けることなど、そうそう出来ることではない。

 慎太郎には頭が上がらないな、と思う。

 誠一郎も、伊織の複雑な表情を今は穏やかに見つめていた。



「やっぱり、新選組を脱ける気ィはないがか」

 伊織は手の甲で涙をぬぐい去ると、誠一郎に笑いかけた。

「ええ、ありません。あそこが私の居場所ですから」

「隊長は、きっとおまんにゃ生きて欲しいと思うちゅうぜよ」

「それなら、なおのこと脱けられませんよ」

 いつか土方と共に戦場に立ち、土方を守って死ねなければ、慎太郎にも合わせる顔がないじゃないか、と伊織は言う。

「どうだ、私の誠は本物だっただろう、って言ってやるんです」

 誠一郎はくすっと吹き出した。

「まったく、大した人物ぜよ、おまんは」

 そうして誠一郎は懐から何かを取り出し、伊織の前に差し出す。

 緋色の下げ緒だった。

「……これは?」

 受け取らずに、尋ねる。

「中岡隊長からじゃ。受け取れ」

 伊織の付けている下げ緒が大分古くなっていることに気がついて、忙しい中を何軒も店を廻り、ようやく伊織に似合う物を見つけたのだと、誠一郎は説明してくれた。

「いつの間に……」

「おまんが新選組監察を名乗った夜に、渡すつもりがじゃったらしい。渡しそびれたままじゃ気が済まん言うて、俺に託したがぜよ」

 伊織は下げ緒を手に取り、月に照らして見入った。

 素材は絹の、上質なものだ。

 鮮やかな緋が、月光に浮かび上がる。

「惚れた女子への贈りもんが、下げ緒とはのぅ」

 少し情けなさそうに、息混じる声で誠一郎が言った。

「いや、私には女子用の小間物より、こちらの方が合ってますよ」

 優しく微笑みながら、伊織は下げ緒の両端を摘んで高く掲げた。

「それを持っちょいてくれりゃあ、おまんが死んだ時に中岡隊長も迷わず迎えに行けるがじゃろうの」

 それとなく嫌味を言う誠一郎に、伊織は肩を竦めた。それを合図に二人は屈託もなく笑い合った。

「この時勢でなければ、あなたとは無二の親友になれたでしょうね」

 不意に笑うのをやめ、伊織は誠一郎を正面から見た。

「……親友?」

 困惑した風な誠一郎の反応で、伊織は、あぁ、と気付く。

 『友達』という概念は、この幕末にはまだ普及していない。

 明治以降になって初めて登場するものなのだ。

 この時代ではそれに代わる、

「義兄弟」

 というものがある。

 誠一郎は口を歪めて、よせよせ、とあしらった。

「隊長が、まぁたヤキモチやくぜよー」

「ふふっ、それは困りますね」

 ひとしきり笑うと、伊織は今一度慎太郎の眠る方を見やり、それから完全に背を向けた。

「もう、行くがか」

「ええ、忙しくなりますからね」

「これが、永の別れになるがじゃろうか」

「……そうであることを願っています」

 続けて短く、それじゃあ、と別れを告げ、伊織は誠一郎の横を擦れ違った。

 誠一郎の見送りを背に受けて、月明かりの中を確かな足取りで行く。

 もはや振り返りはしなかった。

 間もなく訪れる、新選組の冬の時代に立ち向かうために。

 ただ、前だけを見た。

 土方の元へ戻るために。

 その手に、緋色の下げ緒が静かに揺れていた。



【了】

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