第4話 シンシアのワルツ

 私がこの世界に入って間もないころ、そう前の前の店のころです。私はまだアルバイトでやっていました。

 昼も仕事があったので、出勤時間は普通は6時ですけど私は7時にしてもらっていました。それでも会社が終わってから家に帰って支度をして、店に出るのは大変でした。


 その日は家に帰ってから大急ぎでシャワーを浴びて、化粧をして洋服を選びました。でもまだ持ってる洋服が少なかったので、買ったばかりの黒いドレスで店に入りました。すると店長が、

 「なんだお前のその格好は、今日はもういいから帰れ」と言いました。

 「どうしてですか?」と、聞きました。


 「あのな、うちは葬式屋じゃないんだ、黒い服はだめだって知ってるだろ」

 「えーっ、そうなんですか知りませんでした」


 「まあ、いいからこっちへ入れ」と言われて事務所に入ると、店長がいろいろと話してくれました。


 「お前はアルバイトだし初めてのことだから、分からないこともあると思うけど、店の中では女の子は花でなくちゃならないんだ、俺たち男の店員が黒い服を着るのは、花を引き立てる黒子だからだぞ、歌舞伎の黒子って知ってるよな?あれだ。

 男はたとえいても、いないかのように振る舞ってるわけだ。なのにお前が黒い服を着たらおまえも黒子になってしまうだろ」


「お前は花になれ」と言った店長の言葉はひびきました。


「今日は欠勤扱いにはしないから、帰ってもいいし、着替えてくるなら9時までにな」 

「はい、着替えてきます」


 私は花になると決めました、プロのキャバ嬢を目指すきっかけでした。

〈ほかにも理由があるけどそれはいつか〉


 それで、今の店の話に戻りますね、

 私は、この店で気になることがひとつだけありました。それは虫です。

 ゴキブリじゃないですよ。

 ゴキブリは駆除の会社の人が、ちゃんとやってるから大丈夫なんだけど、もっと小さくて白っぽい虫がたまにちょろちょろしてるのです。

 本当にたまにですよ、一番こまるのはそいつがテーブルの上にまで上がってしまったときです。


 発見してもお客さんの前でどうしたらいいのか分からなくなってしまうのです。

 それで、今日は私の目の動きでお客さんにも、分かってしまったみたいなのです。

 お客さんが「これ、茶店虫だね」と言って、ティッシュペーパーでスッとおさえてクルクルっとやりました。

 私はフロアマネージャーを呼んで、ティッシュペーパーのかたまりを処理してもらいました。でもその後お客さんは、手が震えていました。


「本当は俺、虫が大嫌いなんだ、今は必死でやったけど心臓がとまるかと思った」

 私も虫と相性が悪いんです。お客さんはそれを分かったみたいで必死でやってくれたのです。


 そのお客さんが結婚する前、デートの時に喫茶店で同じようなことがあってどうしようかと困ってたら、彼女がティッシュでおさえました。彼女はそのティッシュのかたまりを、グシャッと握りつぶしました。あの時は怖くて声が出なかったっ言ってました。


 それで今日は私の前でどうすればいいか迷ったけど、あの時の彼女を思い出して勇気をだしてやってみたけど、さすがにグシャはできなかったと言いました。


 実はこのお客さんはマジックが趣味で、アマチュアなんだけどいろいろな施設にいって披露している人でした。手元を見られるのは慣れているはずなんだけど、私の前でそれが生かせなかったって悔しがっていました。

 本当はそのティッシュをスッとどこかに、隠したかったのね「プロの道はまだまだ先だ」って、どの世界もプロってたいへんですね。


 それで今日の最後のお客さん、この人は本当のプロなんです。

 私分かっちゃいました、この人がプロだってことを、

 音楽家ってことは聞いていたんだけど、本当に音のプロだってことを。

 しかも遊びでもプロだってことを。


 どこの店でも最後に流れる曲は蛍の光でしょ。

 でもその前に流れる曲は店によってちがうけど、毎日必ず同じ曲なんです。

 それは閉店の時間が迫ってることを女の子に知らせるためなんです。

 時間ですからすぐ帰ってください、とはいえないでしょ。

 お客さんにお帰りの準備をしてもらう時間をかせぐためなんです。


 それに女の子は時計を店内に持ち込んではいけないのです。

 時計をみるのはキャバ嬢としてやってはいけないことなのです。

 それでBGMで時間を知らせるのです。

 (ほかにもあるけどね、それもまたいつか)


 それで、うちの店の蛍の光の前に流れる曲は〈シンシアのワルツ〉って曲です。

 どんなメロディーかは聞いてもらわないと、わからないと思いますけど。

 〈もし、この曲名を知っていたとしたら、あなたこの世界の達人かも知れない〉


 そのお客さん〈シンシアのワルツ〉が流れた瞬間、

「あっ、時間だね、お愛想」


 音に敏感、店のシステムをよく知っている、いつまでもダラダラしない。

 さっそうと引き上げたその後ろ姿にプロを感じました。

 私もプロのキャバ嬢をめざしてがんばります。


 それじゃあ、今夜もおやすみなさい。


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