第5話 ドクトルジバゴ
今日出勤すると新しい女の子が一人いました。
私もまだ新入りだから、女の子全員の顔と名前を知ってるわけじゃないけど昨日までは居なかった子です。朝礼で「今日は10人のグループの予約があるからそのつもりで、エルダーさんにもきてもらってるからよろしく」店長の言葉でそのひとがエルダーさんだってことが分かりました。
エルダーっていうのは、一度辞めた子を特に忙しい時だけ来てもらう人です。クリスマスの時なんかよくあることです。
今日のエルダーさんはすっごく綺麗な人です。
かわいいというタイプじゃなくて本当に綺麗な人です。。
店長のお知り合いかな?名前は美咲さんと言います。後で知ったんだけど美咲さんはすごい伝説の持ち主だったのです。
なんでも卒業した高校の校長先生が来店したことがあってその時、その校長先生にお説教をしたことがあったのです。
ある学校で先生の不祥事があって、新聞でもテレビでも報道されていました。
美咲さんはその学校の卒業生でした。
それで、その問題が話題になってたころに、その学校の校長先生が来店しました。
普通は自分の学校の先生が来店したら逃げたくなると思うんだけど、美咲さんは違いました。
自分から店長にお願いして席につかせてもらったのです。
そこで例のお説経をしました。
その後、問題を起こした先生と校長先生は同時に辞職してぜんぶ解決しました。
それで、今日の10人のお客さんなんだけど、競艇の選手の祝勝会でした。
私、競艇のことはなーんにも本当になーんにも知らないから、なにもかも「ふーん、ふーん」で終わってしまいました。
そのお客さんがお帰りになった後、美咲さんは私におっしゃいました。
「珠理さん、今日はよくできていたわよ。ただ一つお客さん10人なのに女の子が9人の時があったわよね」
「はい」
「そのとき、あなたの隣のお客さん一人になったわよね」
「はい」
「そのお客さんは、あなたに何をしてたの?」
「私のひざの上に手を」
「それで、あなたはどうしたの?」
「ただ、だまって……」
「そう、ほとんどの女の子がみんなそうなの、でもそれじゃだめなの。そういう時はそのお客さんの手の上に自分の手を重ねてあげるのよ」
「えっ、そうなんですか?」
美咲さんの答は私が考えていたことと全く逆でした、美咲さんならきっと「なに
をするの」とその手を払いのけるのかと思っていたのにそうじゃなかったのです。
「女の子はみんな自分のひざの上にハンカチを置いてるわね、あれ何のため?」
答えられませんでした。ただ習慣でやっていました。
「お客さんの手に自分の手を重ねたら、その上にハンカチを被せてその手を隠してあげるのよ。一般の社会では女の子のひざの上に手を載せるなんてセクハラ行為だけど、キャバの世界では許容範囲でしょ。その行為を他の人から見せないようにしてあげるのがキャバ嬢の務めなのよ。それにね、ひとりになってしまったお客さんはなにをしたらいいの?これはフロアマネージャーの責任なんだけど、仕方がないこともあるわよね。そこをカバーしてあげるのがキャバ嬢の勤めなのよ。そんな時のお客さんはママにかまってもらえない時の子どもなの、兄弟ふたりいて下の子とママと遊んでいるとき、お兄ちゃんもかまってほしいものなのよ」
キャバの世界では、ひとりのお客さんにひとりのキャバ嬢が基本です。でもできないこともあります。そんな時はフロアマネージャーも苦労をしているのね。
なにもいう言葉がありませんでした。
この店には大きな画面のモニターが設置されています。
ふだんはたんに癒し系の映像が映し出されてるだけなんだけど、希望するお客さんには映画や古いトレンディドラマなどをみることができます。
今日、私を指名してくれたお客さんは、ここで映画をみるのが唯一の楽しみらしい人でした。最も見やすい席に案内されたお客さんのことは、他の女の子も知っていました。
キャバクラに映画を観るだけの目的で、ほぼ毎週来る珍しいお客さん、いやありがたいお客さんです。
そのお客さんは店の外にある写真の中から新人の私を選んで下さって指名したらしいのです。
そのお客さんが今日観るのは〈ドクトルジバゴ〉という映画です。
すごく長い映画なので数回に分けてみるんですって。
音はヘッドフォンで聞きます。でもお客さんは使用してませんでした。
ただ、じいーっと静かに穏やかな目で画面を見ていました。
飲み物はウーロン茶です。
「君は好きなものを飲んでいいよ」
「じゃあ、同じものを頂きます」
ふたりはただ並んで映画をみるだけです。無言のまま音のない映画をみました。
私はお客さんの手をそーっと握りました、骨ばったごつごつした手でした。仕事をながいこと続けてきた男の手という感じがしました。
その手を私のひざの上に置いてみました。お客さんは何もいわずまるで注射をする看護婦さんに腕をあずけるような感じで、私が手を重ねてもじいーっとしていました。その上にハンカチを被せてそのまま同じ姿勢でずーっといました。
その人は目を伏せていました。もう画面も見ていませんでした。
なんとなく泣いているかのような感じがしました。
この人はただ、だれかと一緒にいたかったんだ。寂しかったんだ。
私にも何かをしてあげることができるんだってことを教えてくれました。
なにもしてあげなかったのに、自分が聖母であるかのように思わせてくれたお客さん。ほんの一時間ほどの間に私の全てを見抜き、教えてくださったエルダーの美咲さん。ありがとうございます。キャバ嬢の道をきわめたいと思います。
それでは、感謝の気持ちを込めて、今夜もおやすみなさい。
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