19話 この身の後悔

 僅かな明かりを頼りに、床にこぼれた赤ワインを白のクロスで拭っていると、重く低い足音が耳に飛び込んできた。

 秘密の2階にやってきたのは店のマスターであるブルート兵。

 その子は僕の姿を確認すると少しだけ顔をしかめて、しゃがみこんだ。

 わきに携えた木の籠からクロスを取り出し、僕には席に着くよう言う。


「貴方様が床に膝をつくなど、あってはなりません。次からこのようなことがあれば、すぐにわたくしめをお呼びください」

「いや……でも、こぼしたのは僕だし」

「シルトパット様。御身はブルートのトップであると、いい加減お判りになってください」

「トップなのに部下の手を煩わせるのはどうかと思うよ」

「……貴方様は、ちっとも変わりませんね」


 ため息を吐いた後の、彼の表情は明るい。昔のままだ。

 スラム街出身のこの子は、上下関係というものに怯え、苦しめられ、下の者という扱いに心身ともに慣れてしまっていた。

 ブルートでは、違う君を生きてほしい。僕が最初にそう言ったことを覚えてくれているだろうか。

 彼は籠から新しいワインを取り出し、グラスに注ぎ入れた。


「最高級のゴーネル赤ワインです。スフェーン様が貴方様に渡すよう言い残して店を出ました」

「あの子はもう行っちゃったのかな?」

「えぇ。おそらく。命令に従い、五分間人の出入りを禁じたのです。きっかり五分後に様子をうかがったのですが、もうスフェーン様はいらっしゃらず」

「…………なるほど」


 スフェーンのプレゼントの意味を悟り、僕は自然と体がこわばる。

 顔に出てしまったんだろう。彼が何も言うことは無かったが、心配そうに僕の顔を見つめている。


「……素敵なワインをありがとう。もう、下に戻らないとお客さんに怪しまれちゃうよ」

「……承知いたしました。何かあればなんなりと」


 彼が去るまで、僕は何とか笑みを浮かべていた。

 再び一人になったこの部屋がさっきよりも暗く感じて、いたたまれず天窓を開け放つ。

 鋭く光る三日月がよく見える晴れた空。

 剣の名を持つそれに、赤ワインを翳して、耐え難い胸の痛みを感じながら瞳を閉じた。



 見つけるまで会わないつもりだった。

 僕が会うべきではないと思っていたから。

 下調べでは正しい情報がつかめず、裏の世界の噂話を半信半疑で受け取っていた。

 彼の子が一人で暮らしているというそれを。


 ラピス戴冠式が延期になり、不機嫌な貴族たちがひしめき合って騒がしい街道を抜け、ニジェルについた時……自分を斬りつける刃を赤い瞳に映すその子を見て、ゆれる黒髪を見て、その子の今までを思った。


 ゴーネルに生まれたからこの子は……消えそうな命を必死に抱えて今日まで生きてきたのか。


 小さな体には古傷がたくさんで……ただ、もう傷ついてほしくないと思った。

 心も、体も。

 ジュリアスのことも、何もかもを秘密にしておこうと決意した。

それでいい。

 だけど……


『いま、夜なの』

『…そう、だけど』


 確信した。

 君がと分かった以上、僕は手ぶらで帰るわけにはいかなくなった。

 プレラーティ達が何をしようとしたかは全てわかっていた。

 今の時代において実現するわけがないと僕等ブルートは見ていたのだけれど……遅いとわかったのは連れてきた後だった。

 なる前に君のもとへ会いに行きたかった。

 もしも、全てを打ち明けたら、この子は絶対に悲しむ。

 けれど事態は一刻を争う。

 

 何も気づかないで……傷つけたくないんだ。


 ただそれだけを願っていたはずなのに……僕は間違いなく、誰よりも、彼の心臓を大きな刃物で刺し抜いてしまった。

 普段なら気づけたはずなのに、一つの懇願を果たすために随分と視野が狭くなっていた。

 気がつくのが遅かった。


 あの子は言っていた。


『父さんはもう死んだよ。ここはがやってるの』


 大切にしまってあったあの絵にはあの子とあの子の大切な人が確かに写ってた。


『エスティー、エスティー……ポードレッタ』

『大人になったらそう名乗るからいいの』


 その名の意味を、汲み取ることができなかった。


 ブルート兵である以上、勝手な行動はできない。

 ならばいっそ、僕が帰るこの場所を捨ててしまえば、あの子の大切な人を探しに行けるのか。


 胸がつぶれそうになった。だけど、迷いはなかった。


 僕はその日のうちにルチル様に覚悟を示した。けれど、それを受け取ることはなかった。

 やさしいあの方は、許されない失敗を犯した僕にまだチャンスを与えてくださった。



 あの子と最後に会ったのは10年前。

 雪の降りしきる中、雲間からフロスティムーンが高く上っているのが見えた。

 耳が痛くなるほどの静けさに包まれた深夜、僕は彼の部屋のドアを開け寝台の傍らで足を止めた。

 顔は青白くなり、腕には傷がついていた。爪に赤黒い血が固まってこびりついている。

 頬には涙の緒がべったりと張り付いて、僕はそこに立っているのがやっとだった。

 それほどまでに、嫌な予感がした。

 罪悪感や後悔、それ以上に強い感情が僕の胸の内を染め上げた。


 お願い……気のせいであってくれ。気づかないでくれ。君のせいじゃないんだ。


「……エスティー」


 囁くような声で呼びかけるが、固く閉ざされた眼が開くことはない。


「僕は君の大切な人をさがしに行ってくる」

「……」

「それまで、どうか……僕たちを怨んでいてほしい」


 ギュッと目を瞑り、天に祈った。

 どうか届いてほしい。どうか。

 だけど、僕の願いはまたしても叶うことは無かった。


「ひっどい顔……」


 聞こえたのはまだあどけない男の子の声。

 弾かれたように目を開けた。僕を見てあの子が困ったように力なく笑う。


「もう、無理だよ」


 その表情がすべてを物語っていた。

 僕の愚かな策略は全て負の方向に働いた。


「俺は犯罪者の息子で、本来なら牢屋にいられていてもおかしくないんだろ」

「それは……違うよ」


 生ぬるい優しさを受け入れるような子じゃない。わかっていても、余計傷ついてしまうとわかっていても……そう言いたかった。

 あの子の赤い目が僕を睨みつける。震えた声で、涙に潤んだ瞳で手を伸ばした。

 胸ぐらをつかまれ体がガクンと傾く。


「じゃあなんで怨めと言った……なんで何も言わずに連れ去った……その事実が示す答えはたった一つ。そうなんだろ」


 頷いたりなんてしない。だけど、聡いあの子は僕の嘘も沈黙の意味もすべて見破ってしまう。

 たどり着いてほしくない答えにちゃんとたどり着いてしまう。


「怨んでいれば、お前らに責任を押し付けられる。お前らの心の裏も完全に見えなくなる」


 うん、そうだよ。そうであってほしかった。

 ……なのにどうして、どうして君はわかってしまうんだろうね。

 自分が今、どんな顔をしてるかはわからない。

 睨んでいたはずのあの子がふいに俯いた。つかみかかっていた手も力を亡くし音なく落ちる。

 息を吐きだす音がした。その瞬間あの子の口から乾いた笑いがこぼれる。


「人殺しになったら手が汚れるなんて生ぬるい考えだったんだな。俺は最初っから全部全部全部……やっぱり汚れてたんだ」

「それは違う!」


 自分でも驚くくらい大きな声が出た。あの子の肩をつかみ無我夢中で言葉をかける。


「君は悪くない!本当だ!悪いのは……悪いのは、僕たちなんだ。あんなことが起きなければ……君もあの方も」


 手に収まる小さな肩が小刻みに震えだした。


「エスティー……?」

「……どうして、そこだけ嘘をついてくれないんだ」


 君がどんな感情なのか、わからなくなった。

 俯いた顔を見て確認しようとするけれど、あの子は傷だらけの腕で目をこすっていて、僕からは何も見えない。


「どうして……あんたらは、そうなんだ」


 ぎこちない呼吸でそう吐きだしたそのあと、赤い目が僕をギッと睨みつけたと思ったら、あの子は腕を振り上げて僕の胸に幾度も幾度も幼い打撃を叩きこんだ。


「……怨んでほしいなんて言うくらいなら、もっと俺を叩きのめせよ!石を投げろ!蹴って殴れ!指さして嘲笑え!どうして……!」


 泣きじゃくりながら肩で呼吸して、あの子はまた腕を落とす。


「どうして頭をなでるんだ。どうして笑って話しかけるんだ。

 どうして、冷たいふりをして俺に優しくするんだ」


 かける言葉が見当たらなかった。

 どうして、なんて……僕は、僕たちは君に傷ついたほしくなかったからだよ。

 そんなことを僕が……僕だけは言えるわけがなくて口を閉ざすしかない。

 黙ったままの僕を見てあの子は眉根を寄せる。

 一層呼吸が荒くなって、幼い声がざらついて耳に刺さった。


「本当は、もうわかってる。父さんのことも、ディディエのことも、全部俺が悪いんだ」

「どうして……!違うよエスティー!」

「本当にそう思うのか……ディディエは薬草を取りに出かけた。ラピスから来た客も、ルチルも言ってただろ。俺は有名だって、は有名だって」

「っ……」

「あの日あいつは薬籠を持った黒髪の人間だった。ニジェルの黒髪の薬屋だった。

 ……本当は、俺がいなくなるはずだったんじゃないか」


 赤い瞳から大粒の涙が堰を切ったようにあふれ出す。


「あの子は俺の代わりにいなくなってしまったんじゃないか。

 父さんみたいに、俺が……!」

「もういい!」

「じゃあなんで俺に人殺しを強制するんだ!」


 また、かける言葉が見当たらない。


「それは……」


 それだけは、いえない。君にだけは……


「罰なんだろ!父さんの犯罪に対する報いを俺が受けろってことなんだろ!」

「違う……!違うよ!」

「じゃあどうして……!」


 精一杯、言える範囲で君に届くように思いを込めた。


「……君に明かすことはできない。だけど、君が悪いんじゃない。僕たちが、ブルートが……悪いんだ」


 だけど、また何もできなかった。

 あの子の瞳からはさらに涙があふれ出て


「だからもう無理なんだよ!……もう、誰の所為にも、できないんだよ……!」


 そう叫んだきり倒れるようにベッドの上に顔をうずめてしまった。

 震えを収めようと骨が浮き出た背をなでる。


「じゃあもう……もう何も考えないで……僕が見つけるから。僕が連れてくるから。どうかもう……」


 自分を責めないでくれ。

 その言葉も僕だけは言う資格がなくて、あの子が泣きつかれて寝た後、一人静かに城を去った。





 情けないことにいまだ僕は、あの子に会う資格がない。

 あの子のいた山も、あの日国境街道付近に居た帝国とラピスとゴーネルの貴族も、調べつくした。裏社会も秘境の村も都市も外の大陸も全部……全部。

 10年間、探し続けているのに手がかりは見つからない。

 自分の無力さを常に痛感していて胸に大きな穴が開いているような心地がする。

 月を見ると、特に……



 ……スフェーンの肚裡とりはわかっているけれど、僕だけは、あの子の前に現れてはいけない。

 だけど、この状況なら、知られずになら、密かに守ることくらい許されるのだろうか。


 赤ワインを拭った際についたのだろう。白いシャツの袖口に赤がこびりついている。


「やっぱり……だめだよね」


 あの日から、僕の体には拭えない返り血が今も温度を失わず滴り落ちているのだから。

 現れてはいけない。絶対に。


「だけど……」


 ごめん。


 僕はまた胸がつぶれそうになった。だけど、迷いはなかった。

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