18話 その名は残酷

 友を見送り扉を閉める男。

 バタンと音がしたその瞬間、酒場から一人の気配が消えた。

 薄暗い酒場の中でも黄が強い金髪は目立つはずなのに、その人は気配無く音もなく闇の中を行く。

 ゆらりと現れたときにはもう階段の踊り場にいて、遠方からアッシュグリーンの瞳が店の主の姿をとらえる。

 猛禽類のような鋭い眼光に気が付き店主は客の目を盗んで最敬礼をした。

 その人は再び闇の中へ紛れ階段を上ると、秘密の2階席で先に待っていた客に挨拶をする。


「早いですね。


 無表情で抑揚のない声のぶっきらぼうなそれを「先生」は特に咎めなかった。

 赤ワインの入ったグラスを燭台のそばに置いてその人に座るよう促す。

 そして一息置かぬ間に口を開いた。


「あの子は……あの子のまわりでいったい何が起こってる?」

「さぁね。の書いた内容は嘘だったけど、エメの身に危険は迫ってない……なら俺は干渉しない。好きにさせときますよ。

 エメに何かやらせたいのは先生たちだけですから」

「そうだね、僕たちだけだ。あの子に残酷を強いるのは」


 燭台の明かりが届かないその陰の中の顔を探るようにアッシュグリーンの瞳は鋭くなる。


「……その理由は?」

「言えないよ。これは僕とあの方とルチル様だけの秘密なんだ」

「本人もわかってないみたいですけど?ブルートらしくない。さっさと理由を言えば、エメだって動くかもしれない」

「だめだよ。それは……絶対に」


 ひときわ大きな声で「先生」はそう言った。

 けれど、その人は刺すような鋭い声に眉一つ動かさずニヒルな笑みを浮かべる。


「あぁわかった。エメを守る以外のもう一つ違う理由があるんだ。誰かの何かを守るための秘密とか?たとえば……ルチル様、とかね」

「……」


 沈黙が答えである。その人が知らないわけがなかった。

 見透かしたその人の口にきれいな弧が描かれる。


「ほんと先生って諜報機関サイファーに向いてないですね。馬鹿正直」

「自分でもそう思うよ……だけど、君もそうじゃない?」

「何が」


 世に二つとない端正な顔が眉をしかめる。ぼそりと呟いたその声は露骨に不機嫌だった。

 常人ならば委縮してしまうその睨みを意にも介さず、「先生」は続ける。


「君が笑ってるとこ、見たよ。あの子の前だとあんな風に笑うんだね」

「あいつは純粋だから。怖い顔で接したらすぐに心を閉じる」


 無表情なその人を見て、「先生」は眼鏡を直しグラスをもてあそんだ。

 燭台のもとに再び置かれたグラス。

 芳醇な葡萄で作られたワインレッドはろうそくの光を決して通さない。


「……あの子の前の君が本物なんじゃないの」

「違う」


 アッシュグリーンの瞳に橙の光が揺らめく。ゆっくり瞼を閉じ、顔を隠すように俯く。

 少しの沈黙の後、その人の肩が小刻みに揺れ、唇から漏れ出たのはひたすら冷たい嘲笑。

 おもむろにあげられたその顔はぞっとするほど無機質で、美しい笑みを浮かべていた。


「先生、酷いですね。俺のこと知ってるくせにそんなこと言うんだ」


 からかうような言葉は血濡れの銀ナイフのようにつややかに、鋭く、聞く者を突き刺す。

 けれど、聞き手である知恵者は傷ついてはくれなかった。

 どこまでも冷静にその人を見据える。


「君の肩書も教えないのは、本当にあの子に嘘をついてるからなの?

 僕は……僕の目には逆に見える。君の積み重なった肩書うそをとっぱらってあの子に接したいから。違う?」

「違いますよ。俺は先生やエメみたいに、平和な世界で生きてきた人間じゃないんです

 ……約束なんて信じるに値しない裏切りの世界です。お里がそこなんだから、俺の中身なんてたかが知れてる」


「先生」は言葉を失った。

 形だけの笑みが消え、愁いを帯びた瞳は宙を彷徨う。

 想像しかできない、でもそれでは追いつかない。

 常套句では余計に傷つけてしまいそうで……その人の悲しみに、寄り添う言葉を見つけられなかった。


 どれだけの時が流れただろう。


 彷徨い漂っていた瞳がふいに光を宿した。

 何かを考えるように瞬きを繰り返し、意を決したように真っ直ぐに「先生」を見つめる。


「ねぇ先生。俺の代わりにあいつのこと見ててくれないか」

「え……」


 瞬間、緊張が走る。

 手がグラスに当たり赤ワインが机の上にこぼれる。

 何を言われても動じなかった知恵者が初めてその人の言葉で取り乱した。


「でも……僕は君を助けるために来たんだよ」

「思いがけずエメの状況は把握できましたし、俺の件は俺がやります。

 ……先生がエメラダに会わないって決めてるのは知ってるけど、今回は嫌な予感がする」

「嫌な予感?」


 何を考えたのか、その人の顔がぐしゃりと歪む。

 いつも本性はつかめない。その人が珍しく本当の顔をしていた。

 誰が見てもはっきりわかる激しい憎悪の表情……


「……ウェルナリスの隣り、知ってる?」

「確か、十数年前に男爵が亡くなって……今は男爵夫人が領内のトップ」

「その男爵夫人、誰だか知ってますか」

「確か……名門の」

「そうです。あの国の領邦の名門貴族」

「ただし……いわくつき……だったね。だから君は姿を現せないのか」


 力強く頷くとその人は何かを祈るように手を組んだ。


「頼みますよ……万が一にでもエメを死なせないでください」


「先生」がすぐに返事をすることは無かった。

 燭台を遠ざけ、その顔はますます見えなくなる。

 少し間を置き「先生」が口にしたのは


「……君はこれからどうするの?まだ何もつかめてなさそうだけど」


 返事をはぐらかされたとわかっていてもその人は追及せず、ただ返事をする。


「そうなんですよ。だから俺はね、ちょっと工夫してみようと思ってここででもしようかと」


 その言葉は諜報機関サイファーにだけわかる暗号。任務中のとある行動を知らせるもの。

「先生」は工夫の意味を理解し相槌を打った。


「あぁ、それで……あの子を近づけたくなかったのか」

「えぇ。心臓が止まるかと思いましたよ。エメラダがこんなド田舎に来てて、ここに来るなんて……

 グーが知らせてくれなければ……俺の偽りが白日の下にさらされるところでした」

「間一髪だね」


 懐から取り出したクロスをこぼれた赤ワインにかぶせると、その人は身支度しながら立ち上がった。

 籠手こてをまき直し、クロスの代わりに鉄笛てってきをしまいこむ。

 そして「先生」に軽く礼をすると踵返して


「結果は出すよ、俺はね。エメのことがひと段落着いたらまた会いましょう」

「スフェーン!僕は……」


「先生」の言葉は聞かずにひらひらと手を振るとその人、スフェーンは階段の下へ去っていった。






 再び階段の踊り場へ現れたスフェーンに店主は目配せをした。

 カウンターには二十代後半ほどに見える一人の男。

 白シャツにジレを重ねズボンはブリーチズ、狼の革靴は丁寧に磨かれている。

 スフェーンは洒落男から一つ離れた席に腰かけた。

 すると、男はこの時を待っていたかのようにすぐに話しかける。


「お兄さん、待ち人ですかい」

「あぁそうだ」


 男が立ち上がりスフェーンの耳元で囁いた。


「表で話しません?……あんたなんだろ」


 獅子。それは裏社会では有名な言葉だった。

 ブルート公爵家の徽章に描かれている魔女の象徴、五芒星ペンタグラムと初代ブルート公爵を表す勇ましい獅子。

 転じて、ブルート兵を表す隠語。

 何故、この男がそれを知っているのか。スフェーンが聞かずとも、男は勝ち誇ったような笑みを浮かべて勝手にしゃべりだした。


「さっきそこで緑色の宝石の名を口にしたじゃねぇですか……覚えがねぇとは言わせねぇ」


 スフェーンはまるで困ったような表情をして俯いた。

 闇に隠れたその顔が唇に弧を描いてることなど、誰も知らない。

 甘ったるいシガーの匂いを振り払うように勢いよく立ち上がると、また猫をかぶって言う。


「わかった……」


 裏路地まで連れていく男の背の後ろで、アッシュグリーンの瞳は狙いを定めたように爛々と輝いていた。



 外に出るなり男はスフェーンに袋を手渡した。

 ずっしりとくるこの重さは、大量の金貨……掌にそれを持ったままスフェーンはシガーをふかす男を見据えた。


「俺ぁ今ブルートについて調べてましてね~…高く売れる奴くださいよ?」

「……誰のために情報を集めてる」

「今はフリーっすよ。金がなくてねぇ~」

「全部揃ったら貴族とでも取引するか」

「そうそう。それ以上の金貨でももらえるんじゃないですかね~おっと、あんた言わないってのは無しですよ?」


 男は再び距離を詰め、無表情のスフェーンを見上げた。

 喉元に火がついたシガーを近づける。

 じりじりと焼ける熱さと甘ったるい匂いがねっとりとまとわりつく心地とがまた彼を不機嫌にさせる。


「……立場わかってくださいよぉ俺がここであんたの正体を叫べばあんたは酒場の奴らに殺される」


 嬉々として獲物を追い詰める肉食獣のような顔をした男に、スフェーンは冷たい視線を浴びせた。

 シガーを遠ざけると、また俯いて……あんたにはお手上げだとでも言うように鼻で笑う。


「何が知りたい」


 男の口角がニィと吊り上がり狂気じみた笑みが現れる。


「サイファー五幹部。そいつが目玉さ」

「へぇ」

「4人の二つ名は判明したんですよ。愛国主義者ヴァーンズィン曖昧ジェントル狂美女ファムファタル知恵者セージ……あと一人。こいつがそろえば金に困ることは一生ねぇ」


 刹那、美しい顔に三日月が浮かんだ。


「あぁよかった。のことなら知ってるよ」

「ヘへへ!運がいいやぁ!それでそれで」


 男は仕事道具の帳面を取り出し、まれにしか訪れない幸運に感謝した。

 スフェーンの言葉に耳を傾け帳面に書きなぐってゆく。


「そいつは残酷クルーウ。年は20。情報を取るためなら殺しも色もやる誰に対しても容赦のない兵隊だ。

 ハルバードと鉄笛を使うんだとか。

 相棒の鷲は人の頭蓋骨を簡単に砕くほどの怪力で夜目が効いて」


 スフェーンから笑みが消える。


を一瞬で殺せるらしい」

「へ?」


 ひときわ低くなったその声で何を言ったのか、男は頭では理解ができなかった。だが、ペンは止まって指先がカタカタと震えだす。

 見せつけるかのようにスフェーンは懐から鉄笛を取り出し、いつも通りのメロディーを奏でた。

 遥か夜空、月の向こうからやってきた大鷲は大きな鉤爪で主人の籠手に着地する。

 相棒の頭をなでて、腰を抜かした男を共に見下ろした。


「コードネームはスフェーン。相棒の名はグリシャ」

「あ、あああああんたっ……がっっっ!!!」


 先ほどまで幸運に感謝していた男は心の中で人生最大の不運を嘆いていた。

 生者生きた人とは思えぬほど温度のない微笑みを前にし、ここは地獄かと錯覚する。


「なぁ……俺にも色々教えてくれよ。情報屋ルーベン。

 いや、ルイ・サドラー」

「い!いやっその!かかか、金が!!」

「これでどうだ」


 嘲笑うスフェーンが指で何かを弾いて男、ルイにくれてやった。

 へっぴり腰でなんとか受け止めると暗闇の中、目を凝らしそれの正体を探る。


「ブルートの徽章?」


 風がざわめき一陣の風が路地裏に吹き抜けた。

 雲に隠れていた月の光が地上に届く。

 現れた紋様を見て、ルイは息が止まった。顔面蒼白でショック死寸前といったところか。


「……こ……ここここ、ここれはっ双頭の鷲……っ……帝国ハーヴィツ帝王、ハーヴィツブルク家の……!!」

「どうだろう、それに似合う働きをしてもらえるか」

「そんなの一生かかっても無理に決まって……!」


 掌に持っていた袋をルイの顔の横に放り投げた。

 壁に当たって金貨が散らばり、間髪入れず鼓膜が破けるような音が聞こえた。

 顔面蒼白のルイが音の正体に目を向けると、すぐそこにスフェーンのブーツが見える。

 ……一ミリずれたらおそらくこめかみか耳が即死だっただろう。

 カタカタと震え、目を合わせないルイの顎を鷲掴み、スフェーンはまた冷ややかな視線を浴びせた。


「……金に困ったからと、こそこそうちを嗅ぎまわったのは貴様だろう」

「まさかさ、最初から俺を狙って……わざと名前を口にしたのか!?」

「じゃなきゃ言わないだろ。疑いもしなかったのか?

 ちょっと前からあんたが熱心にうちの情報を仕入れてるって話は聞いてた。だから、わざわざ来てやったんだよ」


 ルイの脳裏に最近のことが蘇る。

 情報を仕入れていたのはあの店だけのはず。いったい誰が……

 心の内を見透かしたようにスフェーンは先に答え合わせをした。


「マスターはブルートの、諜報機関サイファーの兵隊だ。しかも俺の直属の部下。お前みたいなのをひっかけるためにせっせと働いてるんだ」


 ルイは先日のことを思い出した。

 あの店で情報の売買をしていたとき、一人の男がこう言っていたのだ。


『最近、ブルートの情報が手に入れづらくなってるんだ。

 ブルートに手ぇ出したやつは残らずみーんなどっかの国の豚箱にぶち込まれちまう。

 金が欲しいのはわかるが、あんた……やめたほうがいいぜ。

 ぶち込まれた奴みんな震えあがって言ってるんだ。ブルートには捕食者がいるって』


 ブルートに入り込むネズミを屠る捕食者。

 それが今、この目の前にいる美しく恐ろしい男なのだ。

 ルイは打ち震えた。最初からこうするつもりで内に秘めた剣呑さをひた隠しにしていた。

 自分も漏れなく屠られる運命だった。


 世に二つとない端正な顔が形だけの笑みを浮かべる。


「ブルートに手を出したが運の尽き。今日からお前は俺の駒になってもらう」

「こ、駒……」

「裏切りや怪しい動きを、すぐにお前を殺すようグリシャに命じている。

 自分の命は自分で守れよ」

「はいぃぃ!なんでも差し出します!」


 予定通りに成功したスフェーンはご機嫌な様子で相棒の頭をなでた。


 スフェーン。

 鮮やかな緑色のそれはダイヤモンドよりも輝く石。

 そして様々な顔を持つその本当の姿は、底が見えぬ漆黒。


 誰より美しい宝石の兵隊は手に入れたしもべを連れて、国境ウェルナリスを去った。



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