20話 On revient toujours à ses premières amours

 じいさんの家から少し離れた、森が枯れているのが見渡せる緩い山の上。

 膝丈の草の上に腰かけて帳面に計算式を書く俺の横には……ベールを抱くように持ち固く目を閉じ突っ立っているキャンディッド。


(……なんでいるんだ。あいつ)


 時を遡ること数時間前。

 スフェーンと会った夜が明け、俺はとある目的のため、朝の早くから出かけることにした。


『キャンディッド、出かける』


 そう言い残して踵返したら、あいつが後ろから呼び止めたのだ。


『私も行きます』

 

 あとで絶対コリンにいびられるだろうが、あいつがどうしても行くと言って聞かなかった……からここまで連れてきてしまった。

 ……また何考えてんだか知らないし深入りはしないが、何をするでもなくさっきっから俺の隣に立ち尽くすばかり。

 モノクロのブリオードレスも、ピンと伸ばした背筋も、草木の匂いで満たされたここからは不自然に浮き出ているように見える。

 ジャンルの違う絵画を隣合わせて、応接間に飾られたような、変な居心地の悪さを感じつつも俺は帳面に視線を戻した。


 ……ヒュドラの移動速度。

 暗い水底を好む水棲妖精が、陸上においてどれだけ動けるのか……昨日の夜中、作戦を練ったが、そこがわからなければどんな妙案を思いついても勝機を見出すことはできない。

 森枯れの進行具合からだから、誤差はかなりの幅であるだろうが大体の値を求める。

 

(早くとも子供の全力疾走……といったところか。ブルートの伝承だと手足が生えてて四足歩行だって聞いたんだが、随分遅いな)


 答えが出たのはいいもののどうも胡散臭い。どうしたもんかと空を仰いだその時、懐かしい香りがした。

 薬屋をやっていたときに何度も嗅いだ、森に自生するミントの甘い香り。

 それもそのはず。この山を下って川を渡れば、俺の生まれたニジェルにたどり着く。

 今の時期は丁度盛りだ。

 これで頭痛薬を作っていたんだっけ。一番最初に覚えたから、懐かしさがより色濃く胸の内に広がる。


「……算出の結果、奴の足は遅い。勿論イレギュラーも考えるが、早歩きすれば追いつかれないだろう。後は……毒のことだな」


 立ち上がって伸びをする俺の背にキャンディッドの声が飛んできた。


「エスティー。改めて教えてください。ハイドラ……とは何なのですか」

「ハイドラ、本当の名前はヒュドラ。

 水の神で、妖精の頂点。偉大なる魔女の一人の生み親でもある。

 ブルートでは怒り狂うと奴は……解毒できない毒を出すと語り継がれている」

「それが森が枯れる原因……」

「そして人が生還しない原因。そこについては同意できる。だが……ここにも一つ気がかりなことがな」

「何ですか?」

「じいさんから聞いた話によると、死んでしまった村の男は喉を抑えて絶命していた。でな」

「………その言葉の意味は」

「ブルートには偉大なる魔女にまつわる童話がある」

「どのようなものなのですか?」


 ジーヌ・ダチュラの眠りの森。

 ジェーン・アコーニトの金の糸車。

 そして、エリザ・グリチネの


白雪姫シュネーヴィッシェンという話だ。あるところに白雪と呼ばれた女がいた。

 白雪は最初、人間にも妖精にも好かれる理想の女性像として描かれる。

 だが、中盤になると白雪は人間を助けるために妖精を利用し搾取するようになるんだ。

 そして物語の終わり、感謝の証としてリンゴを持ってきた人間のばあさん、いや魔女に白雪はある方法で命を刈り取られる」

「ある方法……とは」

「毒リンゴによる毒殺……我が民を欺き軽んじた罪を受けよ。化けた魔女はそう口にし物語は終わる。白雪は毒リンゴをかじって……醜い姿にされ死ぬ」

「醜い姿とは比喩表現ではないのですね」

「あぁ、毒による皮膚の水膨れ、咽喉の腫れ……そのほかいろいろ。かじりかけの林檎がもとで森が枯れ、その中で朽ちていく様子事態がとかな」


 カレンドゥラ山脈に生きるものとして妖精を軽んずるものは王から罰が下る。この童話は、妖精を敬うように教育するためのものらしい。


「なるほど、童話にはヒュドラの毒の詳細が描かれているのですね」

「そうだ、ヒュドラの毒は別名死の林檎。触れればただでは済まない、話通り醜い姿で死んでしまうはず」

「……きれいなままとはそういうことですか」

「そう、ヒュドラの毒にしちゃ……生温い。

 だけど、森は枯れる……おかしいと思わないか」


 じいさんの話から察するに死因は呼吸困難……明らかに毒性が違うはず。だが、童話と一致するところもある。

 相手は間違いなくヒュドラだ。しかし……この違和感はいったい何だ。


「ヒュドラに何が起こったのか対面してみないとわからないかもな……」

「それで、その毒は……どう解毒するのです」

「解毒?」

「……なんです。その反応は」

「あるわけないだろ?そんなもん」


 キャンディッドが眉をひそめる。珍しく感情が表に出た。


「ヒュドラの毒は自然毒扱いだ。確かに森は枯れるが、そのあとはより永く強い樹が育つ恵みの一面もある。そもそも解毒剤なんてもんほいほい作れると思うな……あるだけで奇跡だ、あんなもん」

「では、なるべく毒を吸わないで状況を打開する良い作戦はあるのですか。戦うわけではないんでしょう」

「それについても考えている……大雑把に言えば、怒りを鎮めるといったところだ」

「どうやって正気に戻すのですか」

「ここを南に下ると、ゴーネルに入ってニジェルという村がある。その村には水源が別の川が流れていて上流には滝がある」


 最善策は……とうに出ていた。

 俺の気が進まなかっただけだ。

 あの場所は、あの時のままでいい……そんなこと、もう言ってられない。


「湖が気に入らないなら、別の水源に入れる。今から下見に行くぞ」


 そんな理由は建前で、最後にもう一度行きたかっただけだなんて露も知らないキャンディッドはいつもの無表情で頷いた。



 ラピス側からあの森へ行くのは初めてだったが、雰囲気は似ていた。

 木の匂い、土の匂い、仲間を呼ぶ鳥の声。

 そして無意識に止まる足。気づけば俺はあたりを見回している。


 あの子を探している。


 どこかにいないか、あの透き通ったきれいな声がしないか、あの笑顔が見えないか。


(ディディエ)


 心の中でつぶやいたその瞬間、革のブーツに何かが当たった。


「エスティー立ち止まってどうしたのです」


 音だけを頼りに歩いていたキャンディッドのつま先が当たったらしい。

 最後にここに来れたのに、俺の隣にいるのは静かな声の無表情な魔女の身代わり姫。


「……足場の確保をしていただけだ」

「そうですか」

「止まって悪い、行くぞ」

 

 そんなそぶりを見せなかったから今の今まで忘れていたが、あいつ目ぇ閉じてるんだった。

 湿った腐葉土で足音が聞こえにくくなる。俺は他愛もない話を吹っ掛けた。


「あー……俺に聞きたいこととかあるか?」


 キャンディッドが口を開いたのは、少し時間がたった後だった。


「あなたにとってブルートはどんなところですか」


 何を答えれば満足するかはわからないのでぱっと浮かんだものを口に出す。


「悪いところではないな」

「そうですか?任務が失敗すればどうなるかわからないでしょう」

「いや、失敗事例なんてあった覚えがないし……あの夜だって多分、お前が俺を城に閉じ込めたとしても脱走だけに集中すればブルートまでは帰れただろうし」

「……あなた、私に殺されるところだったのですよ」

「それなら最悪の中では最善だ。情報を漏らすことなく殉職になる」


 それでもブルートでは殉職なんて聞いたことがないし、実際は仲間がいるから、完全に失敗することは無いに等しい。

 そういや、ゴッシェはどうしてんだろ。

 ……あの手紙ぃ読んだよな?

 ……返事が来てないよな?

 酒場でスフェーンに手紙の話を切り出された時と同じ悪寒が背筋を走る。

 今ブルート国内で俺はどう言われているのか、嫌な考えを振り払うようにかぶりを振って話題を切り替えた。


「それ、社交界で聞いたんだろ。そういやお前、昔、役立たずの兵隊は生かしておかないだろうって言ってたよな」

「違うのですか」

「あぁそうだ。ブルートじゃラピスやゴーネルみたいにバカスカと死刑を連発することなんてないし、あほくさい罰もない。ムショに入ったら普通に働いて飯食って寝るだけの健康ライフが待ってる。最高でも幽閉だな」

「火のない所に煙は立たないというじゃないですか」


 キャンディッドの追及に体が半強制的にこわばる。

 ルチル・ブルートは歴代で最も冷酷だ。社交界や政界でそう噂される所以は、俺にとっても思い出したくないあの事件……


「……確かに即位して間もないころ極悪大量殺人犯を死刑にしたって言うのはある」

「殺人犯……」

「何千人を殺してきたイカれ司祭だ。過度な罰とはいえないだろ」

「そうですね」


 自分から調べたことは無いが、ルチル様はプレラーティの事件が最初の仕事だったらしいということは自然と耳に入っていた。

 他にも一人、主犯格の大公爵に自ら手を下したということも聞こえてきたが、奴らの事件なんてどうでもいい。

 キャンディッドの目が見えていなくて良かった。しなだれかかった蔦を踏みつける俺は露骨に不機嫌な顔をしていただろう。


「ブルートはすべての国民に教育が行き届いている。迷信を信じる奴はいない。

 魔女たちが積み重ねてきた知恵を皆が知っているから」


 星の動きを観測する機械を今から500年前くらいから発明していたり、色彩豊かな壁画に山間部の灌漑設備に衛生の知識だったり、魔女たちの知恵は計り知れない。

 ヘクセ教の教えや逸話も事実に基づいて作られたものがほとんどで、俺も薬屋だったころより今の方が多くの知識を持っている。


「こっそり亡命してきた奴も多いらしいぞ?みんな新しい人生に新しい名前で平和に牧畜してるし」

「新しい名前、ですか。……例えば人を殺したとしても、それを与えられれば生まれ変わった気がするんでしょうね」


 どんなことを思っての言葉なのかはわからないけれど、キャンディッドの声音がいつもとは違うように感じた。

 音程も抑揚も変わらない。だけど、誰か別人が体を乗っ取って喋っているような。妙に深いところまで届く言葉だった。

 キャンディッドと俺は似たような状況だ。

 いや、違う。俺達の間には決定的に違うものがある。


 人を殺したか、殺していないか。


 俺はずっと迷っていたから、このチャンスを逃さなかった。

 暗殺者名コードネームを完全には受け入れず本当の名前を胸に携えて、あの曇天の日おっさんが言ってくれたから。

 いや、おっさんだけではないのかもしれない。

 本当の名を捨てろ。そう言ったあの上官はおっさんとは違う方法で俺を歩き出させようとしていたのかもしれない。


「……逆、か」

「逆とはなんです?」


 葉擦れの音がざわめいた。少し遅れて、ラピス衛兵の外套と茶の髪が揺れる。

 顔を上げるとわずかに見える空は雲一つない深い青。

 焼き付くような色彩に思わず目を閉じた。

 深い呼吸のその後で、悠然と揺蕩う陽だまりを見つめて歩きながら、ぽつりぽつりと呟く。


「信じていたものが、一気に瓦解したことがあった。

 自分のことと両親のことがわかって、俺はもう何も抱えられなかった。

 壊れてしまいそうな俺にある兵隊が、もう何も考えないでいい、って言ったんだ」


 シルトパットが再び現れたあの日。

 あいつは、ごめんとか許してくれとか謝罪の類は絶対に口にしなかった。

 目を開けて最初に飛び込んできたのは青白い顔だった。加害者の意識がない、というわけではなかっただろう。

 一言でも自分の罪悪感を拭うための言葉を吐き出したら、許さないつもりだった。

 そもそも、あの日俺に会わず、時が経ってから許しを請うという手段もあったはずだ。

 何も言わずに逃げるという手段もあったはずだ。

 けれど、あいつはあの日から間を置かずに来た。

 俺になら何をされてもいい。そんな覚悟だけを抱えた暗い紫の瞳がぼうっと光をともしていて、いらんことまであいつにしゃべってぶつけて……

 あの夜が明けて、来た朝は懐かしい穏やかな感じがした。

 泣きつかれるまで誰がそばにいたのかは、言うまでもない。


「その日から俺は過去のことはこれ以上手を付けず、未来の二者択一だけを考えることにした。

 それも結構辛かったけどな。お前を殺すか殺さないかの答えが出なくて訓練をさぼったりして木の上で空を見つめてた。

 その時はおっさんが来て、俺には新しい選択ができる。そう言ってくれた」


 おっさんは今じゃなくいつかをくれた。


『できるはずだ。エスティー・ポードレッタ』


 そしてあいつらも


「上官たちが言ってた名前を捨てろの意味がようやく分かった。

 暗殺を俺じゃなくてエメラダがやったことにしたかったんだ。

 本当の名前で罪を背負うのは辛いから。

 おっさんも言ってた。役目につぶされて、本当の名前が消えてしまったって

 お前……」


 そう言いかけて口を閉ざした。まだ言ってはいけないような気がした。

 俺のを、自由になる気持ちに訴えかけた契約を受け入れたあいつにはまだ、が息づいている気がしたから。





 慣れている様子を怪しまれるかと思ったが、それは杞憂だったようで言及されることは無かった。

 それよりも結構きついはずの山道をあいつは息が切れることもこけることもなく俺にぴったりついてきていることの方がある意味怖い……

 視覚なしでこれなんだから……身代わりで姫をやらせるより、本物を守る護衛にした方がよかったんじゃないか?

 

「なんですかエスティー」


 見えないはずなのに俺の視線に気が付いたらしい。


「…………お前、見かけによらず動けるよな」

「当然です。私は姫の身代わりなのですから」

「ご立派なことだな……とはいえ、いったん休憩だ。二歩斜め先に切り株があるから座ってろ」


 休憩場所に選んだここは、俺にとって大切な場所。

 ディディエが初めて言葉を喋ったあの洞窟の前。

 だが、大きな土砂崩れの跡が見られ、出入り口がものの見事に塞がっていた。


(10年経てば……変わる、よな)


 自分でも無意識にため息をついていた。もし、奇跡的にあの時のまま残っていたとしても大きくなった体じゃ、入るのは難しいはずなのに。


(どうだったら、よかったんだろうな)


 必要以上に長居はせず、さらに奥地へと登り進める。




「ここにヒュドラをいれる」

「滝の音がしますね」


 ここはディディエと初めて会った川のさらに上流。その果て。

 窪地に流れ込んだ滝が大きな水溜りを形成して緩やかなカーブを描き川になる。

 綺麗なのは、変わっていなかった。

 角張った岩の下にはっきりと見える魚影も、太陽の光が乱反射して虹色に光る水面も。


 綺麗なのは、変わっていない。


 飛沫をあげ轟轟と流れる滝に向き直った。


「実際どこから来れるかわからない。滝から落ちる形になるかもしれないし横道にずれ込んでねじ込むかもしれない」

「ヒュドラは気に入ってくれるでしょうか」

「……気に入らなかったらぶっ飛ばす」

「エスティー、戦わないでください」


 道中の森に毒の影響は少なからず出るだろう。

 だけど、いつかまた綺麗な森に育ったら、あいつは喜んでくれるだろうから


「ディディエ……ごめんな」


 って俺が謝っても、俺の手でここを変えてしまうのもきっと、笑って許してくれるんだろうな。


 滝の音に忍ばせるように、いまだ高ぶり続ける初恋をいつのまにか呟いていた。

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