最終話 満開の下

 三月下旬。

 仁と由宇が東上野の公園で出会った桜の季節が、まためぐってきた。

 桜屋敷家の桜のつぼみも色づき、ほころび始めた。

「開いてきたな」

 仁がつぶやく。

「由宇ははじめてだよな」

 傍に立つ由宇は、仁を黙って見つめる。何か口にしたら涙腺が崩壊しそうだ。

 仁の実家に桜の木があること。

 はじめて聞いた時から、忘れることはなかった。

 毎年、この季節になると、その桜はどんなふうに咲くのか、仁はその場にいるのか、それとも全く別の場所で生きているのか。由宇は想像するしかできなかった。

 それが今年は、仁との再会を果たし、その桜のある家で同居中。正との関係も悪くないし、新しい仕事も、どうにかこなしている。

 幹に咲いた一輪の桜花に、由宇はそっと指をふれさせた。

 本当に、仁さんの実家の、仁さんが生まれた時に植えた桜を見ることができたんだ。

 とても現実とは思えなかった。

 涙が、いきなりあふれてきた。

「由宇くん?」

 あわてて拳で拭うのを、正に見られた。何も言わないが、由宇を気にしてくれている。

「由宇は、長い事、この桜が見たかったんだってさ」

 やっと実現して感激してるんだよ、と仁は付け加えた。それから真面目な顔になり、由宇の肩に手をかけて、正を見た。

「由宇は、俺の大事な人なんだ」

 一瞬、正は戸惑ったようだが、

「そうか。これからも仲良くしなさい」

 とだけ言い、向こうに行ってしまった。

「仁さん、あんなこと言って」

 由宇は慌てたが、仁は涼しい顔で、

「本当のことだろ。あのくらいは伝えておきたかった」

 いいのかなあ、と由宇は首をかしげる。


 数日後の土曜は快晴で風もなく、絶好の花見日和となった。

 桜の下に、仁はピクニックシートを敷いた。今日は家族プラスαで花見の予定だ。

 十一時過ぎ。

 藍の運転する車で、千花がやってきた。

「先日はどうも」

 藍に向かって由宇が頭を下げる。夏美との対面に場所を提供してくれた女性の訪問は意外だった。

 となりにいる若い女性が仁の娘と知って緊張する。

「千花です」

「由宇です」

 互いにぎこちなく自己紹介。

 ふわっと優しい感じが、仁に似ている、と由宇は思った。

「もう満開なんだね」

 千花は歓声をあげた。

 小さい頃は毎年のように見に来た、なつかしい桜だ。

 敷地内に、見慣れた車が入ってきた。

「あ、おにいちゃん」

 仁名義で、いまは夏美が乗る車から、宙が降りてきた。

「よく来たな、宙」

 孫がそろって来てくれて、正は大喜びだ。

 花見弁当が届いて、皆は桜の下に移動した。

「おまえもどうだ」

 正が宙に日本酒を勧める。

 車だから、と渋るのを、泊まっていけばいいか、と結局、飲み始める。

「由宇も飲みなさい」

 いつの間にか正は、由宇をそう呼ぶようになっていた。

「はい」

 由宇はありがたく、正の盃を受けた。


 昼食後。お茶を飲みながら、

「もし夏美が離婚に応じなかったら、どうするんですか?」

 単刀直入に藍が尋ねる。仁は、正が宙たちとの話に夢中なのを確かめ、小さな声で、

「父が生きてる間は無理だけど、その後も離婚できないなら調停に持ち込む、それでもダメなら裁判します」

「そう」

 藍は少々、驚いた。それはゲイカップルであることを公言すに等しい。少なくとも、この町ではうわさが広まるだろう。どれほど隠しても、どこからか秘密が漏れるのが、田舎の怖いところだ。

「そうまでされたら、夏美は応じるかもね」

 正が他界すれば、仁に恐れることは失くなる、裁判と言う最終手段を使う覚悟だ。

 夏美との関係は破綻しており、親権問題もない、となれば、どういう判決が下りるのか。

 夏美の両親が、その時も健在ならば、夏美は離婚協議に応じる、と仁は踏んでいる、夫に同性の恋人がいることを知られたくないはずだから。

「そうまでしなくても」

 由宇が口をはさんだ。

「僕はこのままでもいいんです。夏美さんと会って本心を伝えられて、心が晴れました」

 仁を愛している、と夏美に告げたことで、何か吹っ切れたのだ。

 不倫相手だからと、卑屈なままではいらねない。

 自分たちは愛し合っているが夏美は違う、体面を気にしているだけだ。もし夏美が仁を愛しているとしても、仁の思いは自分にある。何も恥じることはない。

「夏美も、頭ではわかってると思う、離婚して新しい道を歩むべきだって」

 藍は、由宇に微笑みかけた。

「でも、どうしても親の前で大人の態度をとれないっていうか。いい子ちゃんでいたいみたい」

「夏美のこと、よろしくお願いします」

 仁が、藍にそんなことを言った。

「夏美には感謝しています。私を父親にしてくれたし、ずいぶん支えてもくれた」

 それは本心だった。宙と千花という宝物を与えてくれたのは夏美に間違いないのだ。

 先月から、夏美は仁に小遣い程度だが振込をしてくれている。少しは変化していることを仁は感じる。急ぐことはない、自分が離婚を切り出してから、また数か月しかたっていないのだ。


「おじいちゃん、お昼寝ならお部屋でね」

 呑みすぎたのか、正が眠そうなのを千花は見逃さなかった。家の中に宙が正を連れていくのを、千花は見送る。

 戻ってきた宙は、

「離婚したって、僕も千花も、とうさんとかあさんの子供であることに変わりはない」

 誰に言うともなく口にした。

「そうだよね。もう私たち、大人だから。いつでも、パパと由宇さんに会いに来ていいんだよね」

 家に帰ったら、と千花は思った。

 引き出しにしまったBL本を、また書棚に並べよう、もし遊びに来た友人に怪訝な顔をされたら、私、BLが好きなんだ、と堂々と言おう。

 薄く笑みを浮かべながら、父と、そのパートナーを見やる。ずっと幸せでいて、と千花は祈る。

 二人は、早くも散り始めた桜の下で言葉を交わしていた。


「満開になったばかりなのに、どうしてこんなに散り急ぐんだろう」

 不満げな由宇に、仁は笑って、

「だから愛されるんじゃないのか、桜は。さっさと散ってしまうからこそ、次の年が待ち遠しい」

「そうかなあ」

「心配すんな、来年も咲くさ」

 その言葉は、来年もその先も自分たちはずっと一緒だ、と由宇には聞こえた。


(了)



【あとがき】

 読んでくださって、ありがとうございます。

 約10か月かけて、ようやく完結いたしました。本当は桜の季節にアップしたかったのですが、あれ?

 家族会議、エイズの説明、男だけの飲み会に由宇と夏美の対面。難しい場面に差しかかるたびに更新が止まり、気づけば酷暑の夏、とほほです。


 当初は、仁が由宇との思い出を語るだけの予定でした。しかし、一度は別れても、再会し、互いの思いを確かめて新しい道を模索する、そんな話にしたくなったのです。だとしたら仁の妻子、夏美の友人なども登場させなければ。

 とても期待通り書けたとは思えませんが、エイズの時代を知る者として、少しはそのへんの事情も書きたかったし、樹と風太、これからゲイとして生きていく二人も登場させたかった。


 ここまでお付き合いくださいまして、感謝しております。

 残暑厳しき折、どうぞご自愛ください。


 2022,8.13


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バイバイ普通、いい夫婦 チェシャ猫亭 @bianco3

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