44.

 教会では、儀式の支度を終えた園長が待っていた。園長は教会の鍵を締め、運び出された長椅子で埋まるロビーを抜けて礼拝堂へ向かう。

 久し振りに足を踏み入れたそこは、ほとんどの物品を取り除かれた、がらんとした空間だった。壁の十字架と聖卓以外には何もない空間だ。予想していた魔法陣みたいなものもないし、蝋燭が怪しく灯っているようなこともない。

「儀式の準備って、魔法陣描くとかじゃなかったんですね」

「僕に準備がいるだけで、特別な道具がいるわけじゃないからね」

 今日の園長は、黒いガウンを羽織り黒のストールを掛けていた。死者に関する儀式だからだろうか。幼稚園の行事では白を掛けているから、見たことのない色だ。

「じゃあ、その辺に座って」

 聖卓から少し離れた辺りを指差して、園長は聖卓へ向かう。緊張感がないわけではないが、指示は適当だった。苦笑しつつ床に正座する。

 聖卓についた園長は、儀式が最後まで守られるよう、祈るために手を組む。私も倣い、手を組んで園長の祈りを聞く。ちらりと浮かんだ沢岡の警告は、そのまま眠らせた。私はもう、この人を信じるしかないのだ。


 主イエスキリストの御名により、と祈りが終わりに近づいた時、傍らの空気が揺らぎ始める。そばに、いる。祈る手に、思わず力がこもった。

 結びの言葉を終えたあと、園長は聖書の朗読を始める。まるで待っていたかのように、辺りが明度を落とし始めた。この現象は私だけなのか、園長は微動だにせず読み進めている。ガウン姿は少しずつ暗闇に融けて、やがて飲まれて見えなくなった。

 今はもう、一筋の光もない。組んだ自分の手すら、触れなければ分からない。見渡す限りの闇に、平衡感覚を失いそうになる。湧き出す不安に唾を飲み、震える息を吐いた。大丈夫、大丈夫だ。暗がりのどこかから聞こえ続ける御言葉に、意識を集中させる。

 ふと、ぼんやりと隣が明るくなる。薄闇の向こうに祈りの手を映す視界の端に、子どもの足が映った。

「ねえ、どうして私達を殺そうとするの?」

 子どもの声だが、この前よりずっと口調が大人びている。美祈子だ。

「私を殺したのはおねえちゃんなのに、どうして私がまた死ぬの?」

 容赦なく罪悪感に突っ込んできた美祈子に、揺れそうになる心を園長の声へと向け直す。

――何を言われても応えないこと、御言葉から意識を逃さないこと。

 それが園長から言い渡された儀式での注意事項だった。どちらかでも外せば、美祈子達は上がれなくなってしまう。

「ねえ、ねえ。聞こえてるんでしょ。私を殺したのに、どうしてまだ生きてられるの? 生きようとするの?」

「せんせい、どうしてわるいことしたの? わるいことはだめって、せんせいがいったのに」

 横から挟まれた薫子の声が、胸に堪える。悪いことは小さくても、と何度も説いてきた。薫子がそう思うのも無理はない。私は、自分が罪を犯したことさえ忘れていたのだ。

「おねえちゃんが最初から一緒に来てくれてたら誰も、お母さんも死ななかったのに」

 起きたばかりの死を口にして、残念そうに美祈子が呟く。祈りの手が、震え始める。

「お母さんも、だめだったの。やっぱりほかのとこに行っちゃって、一緒に行けなかった。おにいちゃんなら、行けるかな」

 思わず反応しそうになった意識を戻し、再び声を追う。分かっている。揺らそうとしているのだ。反応したら、全てが終わってしまう。

「みーちゃん、わたし、またしぬの?」

「うん。おねえちゃんが助けてくれないから、また死ぬよ」

「また、きゅーっていたくなる?」

「なるよ。おねえちゃん、助けてくれないもん」

 会話は途切れ、やがて啜り泣く声がする。やだあ、いたいのやだあ、と薫子が涙声を震わせながら言う。痛む胸に息を吐き、唇を噛む。だめだ、反応してはだめだ。今は御言葉に縋るしかない。

「せんせい、わたし、いたいのいや。いやだよ。こわい。せんせえ」

 不意に、喪服の袖を引かれて痛みが走る。少しだけ視線を横に滑らすと、しゃがみこんで私の袖を握り締める薫子の姿があった。歯型が、疼き始める。

「せんせい、わたしがきらいになったの? いいこじゃないから、きらいなの? おかあさんみたいに」

 胸を一突きする訴えに、荒い息を吐く。違う、そうではない。そんなことがあるわけはない。いやな汗が全身から滲み始める。瞬きで、涙を散らした。

「おかあさん、いってた。いいこじゃないから、いらないって。せんせいも、いらないの?」

「いらないんだって。薫子ちゃん、いい子じゃないもん」

「やだあ」

 美祈子の意地悪な言葉に、薫子は火がついたように泣き始める。できることなら、抱き締めて違うと言ってやりたい。そうではない、いい子だと、ずっと好きだと言えるものなら。

「嫌いだから、また薫子ちゃんのお母さんに帰すんだって」

 やだあ、と頭を横に振り、薫子は私の袖にしがみつく。一瞬揺らいだ小さな手に瞬きをすると、ふくふくと肉づきの良い手から、骨が覗いていた。

 思わずびくりと揺れた私を涙声で呼び、薫子は視界に割り込む。涙に濡れた目と紅潮した頬が、溶けるように崩れ落ちていく。私の腕も、もしかしたら。疼きは収まらないが、袖を引き上げる勇気はない。

「いたい、せんせい、いたい! ばんそうこうペタンして!」

 悲鳴のような声を上げ、薫子は顔を覆った。

「おねえちゃん、あの人を止めてよ。あの人のせいで、こうなってるんだよ」

 冷静な美祈子の声に、園長の指示も忘れて薫子を見据える。手も脚も、耳も、酸に溶かされるように崩れていく。いたい、いたい、と弱々しく訴えながら、薫子はうずくまって震える。

 どうして死んでまで、この子がこんな目に遭わないといけないのか。

「神様なんて、ほんとにいるの? いるならどうして、私が死んだの? 薫子ちゃんも死んだの? なんにも、悪いことしてないのに」

 傍らの薫子はそれでも救いを求めて、肉の零れた手で必死に私のスカートを掴んでいる。どうして、こんな思いを。

――俺は、あの人を信用してません。

 だめだ、疑問を抱いては。再び組んだ手へ視線を戻すが、揺らいでもう覚束ない。

「どうして、私を殺したおねえちゃんが生きてるの? あの人だって」

 大丈夫だ、何を聞いても耐えられる。「嘘や脅迫、誘惑や哀願で弱いところを突いてくる」のだから。

「いた、いたい、やめて!」

 突然、悲痛な声を上げて美祈子が床に崩れ落ちる。まるで押さえつけられて、身動きがとれないようだった。途端に、やめてよぉ、と弱々しい涙声に変わった。

 変わらず、淡々と聖書を読み進める園長の声がする。私はただそれに縋り、周りでは霊とはいえ幼い子ども達が苦しみ藻掻いている。

 いたい、いたい、と呻き苦しむ声はやむ様子がない。薫子は相変わらず小さくうずくまって、ぼろぼろと肉や髪を零す頭を抱えて震え続けている。美祈子が、啜り泣き始めた。

 こんなことになるとは、ここまでするとは、聞いていなかった。私はただ、自分がいたぶられて責められるだけだと信じていた。腐り落ちるのは、私だけで良かったはずだ。

 戸惑いを断つ短い悲鳴に視線をやると、美祈子の腕がありえない向きに折れ曲がっていた。

「おねえちゃん、いたい、いたい!」

 幼い口調に戻った美祈子の、泣きじゃくる声が響く。

 私の耳に届くのは嘘でも脅迫でも、誘惑でもない。ただ痛いと呻き苦しむ子ども達の泣き声だけだ。こんな。こんな地獄絵図にはもう、耐えられない。

「先生やめてください、もういいです!」

 堪えきれず手を解き、苦しむ二人を抱きかかえようと伸ばす。しかし薫子も美祈子も、砂のように散って消えた。暗闇も取り払われ、景色は光と現実を取り戻す。そして。

 目の前に現れた水を滴らせるソックスの爪先に、ゆっくりと宙へ視線を移す。濡れそぼった美祈子が私を見下ろして、にたりと笑った。

 ああ。

「逃げて!」

 園長の声は届いたが、体が動かない。もう、無理だ。

「ごめんね」

 全てを諦めて呟いた時、飛んできた聖書が美祈子の体を突き抜けた。途端、美祈子は子どもどころか人間とも思えぬような野太い咆哮を上げる。突然巻き起こった突風と地鳴りに、咄嗟に目を閉じて体を小さくした。

 お前、お前のせいで、と太い声は私を呪う。風は咆哮と共にしばらく礼拝堂の中を暴れ回り、やがて力尽きたかのように消えた。

 ……終わったのか。

 おそるおそる頭を抱えていた手を解き、目を開く。まだ地面が揺れているような気がして、落ち着かない。そうだ、園長は。

 勢いよく体を起こすと、吹き飛んだ聖卓の傍に倒れている姿が見えた。一番避けたかった光景に、悪寒が肌を走り抜ける。慌てて腰を上げ、園長の元へ駆け寄った。

「先生、お願い、目を開けて」

 私のせいだ、私のせいでまた。震える手を伸ばし、初めて頬に触れる。

「……大丈夫だよ。ちょっと、反動がきつくて休んでるだけだから」

 園長は薄く目を開き、泣き出した私をあやすように笑んだ。

「私のせいです、ごめんなさい。私が」

「君のせいじゃない。僕が失敗したんだ。神が、力を貸してくださらなかった」

 先を濁すように小さく咳をして、体を起こす。傍の聖卓に背中を預け、荒い息を吐いた。顔色は青ざめているし、さっき触れた頬は汗で湿っていた。無事なわけはない。

「これでもう、終わったんですか?」

「いや、まだ十分じゃない。僕はもう無理だから、残りは父に頼むよ。父なら上手く送れるだろう。明日の朝、出よう」

 具合悪げに顔をさすり上げ、園長は不安そうな私に笑んで見せた。

「明日なんて、無理です。休んでください」

「だめだ。明日にはなんとかしないと、君がもう持たない」

 腰を上げようとする園長に、手を貸す。

「以前、先生を犠牲にしてまで幸せになりたくないと言ったの、覚えてますか」

 苦笑する園長の体を支え、ゆっくりと起き上がる。よろける足元に、肩を貸した。

「女性に肩を借りるなんて、情けないね」

「非常事態に、男も女もありません」

 うまくはぐらかされた話に溜め息をつく。答える気はないのだろう。

 園長は私に支えられつつ聖書を拾い教会を出て、隣の牧師館へ向かう。教会創立以来改築も碌にされていないような、古びた民家だ。昨日から空き家になった副牧師用の二号館は、その手前に立てられたプレハブにある。建物同士の距離は、一メートルもない。

 建てつけの悪い玄関戸を引き、中へ入る。電気を点けると、吊り下げられたチューリップ型の照明が赤っぽい光を灯した。

「ありがとう。もう、ここまででいいよ」

 園長は上がり框に腰を下ろし、背を丸める。あとは自分でどうにかする、と言いたいのだろう。

「だめです、心配だから泊まります」

「そんなことをさせたら、親御さんに申し訳が立たない。大丈夫だ、あとは自分でできるから」

 予想どおりの言葉で塞いだ園長を、じっと見下ろす。

「明日は、朝六時頃に迎えに行く。早いから、帰ってゆっくり休んで。薬もちゃんと飲んで」

「私は」

「沢岡さんも、明日が限界だ。僕の祈りも、彼女達から守る以上のことはできない」

 突然持ち出された名前に、何も続かなくなった。もしかして、あれからずっと守ってくれていたのか。

 園長は重そうな頭を擡げて、私を見上げる。

「君は、幸せになるべきだ」

 正確に言うなら、「君は、幸せになるべきだ」だろう。そこを自分と入れ替えるつもりはない。それが私の望む幸せでも、園長の望む幸せにはなれない。

 黙って頭を下げ、牧師館を出る。見上げた街灯の灯りが眩しく滲んで、目元を拭った。

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