十四、令和元年六月三日(月)

43.

 警察には、電話中に突然「何か」が起きたあと水の音がした、と説明した。何かは分からない、と繰り返し言っているのに、人がいたはずだ、と何度も問い詰められた。

 ただ、こちらの署に問い合わせでもしたのだろう。程なく詰問はやんで母は事故死になり、死体が返されると同時に警察は潮が引くように去って行った。

 母も幸絵のように自分の髪を飲まされて窒息したあと、池に落ちて死んだ。

 記憶を取り戻したことを含めて全て伝えた私に、父は憔悴した表情を隠すように俯く。ダイニングテーブルの斜向かい、私と父は昔からこの場所だった。今は下座に、写真と花を置いている。母はそこで、いつも家族のために甲斐甲斐しく働いた。

「すぐには信じられない話だけど、結祈子が嘘をつく理由はない。見えないだけで、本当にいるんだな」

 あれは気まぐれなお遊びだったのか、父からも心の声は聞こえなくなっていた。もし聞こえていたら、私も生きてはいなかっただろう。聞こえないから、かろうじて生きている。皮肉すぎて笑えない。

「ごめんなさい。お母さんが死んだのは」

「結祈子のせいじゃないし、お母さんは多分、抵抗しなかったんじゃないか」

 父は長い息を吐き、顔を上げる。着崩れた喪服の襟元は開いてネクタイもない。疲れ切った目は緩んで、視線は覚束なかった。蛍光灯の白い光の下に、ここ数日で加速した老いが晒される。

 母は心臓発作で橋から池へ転落した、と祖父母や弟、親族には説明した。病室の弟は「俺のせいだ」と言ったきり黙って、前夜式でも葬儀でも背を丸めて小さく固まっていた。検査の結果、左手の麻痺は残る可能性が高いらしい。祈りの手の片方が浮いて、指先は小さく震えていた。

「結祈子と美祈子の人生を台無しにしたと、ずっと悔やんでいた。結祈子は大学で家を出ていたから知らないけど、自殺を図ったこともあった。今も季節の変わり目には、通院してたんだ」

 全く知らなかった。でも足繁く帰っていたら、頻繁に連絡をとっていれば、気づけていたかもしれない。もちろん母が隠した理由は分かっている。それでも。

「美祈子はともかく、私は台無しになんかされてない。どんな思いで美祈子のものを片付けたのか、つらい思いをさせたのは分かってる。罰を受けるべきは、私だったのに」

「違う、それだけは絶対にない。あの時私達は、結祈子に本当のことを知らせる選択だってできた。美祈子のものをそのまま残して、話しながら思い出すのを待つことだってできたんだ。でも選べなかった。結祈子のためと言いつつ、私達自身が恐ろしかったんだ。結祈子の心を壊すかもしれない恐怖に、勝てなかった。思い出さないようにと、昨日までそれだけを祈ってた」

 父は震える声で打ち明け、また赤くした目元を拭う。何もなければそのまま、墓場まで持って行くつもりだったのか。でも責めることはできないし、そんなつもりもない。私はその願いに今日まで育てられてきた。碌に挫折も知らず、のうのうと生きてきたのだ。

 結祈子、と父が掠れた声で小さく呼んだ。

「自分を責めないでくれ。私達の、お母さんのことを思うなら、この先も生き抜いて幸せになって欲しい。結祈子の幸せを何よりも望んでいたのは、お母さんだから」

 切実な父の願いに俯く。

 母は、幸絵とは違う母親だった。いつも自分より私のことを優先して、それで、そのまま死んでしまった。それならまだ、幸絵の方が幸せだったのではないか。自分の好きなことだけを追い求めて、我が子が喘息だろうと構わず死んでも放置した。

 ……やめよう、こんなことが考えたいわけではない。一息ついて、顔をさすり上げる。

「ごめん。今はまだ、分かったとは言えない。でも、美祈子は必ず天に還すよ。お父さんは、献市をお願い。今一番危ないのは、あの子だから」

 頷く父を確かめて、腰を上げる。

「美祈子は、本当はすぐに上がれる魂だったの。綺麗で無垢で、すぐに天国に行けるはずだった。多分、儀式はまたあの子を苦しめると思う。私は、最後まであの子を苦しめる。ごめんなさい」

「いいんだ。もうこれ以上」

 父は頭を横に振り、長い息を吐く。

「もう、誰も殺させないでくれ。頼む」

 絞り出すような声で願い、赤い目で私を見据えた。父も、我が子の苦しみを願うような親ではない。それでも、その痛みを受け入れなければならない時がある。どんな思いで願ったのか、現実は私の予想を遥かに超えるのだろう。頷いて、母の遺影を眺める。穏やかな笑みを浮かべる母に呟くように詫び、喪服の胸を押さえて居間を出た。


 帰りのタクシーに揺られていると、不意に手の内で携帯が揺れる。沢岡だった。入院前の電話以来、あの茶封筒以来だ。

 もしかしたら、退院したのだろうか。

 慌てて出ると、あの日と同じか、それより具合の悪そうな声がした。

「お加減、いかがですか?」

「なかなか、熱が引きませんね。まあ俺のはいいです。今日、山際からお母さんが亡くなったと聞いて」

 あ、と小さく答えて黙る。分かってはいる。山際は行けば話すだろうし、沢岡も知ればこうなるだろう。私の中ではまだ認められない死が、外堀から埋められていくようだった。

「はい、美祈子が。私は、間に合いませんでした」

 あの時電話でなく直接行ったところで、どのみち間に合いはしなかった。それでも何かあったのでは、何かと、まだもがいている。

 苦しい息を吐いて、窓外を眺める。夜の街は人の不幸などまるで関係なさそうに、煌々と光を撒き散らしている。憎らしく思ったところで、私だってこれまではそちら側だった。不幸など全て対岸で起きているもので、「大変ね」と言えばそれで終わっていた。

「つらいですね。すみません、うまいこと言えなくて。大丈夫ですか」

「はい。これから教会に向かうところなんです。今日で全て終わらせます。沢岡さんの不調も、これできっと治りますから」

 今はもう許すとか許されるとか、そんなのはどうでもいい。許されようが許されまいが、しなければならないことは一つだ。どんなことをしてでも美祈子を止めて、全てを終わらせる。

「先生、碌でもないこと、考えてませんよね」

 苦しげな息のあと、短く咳き込む音がする。そんなことを気にしている場合ではないだろう。私が終わらせなければ、自分は死ぬかもしれないのに。

 私の腕の歯型も、やはり消毒では抑えきれなかったらしい。今朝から腫れて、痛みも感じる。動けなくなる前に、終わらせなければ。

「大丈夫ですよ」

「俺は、あの人を信用してません」

 体調を崩していても、率直さは変わらない。何も答えられず俯いた。大丈夫だと重ねがけすることも、侮辱だと憤ることもできない。

「これ以上俺に、大事な人を喪わせないでください」

 沢岡は掠れた声で楔を打つ。今、そんなことを言うのは卑怯だ。目を閉じ、温もった携帯を握り直す。

「できる限り、そうならないようにします」

 死なないとも、死ぬつもりはないとも言えない。最後に私は、どんな選択をするのだろう。沢岡は更に深くまで楔を打ち込む言葉を零して、通話を終えた。

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