42.

 携帯を置き、椅子に腰を下ろす。確かに今できることは、ほかにないかもしれない。何か言ったところで今更、園長が手を止めることはないだろう。

 溜め息をついて腰を上げ、部屋のごみ箱へ向かう。小さく折り畳んだ茶封筒を拾い上げて折り目を伸ばし、中から固く縮こまったレポート用紙を取り出す。


 『種村は同僚に「持っていた御守が割れた」「やばいヤマだ」と話している

 種村は御守に一度は守られたのかもしれない

 二度目は、9時間のあいだに何かがあったのでは?

 種村は特に今回、園長とオカルトの関係を調べていた

 同僚の言葉がほんとならクロかもしれない

 縄畑の頭は、園長が署にいる間に消えた ※口外秘

 事実じゃなくても何かをかくしてる

 気をつけて』


 隠しているのは、私を守っているからだ。でも。

 種村と住職の共通点が、一つだけある。「私に余計なことを言った」のだ。でも「余計なこと」と判断したのは、私じゃない。

 私が薫子と美祈子に攻撃されたのは、しょーくんが死ぬ前だった。園で本棚が倒れ、風呂で火傷をした翌日、園長に呼び出されて話をした。しょーくんが死んだのは、その夜だった。そのあと、攻撃がやんだ。

 再び攻撃されたのは、しょーくんの首が見つかったあとだ。沢岡と一緒にいる時に薫子に、過去を思い出しそうになっていた時に美祈子に。ようやく園長の手をとって助けを求めた。祝福を受けるようになって以来、あんな強襲は受けていない。

 攻撃は全て私から逸れて、ほかの人へ向かって行くようになった。そして今日、住職が死んだ。

 不意に歌うような子どもの声がして、弾かれたように顔を上げる。声は外から、光溢れる方角から聞こえていた。レースのカーテンは、向こうにいるらしき二人の子どもの姿を透かす。

「だーれーにーしーよーうーかーな、てーんーのーかーみーさーまーの」

 園でもよく聞くような、数え歌だ。でもあれは「だれ」ではなく「どれ」だ。じゃれ合うように手をつつきあって笑う声に、背筋に冷たいものが走る。なんのために、誰を選ぼうとしているのか。脳裏に浮かんだのは、弟と沢岡だった。

「えー、だれえ?」

「おかあさんだった」

「『おかあさん』かあ」

 無邪気に交わされる会話に、血の気が引く。慌てて携帯を取りに向かおうとした足が、何かに取られて転ぶ。そのまま、地面に打ちつけられたかのように動けなくなった。這いずってでも進みたいのに、まるで金縛りにでも遭ったかのように動かない。

 いつかのように、窓の方からまた何かが歩いてくる。全身から、滲むように汗が噴き出す。今日は、二人だ。何かを引きずるような音もした。少しずつ近づく気配に目を閉じる。激しく打つ胸に荒れる息が苦しい。震える唇を噛み、滲みそうになる涙を堪える。

 気配は、すぐそばで足を止めた。

「やっぱり、さわれない」

「えんちょうせんせいが、だめだって」

「あのひときらいだなー。みーちゃんには、なんにもくれないし」

「みーちゃんが、しょーくんをもってったからでしょ」

「だって、さわれなくなるんだもん」

 ふてくされたような声が、埋もれていた記憶を掘り起こす。確かに、美祈子の声だった。漣のように粟立つ肌を感じながら、何事もなく過ぎ去る時を待つ。

「ねえ、もう『おかあさん』のとこ、いこうよ」

 もう一つの声は、薫子。うん、と美祈子も答えて玄関の方へ向かっていく。だめ、行かないで。だめ。声が出ないのは恐怖なのか、押し込められているのか。

 動かない体と格闘することしばらく、やがて呪縛が解けたかのように動くようになった。

 荒い息を吐きつつ体を起こし、滝のように伝い落ちる汗を拭う。よろけつつ立ち上がり、覚束ない足取りでテーブルへ向かった。

 携帯を引っ掴み、震える指で連絡帳を開く。

「えっと、お母さん、『お母さん』だって……もう、しっかりして!」

 思い通りに動かない指に苛立ちながら、どうにか母を選ぶ。だめだ、絶対に。

 神様お願いです、どうか母をお守りください。母は何も悪いことはしていません。悪いのは私です、罰を与えるのなら私に。

 祈りながら、無情に響く呼び出し音を聞く。不安で潰されそうになる胸を宥めつつ、神に祈る。間に合っていると信じたい。どうか、母を。

 ぷつりと切れた呼び出し音に、お母さん、と思わず大きな声が出た。

「結祈子? どうしたの、何かあったの?」

「私じゃない、私は大丈夫なの、お母さんは」

「私? 私は何も、大丈夫よ。落ち着いて、どうしたの?」

 穏やかに宥める母の声に、涙が溢れる。良かった、無事か。でも、心の声が聞こえない。

「今ね、庭掃除してるの。放ったらかしてたら、池の回りが雑草だらけになってて」

 私をあやすように話す母はまた、いやな予感を呼び起こすことを言う。だめだ、池は。

「お母さん、お願い。今すぐ家に戻って!」

「え、家? どうして」

「お願い、あとで」

 説明する、は滑り込んだ耳障りな雑音に遮られた。一気に、冷たいものが背筋を這い上がる。だめだ、今は。

「お母さん、お願い早く家に!」

「……美祈子」

 雑音の向こうで、母は私に黙っていることも忘れて呟く。

「だめ、お母さん、それはもう美祈子じゃない、美祈子じゃないの、逃げて! 逃げ」

 言い終える前に、ごとりと音がした。携帯を落としたのかもしれない。だめだ、そんなのは絶対に。

「お母さん、ねえ、お母さん! 聞こえる? お願い逃げて、だめ、神様お願い!」

 泣きじゃくりながら祈った声も虚しく、雑音に紛れて何かが落ちるような水音がした。

「美祈子やめて、お母さんは悪くない、殺したいのは私でしょ!」

 私を、殺せば。がくりと膝を落とし、項垂れる。向こうには相変わらずの雑音に紛れて、子ども達の明るい笑い声が響いていた。

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