十五、令和元年六月四日(火)

45.

 園長は予定どおり朝六時に現れて私を拾い、北へ向かった。乗る予定だった高速は事故で通行止めで、下道を選択する。まさかここまでとは思うが、もう今は何を見ても美祈子の仕業のような気がしてしまう。

 園長の話では、事を重く見た園長の父親が既に儀式を始めてくれているらしい。そのせいもあるのだろうか。どちらにしても、いやな予感しか湧かない。

 案の定、山越えに差し掛かってしばらく、山道には霧が立ち込め始めた。園長は、まずいな、と小さく零してライトを点ける。さり気なく窺った横顔は、昨日の夜と変わらず顔色が悪い。碌に休めていないのだろう、目元にはくまも見えた。

 もっともそれは、私も同じだ。目を閉じれば儀式中の薫子の姿と声が思い出されて、眠れなかった。もう手の内は知ったとはいえ、もう一度あれを見せられるのだろうか。あんな、地獄絵図を。

 呟くように御言葉を唱え始めた園長に、私も窓外を窺う。外はどこも霧に霞んで、少し先も碌に見えない。こんな濃霧に出会ったのは初めてだ。膝の上で、手は自ずと組まれた。

 速度を落とし、園長は注意深く車を走らせる。同じように高速に乗れなかった一群がいるはずだが、前を走っているはずの車すら見えなくなっていた。

 不意に、背後からクラクションが聞こえ始める。一定の間隔で鳴らされ続けるクラクションは、トラックのものだろうか。結構な速度で近づいている。後ろには普通の乗用車がいたはずだが、譲ったのだろうか。

 園長は応えて鳴らし返したあと、ハザードランプを出して路肩へハンドルを切る。ふとスカートを引かれて視線を落とすと、いつかのように足元でしゃがみこんだ美祈子が笑っていた。腕の歯型が、じんと痛む。御言葉を唱えていたのに。

 先生、と呼ぶより早く、衝撃が車を襲う。背後から突然現れた黄色い光は、私達の車を路肩の更に外へと勢いよく押し出した。


 目を覚ますと、周りはまだ霧に覆われていた。車が何度か木にぶつかったところまでは覚えていたが、その先は分からない。体中が痛いが、動けないわけではない。でも確かめた隣に、園長の姿はなかった。

 衝撃で放り出されでもしたのだろうか。エアバッグが起動して、血の跡もあった。その向こうでドアが開いている。肌にまとわりつく湿度は、このせいか。

 痛む首をさすりながら、どうにかシートベルトを外す。口元をさすると乾いた血が触れた。唇を噛んだのだろう。麻痺しているのか、ほかの場所が痛くてあまり感じられない。

 潰れて迫ったダッシュボードとの隙間を抜け出し、外へ出てへたり込む。車はあちこちが潰れて凹み、木々に引っかかって止まっていた。ガラスにもひびが入っている。よく助かったものだ。早く、助けを呼ばなくては。

 うまく力の入らない手で、足元の隙間からバッグを引っ張り出す。荒い息を吐きつつ取り出した携帯は、圏外だった。

 溜め息をつき、辺りを見回す。湿度の高い針葉樹林の森は、むせ返るほどの匂いがした。

 へたり込みはしたが、どうにか立てそうだ。手探りで掴んだ枝を支えに立ち上がる。脚は特に痛みもなく、問題はなさそうだった。荒い息を吐き、顔にまとわりつく湿度を拭う。手が血に染まっていたが、今はいい。

 園長を、探さないと。

 枝を杖にして、車の周りをぐるりと回る。でも、姿も気配もない。もっと上の方で飛び出したのだろうか。それとも。

 耳を澄ますと、滝のような水音がする。誘われるように音へ向かった。

 水音が近づくほどに霧が晴れ、河原へ下りた時には澄んだ景色が拡がっていた。その美しい景色の中に浮かぶ美祈子と薫子、二人の手に引きずられて滝壺へ向かう園長を見つける。意識を失っているらしい園長は、既に胸の辺りまで水に浸かっていた。

「美祈子!」

 駆け出そうとした足がもつれて、転ける。まだ角のきつい河原の石は、ごり、といやな音を立てた。手に痛みが走る。それでも、そんなことに構っている場合ではない。

「やめて、その人を連れて行かないで!」

 どうにか腰を起こし、私も川の中へ入る。身の凍るような水の冷たさに思わず息を詰めたあと、三人を追った。

「薫子ちゃん、やめて!」

 呼び掛けた声に、薫子は足を止める。少し困ったように美祈子を見たあと、振り向いた。右手には、しょーくんの頭をぶら下げている。

「でも、えんちょうせんせいが、つれていきなさいって。せんせいはだめだって。あとね、かみさまも『せんせいはだめだよ』って」

 ね、と確かめるように窺うと、美祈子も不服そうに頷いた。だめだ、たとえ神が許しても。

「だめなの。園長先生は、すごく大事な人なの。連れて行かないで。代わりに」

 でも、私の命ではだめなのだろう。考えろ。ほかに何か、あの子達が納得しそうな何か。

 震える手で顔を拭い上げると、冷たさに震える。これ以上は、園長が持たない。

 血に汚れた青ざめた手を凝視する。左手、だ。

「園長先生を返してくれるなら、私の左手をあげる! 命じゃないから、これなら持って行けるでしょ? ずっと繋いでた手よ!」

 突き出した左手に、薫子はぱっと顔を明るくした。

「わたし、せんせいのてのほうがいい! せんせいのてのほうがすき!」

 無邪気で残酷な選択をして、掴んでいた園長の片手を離す。ずるりと園長の肩が落ち、顔が水面へと浸かりそうになった。早く、早くしなければ。

「美祈子、ごめんね。美祈子にとっては離しちゃった手だけど。これからは、ずっと一緒よ。繋いで、連れて行ってくれないかな」

 美祈子はじっと私を見つめ、園長をしばらく見下ろしたあと手を離した。

 慌てて水を掻いて近づき、沈んだ園長を引き上げる。冷え切った体を抱き締めて、背を叩く。微かに息の音が聞こえた。良かった、生きてる。

 おねえちゃん、と小さく呼ぶ声に視線を上げる。美祈子が神妙な表情でまた、じっと私を見下ろしていた。

「本当に、いいの? その人」

「知ってる」

 先を塞いで、冷えた体を抱き締め直す。もう、分かっている。

――君が殺したんじゃない。

「……知ってるから、いいの」

 目を閉じて、長い息を吐いた。

「あ、ほら、みーちゃん。かみさまが、よんでる」

 薫子の声に視線を上げる。二人の先に見える眩い光に、目を細めた。ああ、美祈子も上がれるのか。安堵に涙が溢れる。

「ばいばい、せんせい。また、あそんでね」

 しょーくんの頭をぶら下げたまま、薫子は明るく手を振って光へ向かう。美祈子は何度か振り向いて物言いたげに私を見たあと、ようやく薫子と手を繋いだ。

 どうか、次は幸せに。

 組めない手で祈りながら、光へ向かう二人の姿を見送る。神々しい光は少しずつ拡がり、やがて私達まで飲み込んでいく。予想よりずっと穏やかで優しい光に、私達もこのまま消えてしまえばいいような、矛盾した願いが湧いた。

 もう、大丈夫だ。これで救われる。

 目を閉じると、そのまま吸い込まれるように意識が消えた。

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