7.

 薫子は、私を連れて行こうとしているのだろうか。

 いや、だめだ。そっちへ進むと戻れなくなってしまう。現実的なプロセスで解かなくては、答えが出ない。でもストレス反応で、あんなにタイミング良く本棚が倒れるのだろうか。……いや、だからだめだ。もし誰かが同じことを起こしたら、私は何を考えるか。

 地震でもなければ倒れそうにない丈夫な本棚が、突然倒れた。転んでいた本人は、そこにないボールに足を取られて転んだと言う。今日は集団ヒステリー騒動があって、精神的に追い詰められてもいる。

 周りに誰もいないのなら、私も本人が倒したと判断するだろう。自演したことすら分からないほどストレスが極まっていると判断して、休息と専門家の受診を促す。

 私が帰りがけに副園長から言われたものと、全く同じだった。だから私もきっと、どこかのタイミングで心の境界線が揺らいで我を失い、無意識にあんなシチュエーションを作り上げたのだろう。

 分析を終えたペンを置き、溜め息をつく。箸に持ち替えて、引き寄せたラーメンを啜った。食べると決めたものの作る気力が起きなくて、結局配達を頼んだ。こんな時はもっと体に優しくて栄養豊富なものを食べるべきなのだろうが、口がジャンクなものを欲していた。かじりついた分厚いチャーシューの旨味が沁みる。明日の朝は胃もたれで後悔するかもしれない。それはもう、明日の私に任せる。今日はこれを食べてお風呂に入って、とっとと寝よう。余計なことはもう。

 一息ついて、食べ終えた器を掴みキッチンへ向かった。お風呂の湯がそろそろ溜まる。

 一人暮らしを始めて、九年目か。大学進学とともに家を出て、大学卒業を機に幼稚園から程よく近いここへ引っ越した。二階建てアパートの一階、角部屋だ。縦長のワンルームは新しい造りではないが、共用庭のある開放感が気に入った。ほかの部屋には、小綺麗な花の庭や菜園に勤しむ住人がいる。

 すすぎ終えた容器をごみ袋へ突っ込み、着替えを掴んでバスルームへ向かう。扉を開けた途端、熱い湯気が噴き出して思わず飛び退いた。

 何が起きたかすぐには分からず、煌々と光を散らすバスルームから吐き出される湯気を眺める。温度設定を間違えたのだろうか。でも、ちゃんと確かめながら蛇口を捻ったはずだ。

 気を取り直し、熱気に満ちた中へと足を踏み入れる。暑い。湯気を扇ぎつつ湯を吐き出す蛇口を見ると、目盛りが高温の限界まで回っていた。

 不意に、背後で音を立てて扉が閉まる。

「ちょっと、やだ」

 慌てて戻りノブを回そうとするが、固められたかのように動かない。いやな汗が滲むように湧いた。

「なんで開かないの、やめてよ」

 探った腰ポケットに携帯はない。試しにドラマのようにぶつかってみるが、不慣れなタックルでは開きそうになかった。

 どうしよう。汗ばむ額に荒い息を吐き、誰か、と呼んでみる。この時間なら、上か隣か、一人くらいは帰っているだろう。

 ふと背後の音が変わったことに気づき、冷静になる。熱い湯がバスタブから溢れ始めていた。早く止めなければ。蛇口までは、まっすぐ行けばすぐだ。でも近くには「何かあった時に」掴むものがない。掴むとしたら、洗面台の縁か。まとわりつく湯気に荒い息を吐きつつ、まずは洗面台の縁をしっかりと掴む。少しずつ体をバスタブへ向け、蛇口に手を伸ばした。

 予測どおり、蛇口は指先がどうにか届く距離にあった。あとは、回せば。

 蛇口を握り締めて安堵したのも束の間、洗面台の縁に引っ掛けていた指先が「何か」に剥がされた。

 まずい、と思う間もなく体はバランスを崩す。咄嗟にバスタブの縁を掴んだ手が、熱い湯に触れた。声にならない叫びを上げたあと、両手で蛇口を掴み直し一気に捻る。

 湯が止まったのを確かめ、床に座り込む。荒い息を吐きつつ確かめた左手は、真っ赤になっていた。さっき、確かに誰かが指を剥がした。

 でも、誰が、なんのために。

 かちゃりと音がして、扉が大きく開かれる。再び暗がりに流れ始めた湯気の流れを、ぼんやりと眺めた。

 本当にこれは私の幻覚で、全て自演なのか。子ども達のあれは、本当に集団ヒステリーなのか。そうであっても違っても、私はここからどうすればいいのだろう。

 痛み始めた手にのろりと起き上がり、冷たい水を浴びせる。飛沫を上げる水を眺めながら、見えなくなった分析の行末に視線を落とした。

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