四、令和元年五月十五日(水)

8.

 泥のように眠って目を覚ましたら、左手の痛みは消えていた。水膨れも腫れもなく、まるで何事もなかったかのようだった。確かめたバスタブはほんのり温い水で満たされていたが、目盛りはいつも通り四十度のところで止まっていた。戻した記憶はない。

 何も考えられないままシャワーを浴び、凭れる胃をさすりながらシリアルを掻き込んで幼稚園へ向かった。


 努めて明るい表情を作って職員室へ入ると、副園長が手招きをする。

「岸田先生、おはよう。来たとこ悪いけど、ちょっと」

 言葉はきつくなかったが、表情は険しい。良いニュースではないだろう。

「おはようございます。何かありましたか」

「クラスの子から、欠席連絡が今のとこ二件来たよ」

「そうですか」

 昨日の今日だから、やはり大事を取って休ませた家庭があるのだろう。

「子どもが『先生のそばに薫子ちゃんがいて怖い』って。集団ヒステリーのことと、まだ死がちゃんと理解できないから心の処理が追いつかないんですって話はしたけどね。保護者の間に広がるのは、気をつけといた方がいいね」

 ああ、と頷く。園への取材は防げても、保護者のところまでは周りきらない。そもそも「そっとしておいて」が通用する相手なら、こちらだって通報などしていないのだ。

 既に週刊誌やテレビには幸絵の育ちから同僚や保護者の反応、数年前の園の訴訟騒ぎまで流れ出している。頻繁な通報で恨みを買ったのだろう、週刊誌ではまるで園がカルト的教義に基づき児相にも相談せず薫子を見捨てたような取り扱い方だ。おかげで今も背後では、受けるべき電話が捨てるべき電話に埋もれて大変なことになっている。

 園長は今日まとめて取材を受け入れると話していたから、何かするのだろう。マスコミがいなくなるまで通報する対応を決めたのも園長だし、あの人は私が知る牧師のタイプとは違っていた。ものすごく、ふわっとしていない。

「それで、園長が昨日のことで話がしたいって言われてたから、ちょっと行ってきて。教会にいると思うから」

「分かりました」

 「昨日のこと」が集団ヒステリーか本棚を倒した一件かは分からないが、園長の呼び出しだ。拒否するわけにはいかない。小さく頭を下げて、職員室を出た。

 教会は、細い通りを挟んだ向かい側に建っている。日曜の主日礼拝の度に百人以上の教会員が訪れる、割と大きな支部だ。名簿には政財界の重鎮も名を連ね、選挙の前には顔を出す議員もいる。政教分離とはなんなのか、まあ今はそんな面倒くさいテーマに突っ込んでいる時ではない。

 ノックして入った牧師室では、今日もきっちりとスーツを着こなした園長がデスクでファイルを捲っていた。うちは特に牧師の服装に決まりはなく、聖餐式などの行事でもない限りは普通にスーツを着ている。三十九歳と若い主任牧師は、主張の控えめな顔の造作も相俟って「クールで素敵」だとお母様方の間で人気が高い。訴訟騒ぎのあと副牧師から主任牧師へと昇格して、確か四年目だ。祖父と父親も教団の牧師らしい業界のサラブレッドだが、三代も続くと夢や希望がなくなるのかもしれない。牧師家庭の思い出を「貧乏だった」の一言で済ます強者だった。

「昨日、クラスで集団ヒステリーが発生したとか」

「はい。男の子が『声が聞こえる』と言い始めて、落ち着かせるために頭を撫でようとしたら、『痛い!』と急に。その子が薫子ちゃんの名前を出したせいか、ほかの子達も次々に騒ぎ出して、一人の子が『噛んでる』と。職員室で確かめたら、制服の上から噛んだとは思えないほど鮮やかな痕がついてました」

 そのあと、迎えの時には綺麗に消えていたことや、彩乃が薫子がずっと私のそばにいたと話したこと、多くの子どもが怯えてハイタッチをしなかったことを話す。

「君の方は? 間近で本棚が倒れたそうだけど」

「そんな、大したことではないんです。お騒がせして申し訳ありません」

「一応、話してみてもらえるかな」

 でも話せば、病院を勧められるのではないだろうか。とはいえ、向かいでじっと見据える視線に抗えるわけもない。一息ついて、消えたボールと視界に割り込んだ薫子の上靴の話をした。

「そうか」

 園長は頷き、ソファへ凭れる。腕を組みつつ、考え込むように顎をさすった。てっきり「幻覚だね」と一刀両断されて病院行きを宣告されると思っていたのに、意外な反応だ。

「一つお伺いしたいんですが、ここにもエクソシストみたいな役割はあるんですか?」

「カトリックのとは違うけど、あるよ。教義的にはあまり重要視してないけどね」

 あっさりと認めた園長に、素直に驚く。

「ただ、こういうのはあんまり口にするべきじゃないと思うんだけど、日本の場合はやっぱり寺や神社のお祓いの方が効くんじゃないかって」

「それ、先生が言います?」

 本職の暴露に狼狽える。一神教に仕える身分で、後ろの十字架が飛んできそうなことを言っていいのだろうか。

「日本は悪魔や悪霊より、妖怪や幽霊の風土だからね。家に仏壇があって正月には初詣に行ってクリスマスを祝う民族だし。僕は牧師館で育ったけど、母が長女で仏壇持って嫁いだから家にあったよ。それを特別煩く言う人もいなかった。宗教の違いより家族や先祖の霊を弔う思いを優先する、懐の深い国だ。神の恩寵より仏様の慈悲がしっくりくるでしょ。風土は宗教に勝ると僕は思ってる」

「じゃあ、こちらの悪霊祓いは効果がないと」

「いや、ないわけじゃないんだよ。ただ『向こう』との共通認識がないと、効果を十分に発揮しないんじゃないかってことでね。僕の場合は結局、最後は聖書で直接殴るしかない感じになるんだよね」

 まさかの物理。いや、それ以前に、気になることがある。

「それじゃあ、先生も祓えるってことですか?」

「一応できるよ。聖書で殴るけど」

 だめだ。幽霊になっても、子どもに物理攻撃はだめだ。せっかく解決の糸口が見えた気がしたのに、この人には頼めない。

「ただ、そうは言ってもね」

 項垂れていた頭を上げると、園長がにこりと笑む。冷ややかな造作が柔らかく崩れた。

「祓うにしても、まず最初に取り除かなきゃいけないものがある。起きていることが『霊によるものではない』可能性だ。次に、本当に祓うべきものなのかの吟味。それが自分の弱っている時だけ見えるのなら、僕は祓うより自分の調子を整えることを勧める。祓ってそれが見えなくなったって、また違うのが見えるだけだから。自分を変えないときりがないんだよ」

 ああ、と納得する私に、ソファへ凭れていた背を起こす。

「だから君は、まずは病院へ行って診断書を出してください」

「でも、それは」

「『休職させられる』と思うのは、自分でもそれほどまずい状態だと理解してるからでは?」

 間違いのない指摘に答えられず、俯いた。自覚できているだけマシと言ったところで、覆るわけはない。

「僕達が何より優先すべきことは、園児達を守ることだ。そのためには、手段を選んでいられない。マスコミにも今日、誹謗中傷を報道した機関やネットに書き込んだ人達への法的措置をとることを伝える。必要であれば訴訟を起こすよ」

 不穏な言葉を口にした園長に、再び顔を上げた。私の見てきた牧師なら「皆で試練を耐え抜きましょう」とか「神は不要な苦しみはお与えになりません」とか言い出しそうな場面だ。実際、隣の部屋にいる副牧師の入谷いりやは私をそう慰めた。そうですね、とは言えなかった。

「ここで名誉回復のために動かなければ、既に卒園した子ども達やこれから卒園する子ども達が不要な後ろ指を差されることになる。園で過ごした三年ないし二年が、大人の残酷な好奇心のせいで隠したい思い出になってしまう。そんなことは、許してはいけないんだ」

 笑みの消えた大人しい表情の中で、視線だけは力強い。罪を憎んで人を憎まず、だから罪はしっかりと追求するのだろう。

「先生の考えに賛同できるのに従わないのは、よくありませんね。分かりました、早く受診できるところを探して行ってきます」

「ありがとう」

 納得して腰を上げた私に、園長も続く。

「ちなみに、訴訟の費用献金とかはありますか?」

「数日前から名簿片手に『卒業なさった園が今、名誉毀損の危機なんですけど』って電話かけててね。結構な勢いで集まってきてるから大丈夫だよ」

 事もなげに裏側を語って、園長は涼しい顔で笑った。今更、もう驚かない。

「僕も一個、聞いておきたいんだけど」

 牧師室のドアを開きながら、窺うように私を見る。

「もし全ての可能性を排除した結果『霊の仕業』になったとして、僕が聖書で殴るのを君は許す?」

「だめですね」

 どう殴るのかは知らないが、もうこれ以上あの子を傷つけたくはない。苦笑を返すと、園長は「だろうね」と笑って私を見送った。

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