6.

 全員を送り届けて、教室へ戻る。預かり組は教室移動をし終えたから、一日の活動を終えた中はがらんとしたものだ。

 教室へ入ってすぐ、まっすぐにキャビネットのところへ行き廃棄予定のラジカセを裏返す。確かめたコードは、何事もなかったかのように繋がっていた。あれは、幻覚だったのか。

 公輝の腕には確かに噛み痕があったし、コードだって間違いなく切れていた。でも見えない誰かが噛むなんてありえないし、誰も触っていないコードが切れるなんてありえない。だから公輝の腕には何もなかったし、コードも繋がっている、のか。私の手に触れた感触は。

 でも、死んだ人間が触れるなんてありえない。だから今は、何も。

 思考が続かない。理路整然と考えられない。何が正しくて、誰がおかしいのだろう。

 いや、分かっている。おかしいのは私だ。薫子が死んでから、眠れない夜が続いている。子ども達のケアと保護者対応、それに加えて児相との話し合いや警察への捜査協力もある。ご飯も、弟の炒飯以降はすっかり適当だ。これでまともに精神が活動するわけがない。今日はちゃんと食事をとって、しっかり眠ろう。そうすれば、明日は少しくらいマシになるはずだ。

 一息つき見上げたホワイトボードの上には、木の棒を組んだだけの簡素な十字架がある。

 神様、薫子ちゃんを光の中へお迎えください。子ども達を、どうかお守りください。

 手を固く組み、私の知る神に祈る。手を解き、疲れた目頭を押す。鈍く奥へ響く痛みに溜め息をついた時、呼ぶ声がした。

「岸田先生、刑事さんが来てる」

 高橋先生は疲れ切った私を見て、慮るように笑む。高橋先生は育休復帰一年目で、私より五年は先輩だ。現場の勘を取り戻すためとはいえ、自分より経験豊富な先生を副担任に据えるのは申し訳なさもある。でも今は、本当に助かっていた。

「先生、ちゃんとご飯食べてる?」

 揃って廊下を行きながら、高橋先生は私を見上げる。私は一六〇を少し過ぎたくらいだが、高橋先生は少し見下ろす位置にいる。実際に母親でもあるし、ふっくらとした見た目と性格が母性を強く感じさせる先生だ。一方で私は、あるべき肉もない。子どもに抱きつかれて驚愕の表情をされたことも、一度や二度ではなかった。

「それが、あんまり喉を通らなくて。給食は子ども達の手前、なんとか食べられるんですけど」

「子ども達はもちろん大切だけど、先生が崩れたら子ども達はもっと不安になっちゃうよ。担任は太陽みたいなもんなんだから。私達がサポートするから、先生はちゃんと休んで」

「はい。ありがとうございます」

 悲しい事件のあとでも私が働けているのは、間違いなく園のサポートのおかげだ。誰も私を責めず、慰め、励ましてくれる。児相も警察も、対応は適切だったと言ってくれた。でも、「見守る」なんて甘かったのだ。

 薫子は、一度も予防接種を受けていない子どもだった。市は何度か接種推奨の通知を出していたらしい。園には全て受けたと虚偽の申告をして、入園していた。

 本来なら退園勧告も可能な案件だが、児相との協議の結果、園で見守ることになった。保護に関しては「保護者と信頼関係を築き対話を試みる段階であり、時期尚早」と、慎重な児相側が首を縦に振らなかった。喘息は軽度でも、薫子を診た医療機関が「継続的な治療を要す」と判断したに関わらず、だ。

 とはいえ、微妙なところなのは分かっている。予防接種を拒否する親や投薬依頼書に民間医療の「薬もどき」を書き込む親は、ほかにもいる。自然育児派の彼女らと話し合っても無理なのだ。逆にこちらを説得に掛かってきて、埒が明かない。それなら下手に怒らせて「これからは家庭で私のやり方で育てます!」と家に籠もられるよりは、監視の目を光らせつつ子どもと社会の関わりを断たない道を選ぶ方がいい。それに幸絵は、薫子に医療機関を受診させた対処はすんなりと受け入れていた。

 うちの園は数年前、「親の希望しない医療行為を勝手に受けさせた」と訴えられたことがある。階段から落下して頭部を打ち、痙攣を起こした子の親だった。もちろん「救急車を呼ぶ対処は適切であった」として訴えは退けられたが、当時は「宗教的儀式があった」「陰で悪魔崇拝か」など、謂れなき中傷を浴びてカルト扱いもされた。苦い思い出として引き合いに出し、あれよりはマシと思ってしまったのだ。

 後悔はどこからでも、いくらでも湧いてくる。私にできる最大の弔いは、「次」を失くすことだけだ。でもその考えはどこか、薫子を糧として消化したように感じる。まだ、そんな勇気はない。

 職員室へ戻った私に、聞き込みを行っていた刑事が振り向く。痩せて顔色の悪い、あまり健康ではなさそうな男だ。サイズの合わないスーツは着崩れているし、目つきも鋭くぎらついている。髪型を除けば、私にはしょーくんとの違いが分からなかった。

 名前は沢岡さわおか、だったか。三十過ぎに見えるが、もう少し若いかもしれない。

「すみません、お忙しいところを」

「いえ、大丈夫です。刑事さんこそ、お疲れさまです」

「いやあ、私はこれが仕事なんで」

 沢岡は社交辞令をまともに受け止めながら、勧めたパイプ椅子に腰を下ろす。

「早速なんですが、鈴井すずい幸絵と縄畑なわはた翔太の園での人間関係をもう少しお伺いしたくて」

「申し訳ありませんが、お話した以上のことは何も」

 その問いは、もう何度目か。その度に同じことを返している。幸絵は誰ともつるんでいなかったし、しょーくんは誰とでも気軽に挨拶はするが、特別親しい相手はいなかった。

「事件から一週間になりますけど、様子がおかしい方とかいませんかね」

 予想外の質問に、必死に記憶をほじくり返していた頭を上げる。

「皆様まだ動揺なさってるので、絞り込めません」

「じゃあ、二人のことをやたらに聞きたがる人はいますか?」

「いらっしゃいます。でもすごく噂好きな方なので、何もお話ししないようにしています」

「事件以来、姿を見せない人は」

「ショックを受けてお休み中の園児のご家族は、お見えになりません」

 苦笑した私に、沢岡は頭を掻く。恐らくは薬物が保護者にも渡っているのではないかと探りに来たのだろう。そんな恐ろしい可能性があるのなら私だって協力したいが、本当に心当たりがないのだ。幸絵は明らかに保護者達には無関心だったし、しょーくんは。

 鳴り響く電話のベルに、我に返る。

「園に薬物は、持ち込んでいない気がします」

 ぽそりと漏らした私に、沢岡はメモの手を止めた。

「どうして、そう思われます?」

 窺う視線の鋭さに、思わずたじろぐ。言うべきではなかっただろうか。

「以前もお話しましたが、薫子ちゃんのお世話はほぼ彼の担当だったんです。『面倒見がいいですね』と言ったら、『自分は複雑な家庭だったんで同じ思いはさせたくないんす』って」

 その時もハイテンションではあったが、悪い笑顔ではなかった。薫子にも、しょーくんの顔色を窺うような様子はなかった。

「もちろん、彼のしたことは絶対に許せるものではありません。でも私は彼が園を、薫子ちゃんの環境を率先して壊すような行いをするとは思えなくて。薬物も、発作にパニックになって思わず与えてしまったんじゃないかと」

 救急車を呼ぶより先にそんな薬物を選んだ理由は、私には分からない。喘息のことは、しょーくんにも伝えていた。幸絵は煩そうに「忙しいんです」だったが、しょーくんは「今度連れて行きますんでー」だった。面会した児相の職員には、追い出されるから幸絵には強く言えない、と話していたらしい。多分、気にはしていたのだろう。

「あ、こんな肩を持つようなことは話すべきではないですよね」

「いや、ありがたい情報です。私達も相手がどんな人物なのか、見極める必要がありますんで」

 沢岡は満足したように頷き、ペンを止める。

「先生の周囲で今、気になることはありますか?」

 もちろん、ある。とはいえ、これは警察に言うことではない。

「特には」

 呟くように返して頭を横に振り、伏せていた視線を上げる。すぐに射抜くような眼差しと合って、びくりとした。

「なんでしょうか」

「すみません、お疲れなので大丈夫かと思いまして。子ども達の前で沈んだ顔はできないし、先生方は大変ですよね」

 沢岡はメモとペンを内ポケットへ戻し、腰を上げる。パイプ椅子が小さく揺れた。

「やっぱり、分かりますよね。今日はきちんとご飯を食べて、眠るつもりです。眠れたら、いいんですけど」

 続いて腰を上げながら、少しくぼんだ気がする頬を押さえる。

 昨日の夜、祖父母から半調理品やレトルトおかゆの詰め合わせが届いた。母の「ほんとに何もなかったの」報告に、祖父母もいても立ってもいられなくなったのだろう。添えられていた手紙には流麗な筆文字で『いつでも辞めて帰ってくればいい』『見合いの話ならいくらでもある』と綴られていた。後半はともかく、祖父母も孫の現状に心を痛めている。祖父母にまで、心配を掛けてしまった。

 実家は、どちらかと言わなくても裕福な家だろう。父方の家は貿易会社から海事代理士へと転身し、今は祖父と父、弟の三人が資格を持ち働いている。祖父は会長で父が社長、弟は平社員で修行中だ。母は海運事業を行う会社の娘として産まれ、結婚後は専業主婦で私と弟を育てた。

 宗教教育を望んだのは母で、母方はプロテスタントが本格的に日本へ伝播された明治以来のクリスチャン一族だった。父方は普通に仏教だが、私や弟が日曜学校へ通っても祖父母は何も言わなかった。私達家族は離れに暮らしていたから、同居でも程よい距離が保てていたのだろう。祖母と母がいがみ合う姿を見たことはもちろん、両親の諍う姿も見たことはなかった。私達姉弟がけんかをしなかったのは、欲しいものは大体与えられてきたし、差別なく褒められてきたからもあるだろう。

 子どもの苦しみなんて、お祈りの中に出てくる「飢饉で苦しむ世界の子ども達」しか知らない育ちだ。この仕事を始めてから、知った世界がいくつもある。薫子の世界も、その一つだった。

「どれだけ祈ったところで、あの子が帰ってくるわけはないですしね」

 見送りに立った玄関で、どうにもならない後悔を口にする。沢岡は靴べらを断りながら、傷んだ革靴に足をねじ込んだ。

「あまり褒められた言い方ではないと思いますが」

 踵に指を突っ込んで履き終えたあと、さっきより少し近い位置で視線を合わす。土が上がらないよう、玄関には五センチ程度の段差がある。弟よりは少し低そうだから、一七五くらいか。

「いろんな事件を見てきた立場で言えば、あの子には救いがあって良かったと思ってます。先生のような人に出会えないまま死んでしまう人達もたくさんいますんで。……すみません、やっぱり良くないですね」

「そんなことありません。お心遣い、ありがとうございます」

 苦手で、と苦笑しつつ痩せた頬を掻く沢岡に笑う。確かに決してうまい慰めではなかったが、必死で捻り出したのも分かる。眉を顰めるつもりはなかった。

「警察の皆様には、本当に感謝しています。すぐに駆けつけてくださるおかげで、マスコミに神経をすり減らすことがなくなりました」

「どんどん呼んでやってください。幼稚園だの小学校だのに節操なく押し寄せる連中は、不審者扱いで構いません」

 じゃあ、と軽く頭を下げて沢岡は玄関を出て行く。私も、頭を下げて見送った。

 決して柄が良いわけではないが、職業病みたいなものだろう。人を疑わなければ事件は解決しない。でも、悪い人には見えなかった。

 少しだけ空いた胸に感謝しつつ振り向いた時、講堂への廊下に子どもの影がちらついた。預かり組の、と改めて確かめたそこに影はなく、薄い暗がりの中にボールが転がる。全員が一つずつ、入園時に買い求める赤いボールだ。預かり組の子が置き忘れたのだろう。辺りを見回すが、子どもの姿はない。職員室から収まることを知らない電話のベルが響くほかには、園庭で遊ぶ子ども達の声が聞こえるくらいだ。

 トレーナーの腕をさすり、胸を落ち着ける。名前を見て、クラスへ届けておかなくてはならない。講堂の奥に見える十字架を眺めながら、少しずつボールへ向かう。部屋に挟まれた窓のない廊下は、昼間でも薄暗い場所だ。ボールは講堂からの光が届かない、一番暗い印刷室の前にある。影を伸ばすボールの前に腰を屈め、手を伸ばした。

「せんせい」

 突然聞こえた声とともに、小さな上靴の先が視界に割り込む。『すずい かおるこ』。弾かれたように顔を上げた先で、本棚が不自然にぐらついた。慌てて逃れようとした足をボールに取られ、派手に転ぶ。必死に足を引き寄せ体を逃してすぐ、けたたましい音を立てて本棚が倒れた。

 スチール製の本棚は、印刷用紙のストックや資料のレターケースでかなりの重量があったはずだ。直撃していれば、無事ではすまなかった。

 慌ただしく飛び出してきた職員達が、呆然と視線を揺らす私の元に集まる。

「大丈夫、けがは?」

「大丈夫です。ボールに足を取られて」

 そういえば、あのボールは。さっきまで転がっていたはずの、赤いボールだ。でも見回しても、どこにも見当たらない。

「ボール?」

「さっき、そこに転がっていて」

 座り込んだまま顔をさすり上げた私の肩を、隣にしゃがみこんだ副園長が抱くようにしてさする。まるで、母親のようだった。

「今日はもういいから、早く帰ってゆっくり休みなさい」

 違う、そうではない。本当に見えたし、あったのだ。見えた上靴には、確かに『すずい かおるこ』と書いてあった。でも話したところで信じてもらえない。話せば話すほどカウンセラー案件になって、病院へ行かされてしまう。

 力なく頷き、副園長に支えられながら起き上がる。視線をやった講堂には相変わらず、何事もなかったかのように掲げられた十字架があった。

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