3.

 今日は、薫子を喪って初めての日曜日だ。主日礼拝では多分、園長が安らかな眠りを願う説教をしただろう。私は、行けなかった。

 昼前に現れた弟はレジ袋の中身を冷蔵庫へ詰め込みながら、ほんとになんにもない、と笑った。

「母さんが『ほんとに何もなかったの』って、何回も言ってたけど」

「買い物に行く気も起きないし、食欲もなくて。ご飯だけ炊いて冷蔵庫にあるものを消化してたの」

 それでも昨晩は両親が寿司を食べに連れ出してくれたし、今朝は母の焼いたパンと父がくれたコーヒーを飲んだ。久し振りに、命を繋ぐだけではない食事を取った気がする。

 痛ましい事件を知らせるニュースはあの日、すぐに全国を駆け巡った。報道には園の名前は出ていなかったが、情報の流出は止められない。都内で暮らしていれば、どこから聞いてもおかしくないだろう。父からの電話は、「結祈子ゆきこの園だと聞いたけど、本当か」と真偽を確かめるものだった。

「炒飯作るから、ご飯温めて」

 弟はシャツの袖をまくり上げて手を洗う。私とよく似た骨の細い体格で、横から見ると薄っぺらい。太れない筋肉のつきにくい体質は、弟には悩みらしい。背は一八〇近くあるのに、ひょろく見られて舐められるのだといつか話していた。ただそれは、体格よりも性格のせいだろう。私も弟も気性の激しい性質ではない。むしろ争いごとは率先して避ける方だ。姉弟げんかは二十六と二十四の今になるまで、一度もなかった。

「休みの日にごめんね。遊びに行く予定があったんじゃないの?」

 テーブルの上に並べられた材料の中から、パックのご飯を二つ手に取る。弟は清めた手で椎茸と人参、ネギを選んだ。五目炒飯か、テーブルには焼豚とむきえびが残される。私と違い凝り性の弟は、炒飯とキーマカレーが得意料理だ。

「夕方からフットサルがあるだけだから、気にしないでいいよ。これ食ったら帰るし。ねえちゃん、ごま油ある?」

「確か、あったはず」

 ごはんのパックをレンジにかけ、コンロ下の扉を開けた。事件のことは口にしないが、心配しているのは分かっている。早く元気にならないと。

 しゃがみこみ、奥に見つけた細長いボトルを掴む。残り少ないが、足りるだろうか。不意に、おねえちゃん、と呼ぶ声がして顔を上げる。その途端、勢いよく扉が閉まった。

「痛っ」

「何やってんの、大丈夫?」

 弟は驚いたように包丁の手を止め、私を見下ろす。

「大丈夫。急に扉が閉まっただけ。びっくりした」

 改めて扉を開き、思わず手放してしまったボトルを取り出す。挟まれた手首は少し痛むが、大丈夫だろう。どれくらいの勢いで閉まったのか、見ていなかった。

「ごめん、それでなんだった?」

「え、何?」

献市けんいち、さっき呼ばなかった?」

 弟は手を止め、少しの間を置いて苦笑する。父親似の、私とは違う濃い顔立ちが少し寂しげに崩れた。

「この辺で音立ててたのが、そんな風に聞こえたんじゃない? ねえちゃん、疲れてるんだよ」

「ああ、そっか。そうかも。ごめん、変なこと言って」

 一息つき、ボトルを差し出す。

「あとは俺がするから、本でも読んでて」

「そうする、ありがとう」

 戦力外通告に素直に従い、ソファへ撤退する。といっても傍らに積んだ推理モノは今はつらいし、ハッピーエンドのエンタメも苦しい。逡巡の挙げ句選んだ聖書も結局、二ページも読めなかった。

 薫子は、救われなかった。何も悪いことなんてしていなかったのに。

――きっとイエス様が憐れまれて、そばにお呼びになったのよ。

 副園長が、溜め息交じりに零した。そう思わなければ、そう信じなければ、とてもではないがやっていけない。

 薫子の遺体は祖父母、つまりは幸絵の両親に引き取られ、六百キロ離れた土地へと運ばれた。家族葬にするからと、園の関係者は参列を拒否された。最後の別れには、立ち会えなかった。

――またあしただよ、ぜったいね。

 寂しげに手を振る、あの姿が最期になった。明日は、来なかった。

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