二、令和元年五月十二日(日)

2.

 薫子が私を特別に気に入ったのは、昨年の冬だった。

 講堂に年少組を集めていつものように体操をしている最中、薫子の喘鳴を聞いた。すぐに確認した顔は青白く、小鼻が不規則に膨らんだ。

 かつての自分とこれまでの経験を引き出せば、薫子の症状は喘息だと察せた。声を掛けても答えられず、座ることはできるが横にはなれない。急いで救急車を呼んでもらい、担任が幸絵に連絡した。

 幸絵は一言、「忘れてました」と言ったらしい。でも半年ほど前から罹患していて、家では薬を飲んでいる状況だった。連絡帳でも口頭でも、伝える機会はいくらでもある。「そうだったんですか」と受け入れて不問に付すには、あまりに不自然だった。入園拒否に遭わないよう隠したのだろうと、その時から要観察の家庭となった。

 もっとも児相案件となったのは、今年度になってからだ。年が明け春休みが明けても、幸絵は発作時に必要な薬と投薬依頼書を園へ提出しようとしなかった。昨年の担任は、本当は受診すらさせていないのかもしれない、と報告した。治療内容や薬のことを尋ねると話が二転三転する上に、薫子自身も薬を飲んでないと言ったらしい。医療ネグレクトの可能性を考え、園長は一回目の通報をした。

 それはさておき、薫子の窮地を救った私は、そのあと薫子から多大な愛着を寄せられることになった。それはもう、母親である幸絵を凌ぐほどに、だ。

 私は隣クラスの担任だったが、その一件以来薫子は私を見るなり飛びついてきて、自分のクラスへなかなか帰ろうとしなくなった。私が座ればすぐ膝に乗り、歩く時は私の手を握り締めて離さなかった。

 とはいえ、私の膝に乗り手を繋ぎたい子は薫子だけではない。みんながしたがるから順番を作るほどなのだ。でも薫子はそのルールを破壊し、近づこうとする子を容赦なく叩いて噛みついた。もちろんその態度は四歳児だからといって許されることではなく、私も担任も何度となく話をしていろいろな角度からアプローチをした。しかし迎えに来た幸絵は、私達の報告と対話の促しに、いつも煩そうに顔を背けるだけだった。

 体に程よく馴染む高そうな紺のスーツに身を包み、栗色の長い髪をいつも丁寧に巻いていた。品の良い艶の灯る指先も主張しすぎない化粧も、自分に似合うものをよく分かっていた。それでなぜ、「子育て」は判断を誤ったのか。薫子を冷ややかに見下ろす目は、多くを占めるほかの母親のものとはまるで違っていた。

 私が延長預かりの担当になると、薫子は別れのぎりぎりまで私の手を離そうとしなかった。また明日と宥める私を、黒目がちの大きな目でじっと見つめた。薄くけぶる眉を寄せ、縋りつくような目つきをした。「帰りたくない」が言えないのだろうと胸が痛んだ。

――またあしただよ、ぜったいね。

 私の耳元でささやき、今生の別れをするかのように抱き合ったあと去って行った。もう明日は会えないかもしれないと、いやな予感が胸を占めたのは一度や二度ではなかった。

 幸絵に比べれば二日に一度は迎えに来るしょーくんの方がマシ、だと思っていた。薫子もしょーくんだと嬉しそうだったし、しょーくんも嬉しそうに迎え入れていた。

 薫子がいつも綺麗な制服を着ていびつながらも髪を結ばれ、短い爪をしていたのはしょーくんが担当だったからだ。恋人の連れ子を虐げる男のニュースも聞くが、薫子の体には虐待を思わせる痕は見られなかった。少なくとも幸絵よりは懐いていたし、かわいがられていた。

 とはいえ幸絵の七つ下、二十一歳で夜の仕事をしていること以外は、確かによく分からない男だった。痩せて顔色は悪いのに吊った目はぎらついて、いつもどこか落ち着きがなかった。無造作に束ねられた長い茶髪は日に日に黒髪の割合が増え、最近ではまんなか辺りで色が分かれていた。腕には蛇のタトゥーがあって、「園に来る時は隠して欲しい」とやんわり頼むも「これは俺のシンボルなんで!」とハイテンションで拒否された。

 そのハイテンションは、薬物のせいだったらしい。幸絵が逮捕された翌日、しょーくんは売人だと警察が言った。

 しょーくんは喘息発作を起こしたと思われる薫子に薬物を吸わせて殺害し、今も逃亡中だ。そして仕事から帰宅した幸絵は通報せず、折り畳んだ布団の奥に薫子の遺体を隠した。

 薫子は、ゴールデンウィークの前には既に死亡していた。

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