三、令和元年五月十四日(火)

4.

 電話をかけ続けたあの日から、一週間が経った。

 保護者会もどうにか終わり、園児達も通常ベースの通園を始めた。ショックの強い子は休みを挟みつつ、自分のペースでの復帰を図る。通園組も、必要や希望に応じて面談や外部カウンセリングを受けられるよう整えている。多くの子にとって、これが初めて経験する身近な死だ。

 うちのクラスは私と副担任の高橋たかはし先生、カウンセラーの三人体制で臨む。薫子は友達作りが苦手で、正直に言ってしまえば怖がられていたが、それでもクラスの一員であることには変わりない。一人欠けた環境を不安に感じるのは、当然の反応だ。

「せんせい、へんなこえがする」

 悲痛な顔で両耳を押さえる公輝こうきに、片付けの手を止めた。

「どんな声?」

「『きらい』って、ずっときこえる」

 覆っていた小さな手を離しながら、公輝は半泣きで私を見上げる。嘘をついているようには見えない。でもそんなことを言う子は。

 脳裏に一瞬、薫子の姿がちらついた。確かに公輝は、薫子と犬猿の仲だった子だ。受けたショックが形を変えて現れているのだろう。

「そっか。今もまだ聞こえる?」

 とにかく、安心させるのが最優先だ。しゃがみこみ、不安げに揺れる視線を合わせる。頭を撫でようとした時、公輝が突然「いたい!」と叫んだ。

「どうしたの?」

「いたい、かおるこちゃん、やめて!」

 突然飛び出した名前に、近くにいた子ども達が一斉にこちらを見る。

「かおるこちゃん!」「かんでる!」「かおるこちゃんだ!」

 ヒステリックな金切り声が連鎖し、瞬く間に悲鳴へと変わっていく。

「大丈夫よ、公輝くん。先生がいるでしょ」

 泣きじゃくる公輝を抱き上げて背をさすり、いつもどおりの口調で宥める。高橋先生とカウンセラーも、子ども達を落ち着かせに掛かっていた。私の目配せに二人は頷く。子どもは特に、集団ヒステリーを起こしやすい。高い感受性と共感性が不安を連鎖させて、幻覚や妄想を拡げてしまうのだ。こんなことは珍しくはない。ファティマの奇跡すら、集団ヒステリーと思う向きがあるくらいだ。

「もう大丈夫よ、大丈夫。ゆーっくり息してごらん」

 さりげなく確かめた脈はまだ少し速い。声掛けに、公輝は拙く息を吸った。

「せんせい、うでがいたい」

 落ち着きを取り戻した公輝が、洟を啜りながら小さく訴える。子どもは本当に、そんな気分になってしまうのだろう。

「そっか、腕が痛いんだね。じゃあ、絆創膏ペタンしに行こうか」

 今は少しでも気持ちを認めて、安心させるしかない。守られていること、何かあっても大丈夫なことを伝えて、少しずつ日常を取り戻していく。穿つのは一瞬でも、埋めるのは時間が掛かる。

 頷いた公輝を連れ、あとを二人に任せて職員室へ向かった。

「あら、公輝くんどうしたのー?」

 明るい声で迎えた副園長に、公輝も少し笑顔を取り戻す。

「腕の痛いとこに、絆創膏ペタンするんだよね」

「ああ、そうなの」

 目配せに事情を察したらしい副園長は踏み込まず、当たり障りのない労りを返した。公輝を椅子に座らせ、救急箱を取りに行く間は副園長に任す。

「あらあ、噛まれちゃったの。痛かったねえ」

 思いがけない言葉に、救急箱を掴んだまま凍った。

――かんでる!

 そういえばさっきも、だ。あの子はどうして「かんでる」と言ったのか。

 背筋を冷たいものが一気に這い上がる。動悸に、いやな汗がこめかみに滲んだ。大丈夫、そんなことはない。ありえない。これもきっと集団ヒステリーの一種だろう。「かんでる」と言われたから、痕が浮き上がっただけだ。聖痕スティグマだって、自分が釘を打たれたわけじゃない。

 どうにか胸を落ち着かせ、救急箱を手に二人の元へ帰る。

 お待たせしました、と努めて明るく言いつつ確かめた腕には、確かにくっきりと歯型がついていた。縫い目のように刻まれた痕は、制服の上から噛んだとは思えない鮮やかさだ。

「ちょっと見せてねー」

 震えそうになる手で、痕を確かめる。腕を咥えるような形でついていた歯型の片側には、欠けがあった。前歯が二本。下の前歯なら、薫子もちょうど生え変わりで揃っていなかった。

 いやな符号に、また冷たい汗が噴き出す。でも子どもの前で、取り乱すわけにはいかない。

 大丈夫、ありえない。こんなことが起きるわけはないのだから。

 言い聞かせながら、おまじないのように絆創膏を貼る。処置を終えた公輝はけろりとして椅子を下り、私を待たず駆け出して行った。

「けんかしたの? かなりの痕だったけど」

「違うんです、それが、ちょっと」

 公輝を送り出して気が抜けたのか、目眩に額を押さえる。支えられながら今度は私が椅子へ腰を下ろし、全てを伝えた。

 副園長は訝しそうな表情はしたが、否定はしなかった。おそらく私と似たようなことを考えているのだろう。

「公輝くんが、それまでに噛まれてたってことは?」

「朝から三人体制でずっと見てましたけど、ありませんでした。それに、あんな強さで噛まれていれば泣くと思います。ほかの状況とも照らし合わせて、集団ヒステリーじゃないかと思ってはいるんですが」

 それなら歯型はなぜ、薫子のものを再現していたのか。公輝の頭の片隅に、見た記憶でも残っていたのだろうか。

「私もその意見に賛成だけど、ここまでのは経験したことがないわ。まあ集団ヒステリーを消す薬はないし、これまでどおり状況に合わせて柔軟に対応していくしかないね。園長には報告しとくから」

「ありがとうございます。あの」

「ん?」

「……なんでもありません。戻ります」

 報告を副園長に任せ、頭を下げて職員室を出る。

 「ここにもエクソシストってあるんですか」。尋ねたかったが、相応しくない問いに思えて飲み込んだ。

 うちは宗教法人「信仰のひかり」教団付属の幼稚園で、園長は主任牧師が兼任している。開祖はプロテスタントの主流教派から離脱した牧師で、自身の理念の元に新しく教団を設立した。設立して九十年ほどの、一応はプロテスタントの流れを汲んだ新宗教だ。

 私自身は、幼稚園と中学から大学までをプロテスタント系学舎で過ごした。もっとも受洗はしていないからクリスチャンではないし、ここでも洗礼は受けていない。

 職員のほとんどは教会員で、私のような中途半端なタイプはほぼいない。教会員の子女御用達の園であることを考えれば、あまり歓迎されない立場だろう。それでも早いもので今年で勤続五年目、結婚どころか彼氏の気配すらないまま二十七になってしまう。

 それはさておき、エクソシストはカトリックの悪魔や悪霊祓いの専門家のような位置づけだったはずだ。バチカンがエクソシストの養成講座を始めたとか、そんなニュースを聞いたこともある。

 一方で、プロテスタントのエクソシストは聞いたことがない。

 うちも普通に悪魔が出てくる聖書を読んでいるのだから、悪魔自体はいる認識だろう。とはいえ、牧師が説教の中で「悪魔が」「悪霊が」と殊更強調しないことを考えると、あまり重要視していないのかもしれない。それに、もしあったとしても、だ。

 これは、悪霊の仕業になるのか。薫子は光の子どもでありこそすれ、悪であるわけがない。幼気な霊を貶めて良いわけがない。ましてや、かわいい教え子だ。

 もっと、薫子のためにできることがあったのではないだろうか。心のどこかで、幸絵との対話を諦めてはいなかっただろうか。関わり方が慎重すぎたのではないか。もっと積極的に介入し、ネグレクトの証拠を吐き出させて児相に保護してもらえば良かったのではないか。もっと、何か。愛情不足は目に見えて分かっていた。

 私がここで与えられたものなんて、ごく僅かだ。あれごときで足りたわけがない。

――せんせい、だいすき。

 屈託のない笑顔を思い出しながら、自由になった左手を眺める。薫子を連れながら、片手で仕事をしていた日々が懐かしい。せめて卒園まで、成長を見守りたかった。

 気を抜くと浮かびそうになる涙を堪え、手を下ろす。不意に掴まれた感触があって、笑顔を向けた。予想では誰かの笑顔があるはずだったのに誰も、何もなかった。

 一瞬ひやりとしたものを感じたが、すぐに改める。

「薫子ちゃん、みんなと一緒に遊ぼうか」

 心残りがあるのなら、満たしていけばいい。祖母は確か、亡くなった人は四十九日の間はまだ成仏しないと話していた。薫子は教会員の子女ではないし葬式も仏式だったようだから、そちらが適用されるのかもしれない。天国じゃなくて少し戸惑うかもしれないが、同じように光に迎えられるはずだ。その日までもう少し預かると思えばいい。考え方を変えれば、受け止め方も変わる。

 気持ちを切り替えつつ、教室へ戻る。既に園児達は調子を取り戻したらしく、明るい笑い声が響いていた。高橋先生と目配せで確かめ合いつつ、少し遅れた活動に取り組む。来週行う予定の、親子遠足で踊るダンスの練習だ。延期を望む声もあったが、子ども達は楽しみにしている。PTA会長とも相談し、これ以上変化によるストレスを与えない方針で合意に至った。

 音楽を流しつつ、前に立って踊りの手本になる。私が声を掛けつつ手本を見せると、嬉しそうに真似をする。体中で全てを楽しもうとする子ども達は、エネルギーの出し惜しみを知らない。全力で遊び、ご飯を食べて電池が切れたかのように眠る。きらきらと輝く、まさに光のようだ。

 とはいえ薫子は、喘息の躊躇いを抜きにしても、あまりダンスが好きではなかった。私と何かをするのでなければ、一人で黙々と絵を描いたり本を読んだりするのが好きな子だった。もちろんそれは特性の一つで尊重すべきものだが、薫子の場合は関わり方が不得手だったせいでもある。私との間ではうまくできることが、同世代の子どもとはうまくできなかった。順番を待つとか譲るとか貸すとか、我慢を強いられる場面をひどく嫌った。

「みんな、素敵なお花の形ができたね」

 めいめいが手で作ったかわいらしい花を褒めた途端、ぶつりと音が切れる。詫びつつ確かめたラジカセは、電源が切れていた。しかし電源を押し直しても変わらない。不思議に思い裏を確かめると、電源コードが途中で切れていた。

 短くなったコードを手に、思わず振り向く。もちろん、薫子がいるわけはない。でも、じゃあ、誰が。一番前に立つ私の後ろには、誰もいなかったのに。

「岸田先生?」

 控えめな声に我に返ると、高橋先生が傍にいた。動きを止めた子ども達も、不安げに私を見つめている。ああ、しまった。

「大丈夫ですか」

「ああ、はい、ちょっとラジカセの調子が悪いみたいで」

 高橋先生に事実を伏せて伝える。

「じゃあ私、備品庫から取ってきますよ。大丈夫です」

「ありがとうございます。すみません、お願いしますね」

 憔悴したように見えたのか、高橋先生は私を労ったあとクラスを出て行く。だめだ、しゃんとしなくては。

「ごめんね、ラジカセが壊れちゃったみたい。高橋先生が新しいのを持って来てくれるまでは、先生が歌いまーす。みんなも歌えたら歌ってね」

 はーい、と明るい答えを受けて、最初から歌いながら踊り始める。このクラスに、何が起き始めているのか。さっきまではいくらか明るい気分でいたのが、今は不安が抑えきれない。このままだと、この子達を守れなくなるのではないだろうか。

 一度感じ始めたら、どうしようもない。薫子に対する思いは再び、不安と恐怖に占められ始めていた。

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